城データ

城名:井上土居屋敷

別名:無し

標高:194m

比高:5m

築城年:不明

城主:井上氏

場所:広島県三次市畠敷町

北緯:東経:34.809704/132.892327

井上土居屋敷はここ

 

攻城記

現在はほとんど宅地化しており当時の様子はうかがいしれない。

先端部分(虎口)

若干の遺構が残っている。

先端部分が高さが若干ある。

土塁部分。

現在は部分的に墓所となっており、それが奏功して遺構が残っている。

井上土居屋敷跡から比叡尾山城を臨む。

 

永福寺跡

永福寺跡にある井上佐渡守高重の墓

石には
戒名として「松岳常久禅定門」とあり、その下に「逆修」と刻まれており生前に建てられた墓である。

 

年号は「天文廿二年」とある、また「井上佐渡守高重」の横に「丁卯歳」とある

この事から分かるのは井上佐渡守高重は「丁卯」の年(永正4年、1507)に生まれており、天文22年(1553)には彼は数え年で47歳になっていた事になる。

天文22年頃はは尼子がこの地方に侵入して口和で和泉合戦があったり、高杉城でも祝氏が毛利に攻められて滅亡、旗返城でも江田氏が滅亡するなどいつ亡くなってもおかしくない状況であった。

「芸藩通志」では永福寺が永禄6年(1563)に井上佐渡高林建立とあるので高重もしくはその縁者が永福寺を建立したものと考えられる。

位置関係

戦後すぐの航空写真。

現在の航空写真。

本来はこの白枠の範囲内辺りが井上佐渡守の屋敷跡があったのではないかと推測する。

 

余湖図【井上土居屋敷】

当時のイメージ図(余湖図コレクションより引用)

 

『芸藩通志』【井上土居屋敷】

拡大図。

 

城の概要

南西は道路のため一部削平されており、規模は現況で約65m×45mである。北辺部に土塁が残り北西隅が虎口と考えられる。

 

『広島県中世城館遺跡総合調査報告書』より引用

 

井上佐渡守土居屋敷跡

『芸藩通志』「三次郡の城墟・宅址戦場附」の部には「井上佐渡守宅跡畠敷村竹組、井上佐渡守宅址、井上佐渡別館址、同村古土居にあり」と二箇所を記し絵図にも二箇所の標記がある。

 

本遺跡は絵図の位置からして「古土居」の方にあたる。

 

また立地や規模から考えて、屋敷跡ではなく「館」の機能をもった遺跡である。

 

三吉氏の居城・比叡尾山城から南東約一五〇〇㍍で、山裾の標高二二五㍍の南北に長い尾根の北側を切断して周囲の水田面から比高約五㍍の低丘陵上に位置している。

 

現在は県道によって南北に分断されているが、明治三一年(一八九八)の地形図には道は標記されておらず、従来は南側の平坦部も土居屋敷であった可能性が高い。

 

従って北側に土塁を伴う遺構が残る中枢部の三六×六〇㍍を含んで、推定一一〇×二八〇㍍の範囲が土居屋敷跡と推定される。

 

ただし県道南側は宅地等により遺構の確認は困難である。

 

平成八・九年(一九九六・九七)に一部発掘調査が実施された。

 

土居屋敷に伴う遺構として掘立柱建物一棟、井戸跡、溝跡、堀等が見つかった。

 

中でも堀は上部の幅約九㍍、底部の幅約三㍍、深さ約四㍍、長さ南北に三〇㍍の箱薬研堀形式で、東端は未発掘なので完全に南北を分離する堀であったのかは不明である。

 

一方、防御的な観点から、これだけの堀を設けるのであれば構築当時は、より防御性が高いV字形の薬研堀を設けるのが普通である。

 

あるいは館の廃絶後、生活道として拡張されたとも考えられる。

 

井上氏について『芸藩通志』は「井上新左衛門は三吉隆亮が妹甥たり、京都に没す、子京稚丸とよぶ、隆亮召して家老とし、亦井上新左衛門と称す、後に佐渡高重と改む」とある。

 

その井上高重の墓が本遺跡の北西三〇〇㍍の永福寺跡にあり、天文二二年の刻銘を有す。

(新祖隆太郎)

 

①三次市教育委員会『井上佐渡守土居屋敷跡』一九九八年

 

②中畑和彦「三吉家老井上高重の墓石」『みよし地方史四一号』一九九六年

 

『三次市史第2巻』より引用。

 

三吉氏の居城・比叡尾山城から南東約1500mで、山裾の標高225mの南北に長い尾根の北側を切断して周囲の水田面から比高5mの低丘陵上に位置している。

現在は県道によって南北に分断されているが、明治31年(1898)の地形図には道は表記されておらず、従来は南側の平坦部も土居屋敷であった可能性が高い。従って北側に土塁を伴う遺構が残る中枢部の36×60を含んで、推定110×280の範囲が土居屋敷跡と推定される。

平成8・9年(1996、1997)に一部発掘調査が実施された。

土居屋敷に伴う遺構として掘立柱建物一棟、井戸跡、溝跡、堀等が見つかった。

 

中でも堀は上部の幅約9m、底部の幅約3m、深さ4m、長さ南北に30mの箱薬研堀形式で、東端は未発達なので完全に南北を分離する堀であったかは不明である。

一方、防御的な観点から、これだけの堀を設けるのであれば構築当時は、より高い防御性が高いV字形の薬研掘を設けるのが普通である。
あるいは、館の廃絶跡、生活道として拡張されたものと考えられる。

 

城の歴史

特に城の歴史は残っていないが、三吉氏の家老として幾たびかの戦に出ていったのであろう。

 

城主家系図

 

城主(一族)石高

三吉氏の家臣の為不明。

 

井上一族

井上佐渡守高重
幼名、井上京若丸 (前田駿河守秀貫次男)

12歳の時父と別れ母と共に三吉に帰る。

元服して井上新左衛門高重と名乗る また 佐渡守と改める。

家老職を務める 。

八次村今之蔵屋敷に住す(井上土居屋敷の事)

「芸藩通志」では「井上新左衛門は井上隆亮が妹甥たり、京都に没す、子京稚丸とよぶ、隆亮召して家老とし、亦井上新左衛門と称す、後に佐渡高重と改む」とある。

 

井上高令
井上新左衛門 後に日向守と改める。

室は小滝丹後守娘。

※しかし後妻の子ども。

 

井上高房
井上宗右衛門 長州萩へ下向。

 

 

所感

●明治以前はきちんと屋敷跡もあったと思われるが道が出来て南北分断、しかもその後残っていたところも平成になり、更に家が立ち並び現在は北側の10mくらいを残すだけになった。

 

●当時は館といっても堀もありしっかりと防御面も兼ね備えた館であったと思われる。

 

●現在でも子孫の方がおられるらしい。

 

●道路があり分断されているが、南側部分も土居屋敷だったと思われる。

 

関連URL

【広島県】比叡尾山城【三次市畠敷町】

主君の城。

【広島県】比熊山城【三次市三次町上里】

主君移転後の居城。

 

参考URL

城郭放浪記(井上土居屋敷)

 

参考文献

『三次市史』

『日本城郭大系』13

『広島県中世城館遺跡総合調査報告書』

『広島県の地名』

『広島県地名大辞典』

『広島の中世城館を歩く』

『萩藩諸家系譜』

『毛利八箇国御時代分限帳』

『萩藩閥閲録』

公開日2022/03/18

 

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