城データ

城名:嶽尾城

別名:嶽之城

標高:不明

比高:不明

築城年:戦国時代か

城主:遠藤美作守

場所:広島県廿日市市城内

北緯:東経:34.359385/132.337940

在りし日の嶽尾城はここ

 

攻城記

あのマンションがある場所に当時嶽尾城があった。

地名が城内。

城があった場合。

現在でも2m位の比高がある。

今はマンションになっており、ここに城があったとは誰も知らない。

高低差が僅かに分かる。

城内といっても嶽尾城のことではないかもしれない。

 

位置関係

現在の航空写真

1960年代の航空写真

 

城の概要

七嶽尾城(嶽之城)

嶽尾城は、国鉄廿日市駅東方の汽車線路、電車線路に挾まれた竹尾山で、大半が宅地化され て旧状をとどめていないが、城址の北東に城内 という地名が残されている。

 

天文二三年(一五五四)六月五日明石口の合戦、九月一五日折敷畑山の合戦後、陶勢は友田 (佐伯町)に高立城(高森城)を築き、これに対し毛利方は向城とし狼倉山城(別掲)、佐方の嶽尾城を築いて遠藤美作守を置いた。

 

遠藤美作守は、飯室(広島市安佐北区安佐町) の恵下山城主遠藤氏の一族と思われ、応永一一 年(一四〇四)九月安芸国人一揆契状連署二三 名の中に、遠藤修理亮直俊の名が見え、永正一 四年(一五一七)有田合戦で、武田元繁に従い遠藤氏の名が見える。

 

武田光和の臣で遠藤左京亮利之が見え、武田氏滅亡後遠藤氏は毛利氏に降りた。

 

天文二三年(一五五四)毛利元就の神領陶方 の城攻めに遠藤美作守は従っており、後に嶽尾 城を守備した。

 

嶽尾城は厳島合戦後に廃城となったものと思われる。

 

『桜尾城とその時代』より引用

 

城の歴史

天文21年(1552):遠藤美作守の倅者として「木次左衛門尉」「中間助五郎」「漆谷雅樂助」「高 平右衛門尉」「日那助右衛門尉」らが備後国志川瀧山城を攻めた時に怪我をした記録がある。

 

天文23年(1554):明石口の合戦時に陶晴賢が廿日市市友田に高森城を築いた為、それに対抗する向城として嶽尾城を築いたらしい。

 

城主(一族)石高

遠藤修理

106.019石

内訳

15.000 周防 熊毛

91.019 備後 神石

 

遠藤 六郎兵衛

53.835石

内訳

30.291 安芸 佐西

8.291 安芸 山県

15.354 周防 佐波

 

ひょっとしたら遠藤六郎兵衛が遠藤美作守に縁のある人物か?

 

所感

●現在は山が跡形もなくなり、マンションや宅地化されていたが、平成のはじめ頃までは山もあった。

 

●友田興藤の立て籠もる桜尾城を嶽尾城 篠尾城 岩戸尾城の3城で囲んでいたこととなる。

 

●対陶晴賢戦でも、重要な役割を果たしていたようだ。

 

関連URL

【広島県】篠尾城【廿日市市天神】

【広島県】岩戸尾城【廿日市市佐方】

 

参考URL

廿日市の中世城跡

七尾城に関する史料

 

参考文献

『棚守房顕覚書付解説』

『桜尾城とその時代』

『廿日市町史』

『日本城郭大系』13

『広島県中世城館遺跡総合調査報告書』

『広島県の地名』

『広島県地名大辞典』

『広島の中世城館を歩く』

『萩藩諸家系譜』

『毛利八箇国御時代分限帳』

『萩藩閥閲録』

 

公開日2024/03/17

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