城データ
城名:宗高尾城
別名:当時は宗高城か
標高:93m
比高:43m
築城年:戦国時代か
城主:糸賀宣棟
場所:広島県廿日市市上平良、宮内
北緯:東経:34.355562/132.314596
攻城記
記念の石碑。
現在は公園になっている。
現在は崩されて公園になっている。
南には小学校になっている。
前方のタンクのある場所は谷宗尾城。
ここの曲輪跡だったか。
麓には川が流れており堀の役割をしていたと思われる。
位置関係
余湖図【在りし日の宗高尾城】
当時のイメージ図(余湖図コレクションより引用)
『芸藩通志』【宗高尾城】
城の概要
標高93mの最高所を中心として,尾根を分断するように東西に堀切を設け,独立させている。
最高所の郭が最大で,規模は43m×24mである。
この郭の周囲はすべて急斜面である。南と北に郭群を,東と西の尾根続きには狭い堀切を設けている。
城主は糸賀氏との伝承がある。
『広島県中世城館遺跡総合調査報告書』より引用
四 宗高尾城
宗高尾城は、可愛団地の南標高九三米の宗高山にあり、東西に二つの堀切を設けて、長尾の峯を分断し独立させている。
頂上は本丸の平壇で、広さは約九九〇平方米(三 〇〇坪)ある。
南の宮内側は比高約七〇米で、斜面の中央附近に竪堀を設けており、両側に七段の 平壇がある。
北の平良側は比高約四〇米で、斜面に六段の平壇があり、北麓にある小川は人工的 城山附近に迂回させ、堀の役目をさせていたものと思われる。
其の他に数段の小さい平壇が見られるが、郭であるかどうか詳しい調査をしないと不明である。
城山には、矢の材料としていたと見られる矢竹が生い茂っている。
七尾城(芸藩通志にいう)の一つである。
宗高尾城が文書に出てくるのは、大永四年(一五二四) の友田興藤感状で「嶺高」とあり、文政二年(一 八一九)の国郡志御用に付郡辻書出帳に宗高尾城、 峰高尾城となっており、桜尾城を巡る攻防の頃に は「尾」はついていなかったものと思われる。
宗高尾城は、神領衆糸賀(糸川、糸河)平左衛尉宣棟の居城である。
宣棟は、神主職継承争いで桜尾城に入り神主を称した友田興藤に従い、浅原(佐伯町)で大内勢と戦った。
大永四年(一五二四)六月大野女瀧(大野町妹背滝)に出陣し、大内勢に対陣していたが敗れ退き、宣棟の居城である嶺高で大内勢と戦った。
七月二五日の桜尾城の攻防で、寄手の勝屋甚右兵衛尉、渡辺掃部助、青目喜三等を討ち、兄糸賀中務丞藤棟と共に高名をあげ、二六日には天神山、岩戸山で戦った。
大永五年(一五二五)友田興藤は、宣棟に廿日市の浮口改を与え、宣棟の二男平次郎にも三島郷内平谷(佐伯町)一名と廿日市、平良の間の下地一町を与え た。
神主家滅亡後、宣棟は毛利氏に従い、 天文二三年(一五五四)に高井、寺地、 坪井(各五日市町)の二〇貫文の地と廿日市の居屋敷、厳島有の浦の仮屋を給地とし与えられ、桜尾城に在番して桂広繁の一所衆として活躍した。
折敷畑の合戦頃の宗高尾城は、毛利方 の出城として陶勢に対していたが、厳島合戦後に廃城となったものと思われる。
『桜尾城とその時代』より引用
『萩藩閥閲録』より引用
赤字の部分の文献。
宗高尾城
宗高尾城は可愛団地の南、標高九三メートルの宗高山にあり、東西に切り通し状の場切を設けて尾根から分断し独立させている。
城跡の最高所である第一郭は約九九〇平方メートルの広さがある(図N-79、80)。南の宮内側は比高約七〇メートルで、南側斜面の中央付近と東西の堀切付近に堅堀を設けている。
西側の堀切は堅堀に接続しており、東側は尾根を切り通して峠越への道としている。
南側斜面には階段状の郭が設けてあり、中央堅堀の東側に四段の郭と西側に五段の郭と腰郭が設けてある。
東側最 上郭と西側最下の郭は大走りで接続してあり、西側の最上郭と腰郭が大走りで接続してある。
北の平良側は比高約四〇メートルで陆段状の郭が七段あり、この郭群から弓状の細長い郭が西側堀切上に達してい る。
西側の堀切上には二段の郭があり、東側には墓地となっている平坦面があるが後世に削平されたようである。
鍵にある小川は不自然な流れ方をしており、人工的に城山黄に迂回させて堀の役目をさせていたものと思われる。
本城には厳島神主家の有力な神領衆である糸賀(糸川)平左衛門尉宣棟が居城していたとされる。
『廿日市町史』より引用。
宗高尾城跡の発掘調査
宗高尾城跡は、廿日市市上平良字宗高尾、宮内字峰高ほかの山上に所在する。
この城に関する文献史料や伝承記録などはほとんど残っていない。この城を築いた城主は誰か。どのような戦いが繰り広げられたのか。いつ、どのようにして滅んだのか。このような疑問に答え、城の歴史をたどることはできないのである。
しかし、ここは前にも見たように交通の要衝である。
ここから御手洗川沿いに山中の街道をたどれば津和野に抜けるし、海岸沿いには防府、山口を経て九州へ通じている。海上交通も宮島と指呼の距離にあり、厳島神社の神主の居館が対岸の桜尾城にあることを思えば、陸路・海路の要衝であったことがうなづける。
すなわち、周防側からすればここは安芸に一歩踏み込んだ最前線にあたる。
逆に、安芸にすればこれ以上踏み込まれてはいけない門口になると同時に、西国方面へ踏み出す足がかりとなる重要な地域でもある。
当然、ここを舞台に激しい戦いが幾度となく繰り広げられたことは想像にかたくない。
発掘調査で得られた資料を解きほぐすことによって、いま少しそのあたりの歴史を考えてみよう。
宗高尾城跡の主な遺構と遺物
宗高尾城は、細くのびる丘陵が海に没する串戸の崎から約1.5km奥へ入った標高93mの尾根の一頂上に築かれていた。
その頂上は、尾根の両側がくびれて一段と高く独立峰的に盛り上がり、東西約50m、南北15m〜25mのかなり広い平場が形成されていた。
そこを城の中心となる主郭とし、東西に連なる尾根は堀切って遮断し、南北に派生する小尾根には雛壇状に郭(曲輪)を配置するなどの施設を設けていた。
主要遺構の配置は図11のとおりで、次にその主な遺構についてみてみる。
おわりに
宗高尾城跡の調査は、予想もしなかった山岳密教に関連する遺構の検出により、城としての宗高尾山にとどまらず、平安時代の修験の世界を対象とする新たな研究の分野を提供した。さらに城郭遺構においても、遺存状況もよく、その構造や内容面は戦国時代の城として遜色のないものである。
こうした調査成果は、今後の研究に大きく生かされていくであろうと信じる。
宗高尾城に関する文献史料はほとんど見られないが、この地域に本拠を置く厳島神領衆の中でも有力な糸賀(糸川)平左衛門尉宣棟が守備していたといわれる。
神領とは厳島神社の神主家の領地で、その社領を管理する土着の土豪を、戦国時代、神領衆と呼んだのである。神主家は廿日市市所在の桜尾城に本拠を置き、この地域を支配した。
しかし、戦国時代の群雄割拠の中、神領衆の分裂、桜尾城主の相続争い、大内氏との間に繰り広げられた桜尾城の攻防、など厳島神社の支配をめぐる抗争が桜尾城を中心に繰り広げられた。
ちょうどこの時期、畿内では城郭の外構えが形成される段階にあたり、のちに総構えが完成されるのである。
桜尾城の構えがどのようなものであったのか、どのように変遷したのか、これからの調査課題であるが、桜尾城を取り巻く防備はかなり進んでいたように思われる。
桜尾城は海に面した独立丘で、自然の要害に造られていたが、その陸地側は、西に向かって二重の防御線が形成されていたのである。
海に向かって細く張り出す丘陸上に、等間隔に配置された藤掛尾城、越峠尾城、谷宗尾城、宗高尾城、丹渡尾城の5城が第一(一重)の防衛線を構成する。
つぎに、第二の防衛線(二重)として篠尾城、嶽尾城の2城が桜尾城を取り巻く。
このような二重の防衛線は、大永4(1524)年の桜尾城の攻防で、大内の陶勢が桜尾の二重まで攻め込んだが撃退されたという「桜尾ノ二重」を指した構えではないかと推定される。
すなわち、自然の要害と神領衆による防御機能をうまく取り入れた構造であった、といえよう。
第一の防衛線では、その城の配置や構えなどから推察して宗高尾城がその司令塔の役目からを担っていたものと思われる。
そして丹渡尾城は、宗高尾城の搦めての城として物見的な役目を負っていたものと推定された。
『廿日市市 宗高尾城跡 丹渡尾城跡 発掘調査の概要』
より一部引用
城主家系図
城主(一族)石高
1554年頃:20貫(11貫:高井之内、5貫:寺地之内、4貫:坪井之内)
1589年頃:糸賀 内蔵助 54.613石 (安芸 佐西)
所感
●今はすでに公園化され、原型をとどめていないが、高所から遠くを見ると、眺望が良い事が分かる。
●七尾と呼ばれる城郡の中では最後まであったが開発で消滅、是非とも残して貰いたかった山城。
●眺望がよく、谷宗尾城もよく見える
●当時は(尾)はなく宗高城だったと思われる。
関連URL
参考URL
参考文献
『廿日市市 宗高尾城跡 丹渡尾城跡 発掘調査の概要』
『棚守房顕覚書付解説』
『桜尾城とその時代』
『廿日市町史』
『日本城郭大系』13
『広島県中世城館遺跡総合調査報告書』
『広島県の地名』
『広島県地名大辞典』
『広島の中世城館を歩く』
『萩藩諸家系譜』
『毛利八箇国御時代分限帳』
『萩藩閥閲録』
公開日2024/03/04