城データ

城名:有岡城

別名:伊丹城

標高:20m

比高:5m

築城年:鎌倉時代末

城主:伊丹氏、荒木村重、池田之助

場所:兵庫県伊丹市伊丹2丁目

北緯:東経:34.781327/135.420851

有岡城はここ

 

攻城記

転用石。

空堀。

 

史跡 有岡城跡(主郭部)

 

天正2年(1574)、織田信長の部将荒木村重が伊丹城を攻め、伊丹氏を追放し入城。摂津国(現在の兵庫県〜大阪府の一部)の中心であり、伊丹台地の地の利を最大限に活かし、最東端に城(主郭部)、その西に城下町(侍町・町人町)をもつ《惣構》の城を整備し、「有岡城」と改名した。

 

惣構内の北・西・南端に外城(砦)を配し、幾重にも堀を配していた様子が発掘調査から明らかになった。

 

村重は信長配下で摂津守として活躍したが、天正6年、信長から離反し、1年近い戦いの末に翌年落城。

 

戦災で城・侍町は焼失した。その後、信長配下の池田之助が城主となったが、信長死後、天正11年に美濃国に転封となり、城は廃された。

 

江戸時代、焼け残った町を基盤にし、江戸積酒造業を基幹産業とし元の惣構全体が伊丹郷町として復興した。

 

城跡は「古城山」等と呼ばれた。

 

明治時代、鉄道や停車場(現伊丹駅)建設工事に伴い、城跡(主郭部)の大半が削平された。

 

1975年以降実施した発掘調査により、土塁内の石組みや建物・庭跡等、貴重遺構が残されていることが判明。

 

市は保存を決定。国史跡に指定され、史跡公園として整備した。

 

2019年3月 伊丹市教育委員会

 

open-hinataより【有岡城】

 

戦前の航空写真

『日本城郭大系』13より引用

 

城の概要と歴史

 

鎌倉時代、摂津国は六波羅北方が守護し、そのもとに直接各地域を統治する 関東御家人(武士団)が配置されていた。

 

そのうちの一人に伊丹氏を名のる御家人がおり、久しくこの城を居城としていた。

 

伊丹氏の起こりについては不明な点が多いが、鎌倉時代の末頃には確実に存 在していたようである。

 

その初見は延慶二年(一三〇九)の「六波羅下知状案下 司濫妨停止事」「東寺百合文書」の中にみえる伊丹四郎左衛門入道妙智とされ ている。

 

六年後の正和四年(一三一五)には大山崎「離宮八幡宮文書」の中に伊丹左衛門三郎親盛の名がみえ、また、この親盛が六波羅へ送った自筆の注進状「離宮八幡宮文書」)がある。

 

この注進状には藤原親盛と署名されているが、この親盛と三郎親盛とは同一人物である。

 

この四郎・三郎の両名が伊丹氏を名の る最初の登場人物である。 ところで、水戸彰考館に「森本氏系図」という伊丹氏に関係した系図の写し が残されている。

 

この系図は信悪街が高いといわれ、伊丹氏を考えるうえで一 つの手がかりになっている。

 

森本氏は文治三年(一一八六)に関東御下文を拝領 した加藤右馬允親俊から分かれた伊丹氏の庶子家で、のちに森本氏を名のった。

 

森本氏と伊丹氏の関係は暦応二年(延元四、一三三九)四月に森本彦七基康が森 本大路村ので司公文職や配・富などを父であった故入道殿から譲られた時、 その譲状中に「本御下文等は惣領伊丹殿のもとに候」とあることからも明白で、 惣領家と庶子家の間柄であった。

 

その系図によれば、伊丹氏は親俊ー親長―親元―親資―親盛の順に記され、 その中に伊丹左衛門三郎親盛の名がある。

 

伊丹四郎左衛門入道妙智の名に関す る記載はないが、親盛より早く史料にみえることからして、妙智は親盛の先代 の親資と思われる。

 

次に伊丹右馬入道の名が親俊の二代後の親元の所に脇書さ れていることに注目したい。これは伊丹氏の起こりとも関連することで、系図 をみる限りでは伊丹氏を名のる最初である。

 

おそらく親元の頃から伊丹氏を名のったと考えられる。 伊丹四郎妙智と三郎親盛は、その史料の内容から関東御家人の中でも守護代 官的な重職、つまり守護の両御使の役目を司るほどの地位にあって、西摂の要 ともいえる伊丹近辺の支配をまかされていたと考えられる。

 

そして伊丹城は この伊丹氏によって築かれたのであろう。

 

それは当初、居館的なものであったが、中世戦国の世を戦い抜く中で城塞化していったと考えられる。

 

正慶二年(元弘三、一三三三)に鎌倉幕府が倒れ、続いて後醍醐天皇による建武新政が開始された。

 

その新政も恩賞などをめぐって内部の対立が早くも激化し、 建武二年(一三三五)に足利尊氏が鎌倉に挙兵して、南北朝の戦乱が始まった。

 

そして翌年二月には西摂平野一帯で尊氏軍(北朝方=武家方)と楠木正成・新田義貞軍(南朝方=宮方)が終日戦闘を繰りひろげた。

 

おそらく伊丹地方も戦火に 巻き込まれたであろうが、この時期の伊丹氏の動向については不明である。

 

(中略)

 

こうした状況の中で伊丹城は永正八年八月、澄元側の播磨守護赤松義村の攻撃を受けた。

 

以来、伊丹城は再三再四、攻撃の的となった。その戦火の記録を列挙すると、次のとおりである。

 

●永正十七年(一五二〇)二月、伊丹城落城。これは記録にみる最初の落城で ある。昨年から摂津に進撃して来た澄元勢は尼崎・伊丹・池田に総攻撃をか け、高国勢を敗走させた。

 

伊丹城に立て籠もる伊丹但馬守・野間豊前守の二 人は、四方の城戸を閉め、家々に火をかけ、天守で切腹した。

 

その後、澄元 は伊丹に入城するが、高国の反撃に遭い、播磨へ引き返した。

 

●大永七年(一五二七)二月、澄元の死後、その子晴元が遺志を継いで挙兵し、 摂津一帯を手中に収め、伊丹城を包囲攻撃した。

 

しかし伊丹城の守備は堅く、 落城しなかった。

 

●大永七年九月、再度、晴元勢は三好元長を大将に柳本賢治らをして伊丹城 を攻撃する。一か月余りの攻撃にも城は落ちなかった。

 

●享禄二年(一五二九)十一月、伊丹城は柳本賢治の不意の攻撃に対し、三か 月にわたって善戦したが、伊丹大和守元扶ら三〇名が自対して落城した。

 

あとには晴元の被官高畠甚九郎が入城した。

 

●享禄三年(一五三〇)六月、高国勢が播磨で柳本を討ち、反撃に転じ、伊丹城に高畠甚九郎を攻めた。

 

翌年二月に和議が成立し、高畠氏は伊丹城を明け渡し、池田へ退いた。

 

●天文二年(一五三三)三月、この頃、各地で猛威を振るっていた一向一揆は、 ついに伊丹城にも押し寄せた。堅固な伊丹城も「らうかといふ物を一町あま りづつ二通りこしらへ、昼夜の境なく尼女迄集り堀をうめければ、難儀に及 候処」今細川両家記』とあるように、陥落寸前となった。

 

しかし、京からの 救援軍が一揆衆を背後から襲い、伊丹城を救った。

 

●天文十八年(一五四九)正月、近畿一円を制圧した三好長慶が自ら伊丹城 包囲攻撃した。

 

これは長慶と晴元・三好政長の対立が激化し、長慶が摂津・河 内・和泉の勢力を味方につけたのに対し、伊丹氏が呼応しなかったためである。

 

伊丹城は非常に堅固な城であったため、長慶は森本や垣富や前田城や御願塚および小屋(昆陽)城に陣を備え、伊丹城の四方を固めて長期戦となった。

 

戦闘は一年以上にわたり、翌年三月に伊丹親興と和睦が成るまで続いた。

 

●永禄九年(一五六六)七月、将軍足利義輝の跡継ぎを狙う足利義親(のちの将軍足利義栄)は、篠原長房に摂津を攻めさせ、伊丹城を攻撃させた。

 

これをに対して伊丹親興は長房に寝返って義親に臣従する道を選んだ。

 

以上が記録にみる戦国時代の伊丹城の歴史である。

 

そのうち、落城の記録は 二回しかみえず、戦国大名をして「伊丹城は堅固なり」といわせた程、防備の 厳重な城であったことがわかる。

 

伊丹城は西摂津の要としての役目を充分に果 たしていたといえよう。

 

永禄十一年(一五六八)九月、織田信長は十五代将軍足利義昭を奉じて入京し、 たちまち山城や摂津一帯を制圧した。

 

伊丹氏は従前からの将軍家との関係や三 好三人衆・松永久秀らと反目していたため、ただちに信長に従属する行動をと った。

 

摂津を制圧した信長は、芥川城の和田惟政、池田城の池田勝正と共に伊丹氏を摂津の三守護に任命し、伊丹氏に所領三万石を与えた。

 

この時の伊丹城主は 親興であったのか、忠親であったのか、定かでない。『続応仁後記』などに親興の名が記されており、一般には親興と考えられているが、現在では忠親を有力視する説が出されている。いずれにせよ、ここに伊丹氏は戦国大名の一員となった。

 

元亀四年(一五七三)七月、信長は将軍義昭を追放し、室町幕府は倒壊した。 将軍家側近の伊丹氏は、信長になじめなかった。

 

そこで信長は、池田勝正の家臣として頭角を現わし、茨木城にいた荒木村重に命じて池田・伊丹両氏を討たせた。

 

村重は、もとの主君池田勝正を高野山に追放したのち、伊丹城に攻め寄 せて伊丹氏を滅ぼした。

 

天正二年(一五七四)十一月のことである。 当時、信長は一向一揆鎮圧のため、大坂の石山本願寺とも戦っており、西方からの攻撃拠点として伊丹城を重視していた。

 

信長は村重を摂津の新守護に任命し、三十八万石の知行を与え、伊丹城に入城させた。

 

村重はただちに新しい 城造りに着手し、城名を有岡城と改めた。

 

ところが、天正六年の秋、本願寺攻撃の前線にある村重が、本願寺に内通し たといううわさが信長の耳に入った。

 

信長は大きな打撃を受け、本願寺・毛利 氏との和睦を朝廷に願い出たほどである。

 

しかし、信長勢が毛利の水軍を木津川口に破ったことから攻勢に転じ、同年十一月、信長による有岡城の攻撃が開始された。

 

十二月の初め、信長勢は鉄砲と火矢を射って、有岡城に押し寄せた。しかし、城の守りは堅く、信長勢の被害は予想外に大きかった。

 

信長は長期戦の構えをとり、自ら古池田(池田城跡か)に陣取り、塚口・食満(以上、尼崎市)、加茂 (川西市)、倉橋・原田・水根班(以上、豊中市)などに信長勢を布陣させ、有 城を包囲した。

 

時には村重勢も城外に出撃したが、一進一退のまま一年に及ぶ 持久戦となった。

 

十一月の攻撃以来十か月、有岡城は本願寺や毛利氏の救援もなく、兵糧も少なくなってきた。

 

そうした九月二日、村重は数人の近習を連れて闇夜にまぎれ て有岡城を脱出し、尼崎城に逃れた。

 

村重が城を出た理由は援軍要請のためとされているが、功を奏さないまま村重は再び城へは戻らなかった。

 

城主なき後 も、一か月半にわたって城は堅固に守られていたが、裏切り者が出て、十月十 五日、有岡城の砦の一つである女郎塚砦が開かれた。

 

勢いに乗る信長勢は、 家を占拠し、城と町との間にある侍屋敷に火をかけ、城を裸城にしてしまった そして岸の砦と鴨塚砦も陥り、落城も時間の問題となった。

その時の様子を信長は徳川家康と河尻秀隆に宛てた黒印状(十月二十四日・ 二十七日付)の中で、「外構えをことごとく打破り、あとは天守を攻め落とすの みとなり、近日中にも落城させるであろう」としたためている。

 

天守攻めのことは「諸手四方より押つめ城楼かねほりを入責られ」(『信長記』池田家文庫本) と記されているように、かねほり=トレンチを掘って攻め入ったとある。

 

こうして一年にわたる攻防の末、天正七年(一五七九)十一月、有岡城は落ちた。

 

謀叛者村重に対する信長の仕打ちはすさまじく、一族郎党は、ある者は切り殺され、ある者は磔刑にされたり、焼き殺されるなど、惨殺の限りを尽くしこの残酷なまでの処刑は、信長の最大の敵である石山本願寺にも大きな影響を与えた。

 

それは天正八年に本願寺顕如上人が信長と講和した事情を説明するため、諸国門人衆に宛てた書状中に、「然時は有岡・三木同前に可成行事眼前候」 とあることからも推察できる。

 

有岡落城後、信長は池田恒興(信輝)・之助(元助)父子を重用し、之助に伊丹の城を与えた。

 

そして有岡城は再び伊丹城とよばれ、羽柴(豊臣)秀吉の直轄 となって廃城されるまで存続したのである。

 

『日本城郭大系』13より一部引用

 

城主家系図

 

城主(一族)石高

伊丹氏時代:3万石

荒木村重時代:38万石

 

所感

●市がきちんと整備しているので、綺麗に整っており分かりやすい。

 

●明治時代にはすでに鉄道が開通しており、城域の東半分は崩されたようだ。

 

●ここに黒田官兵衛が土牢に1年以上監禁されたいた。

 

関連URL

【兵庫県】尼崎城【尼崎市北城内】

有岡城から逃げ込んだ城。

 

参考URL

伊丹市(有岡城)

伊丹城(ウッキペディア)

城郭放浪記(有岡城)

有岡城の戦い(ウッキペディア)

 

参考文献

『日本城郭大系』13

 

公開日2024/02/23

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