城データ

城名:福原城

別名:作用城

標高:115m

比高:15m

築城年:建武年間(1334〜1338)佐用範家により築城

城主:福原氏

場所:兵庫県佐用郡佐用町字福原

北緯:東経:34.996658/134.351501

福原城はここ

 

攻城記

堀切か。

休耕地にある。

城域は広い。

本丸には神社があり福原氏を祀っている。

佐用城(福原城)

 

中世に築かれた代表的な「平山城」で、南面に川、後背に山の「城堅固」の立地で、空掘、防塁、馬落としなどよくその原型をとどめている。

 

元弘3年(1331)4月28日、淀の久我暇の戦いにおいて鎌倉方の総大将名越尾張守高家をただ一箭に打ち取った佐用兵庫介範家の築城と伝えられ、その後、赤松三十六家衆のうちの福原氏がこの城を継いだので、福原城とも言われている。

 

戦国時代末期、東西の勢力拮抗の狭間で、西の上月城、南の高倉城、東の利神城とともに赤松一統の城郭群を形成していたが、天正5年(1577)11月、上方勢の羽柴秀吉との攻防により落城しその役割を終えた。

 

後世、土地の人々によって、時の城主福原藤馬允則尚の首級を祀るため城跡に一社が造営され、「福原霊社(俗に頭様)」として今に広く素敬されている。

 

本殿から臨む。

 

位置関係

 

余湖図【福原城】

当時のイメージ図(余湖図コレクションより引用)

 

ひなたGIS【福原城】

 

 

城の概要

福原城跡

佐用町佐用原 佐用城ともいう。

 

佐用川の西岸に突き出した標高二〇 〇メートルの丘陵上に築かれた中世の城跡。

 

現在国道三 七三号の拡幅によって一部が破壊されている。

 

建武年間 (一三三四―三八)に佐用兵庫介範家が築いたとされるが不 詳。

 

天正五年(一五七七)一二月五日の羽柴秀吉書状(下村文 書)に福原城とみえ、城主福原助就が毛利方であったため 羽柴秀吉方の竹中半兵衛・小寺官兵衛孝高らに攻められ、 同年一一月二七日城下で一戦に及んだが城主はじめ残らず討たれて落城した。

 

遺構は段丘頂上に半町歩ほどの広さの主郭があり、西辺および北辺に高さ一・五メートル前 後の土塁、その外周の北辺と東辺に堀が残る。

 

西側の尾根続きは堀切が城域を画する。

 

なお北西側の谷奥に字馬 場、北側斜面ににわり穴とよぶ深い穴(抜穴と伝承する) が残り、城域の広がりを想定させる。そのほか城跡の西 側の土塁上には城主福原氏を祀った福原社(通称こうべさん)が鎮座する。

 

明和八年(一七七一)に城主の首が掘出され たことから祀られたという。

 

『兵庫県の地名』より引用。

 

福原城

福原城は佐用町福原集落の中央部にある。

 

佐用川の西岸に新しく県道が造ら れ、城跡の一部は削り取られているが、大部分は昔のまま残っている。

 

本丸は中央部にあって、南北五七mの、東西五二mで、北と西に幅五重、高さ7mの大きな土塁が囲んでいる。

 

そして、この土塁の西南端の所に福原霊社が配ってある。

 

本丸の南に一段低く二の丸が、さらに下がって三の丸跡があり、いずれも 木田となっている。

 

また福原霊社の西側には二つの空場が違られており、その間に狭い平坦地がある。

 

さらに本丸の北にも細い溝を隔てて幅二五m、長さ五六mの広い平坦地がある。

 

ここから北へ階段式に下がって三つの平坦地が造成され、その東側に 二mの土塁がある。

 

なお、本丸の西北部は崖となっており、この崖と山郷との間に広くて深い水堀がある。

 

そして、この水堀の奥のやや高い所に馬場跡といわれている広場があり、また水堀の岸をなしている山の中腹に、「にわとり穴」とよばれている 穴がある。

 

その穴は深く、抜け穴であったとされている。

 

この城は、建武年間に赤松氏の一族佐用兵庫介範家が築いたとされ、その後、 福原隼人がこれを守った。

 

隼人は赤松三十六家衆の一人であった。

 

曾孫福原藤馬允則尚の時の天正五年(一五七七)十一月、羽柴(豊臣)秀吉が姫路を出発し、 二十八日に黒田官兵衛(孝高)・竹中半兵衛ら三千余騎で福原城を包囲させ、十二 月一日に落城させた。則尚は城に火を放ち、菩提寺の高尾山円福寺で自刃した。

 

則尚の首級については次のような物語が残されている(『佐用の史跡と伝説』)。

 

雄山で則尚の介錯をした斎藤次郎が、主の首を桶に入れて背に負い、 美作をめざして馬を飛ばしていたが、誤って深田に乗り入れ、動きがとれないでい るところへ追いかけて来た小松兵衛という者の矢にかかって討死した。

 

兵衛が 近寄ってみると、背に首桶を負っているので、本陣に持ち帰って大将の実検に供したところ、まさしく藤馬允則尚の首であることがわかった。

 

さすがの秀吉も、あっぱれ節義に厚き武人よと、その首を甕に納め、南蛮渡来の朱をもって 密封し、丁重に葬った。

 

この話は、大坂夏の陣ののち、法衣姿の行脚僧がこの福原に来て、村人に語ったといわれている。

 

その後、一五〇年余りを経た明和八年(一七七一)に福原城跡のほとりに住む 小原金右衛門氏が、霊夢によって則尚の首級が柴谷山の頂上に埋まっているこ とを知り、山に登ったところ、同じ夢をみて、この山に来た西坂小右衛門に出会い、二人で掘ってみると、周りに石梛をめぐらし、中に甕が埋められ、甕の中に朱詰めの首級が発見された。

 

そこで城跡の一角に一字を建立して首部神社 として祀り、現在に至っているという。

 

『日本城郭大系』12より引用

 

城の歴史

建武年間(1334~38)に佐用兵庫介範家により築城との伝承がある。

 

天正5年(1578): 羽柴秀吉方の竹中半兵衛・小寺官兵衛孝高らに攻められる。11月27日に落城。

 

城主家系図

福原則尚の室は主君である政範の妹であった。

所感

●城域は広いが平城であり防禦面に優れていると感じない。

 

●この城で立て籠もり勝つことを想定していたのか。

 

●神社があるが、そのエピソードが興味深い、結局江戸時代に発見された福原則尚の首はどこに埋葬されたのであろうか。

 

関連URL

【兵庫県】櫛田城【佐用郡上月町櫛田】

【兵庫県】円光寺砦【佐用郡佐用町円光寺】

上月城の戦いに関与したと思われる城。

 

参考URL

佐用城(ウッキペディア)

城郭放浪記(播磨福原城)

なんとなく城跡巡り(佐用城)

武家家伝(福原氏)

落穂ひろい(福原則尚)

山崎正の西播磨歴史絵巻(福原城)

 

参考文献

『兵庫県の地名』

『日本城郭大系』12

 

公開日2021/09/20

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