城データ

城名:芦屋城

別名:亀が城、阿勢井城

標高:176m

比高:170m

築城年:南北時代末期

城主:塩冶氏

場所:兵庫県美方郡新温泉町芦屋字城山

北緯:東経:35.626855/134.437292

芦屋城はここ

 

 

攻城記

芦屋城全景。

山頂まではすぐに到達する。

諸寄港側景色。

芦屋城跡

芦屋城は、戦国時代の武将・塩冶周防守が居城にしていた城で、周囲を断崖絶壁に囲まれた地形は、天然の要害となっており、海上交通を抑えるために築かれた城である。

 

芦屋城は、天正8年(1580)、羽柴秀吉が但馬を攻めたとき落城した。

 

城主・塩冶周防守は、鳥取城主・吉川経家を頼り、翌年羽柴秀吉が鳥取城を攻めたとき、再び鳥取の雁金城と丸山城で戦ったが、いずれも落城し、自決した。

昭和59年発掘調査が本丸部分について行われ、建物跡や青磁・白磁・天目茶碗、古銭・硯などが多数出土した。

 

ある程度までは車でいけるのですぐに本丸まで到達できる。

どんどん登っていく。

削平地の到着。

テレビ塔あり。

周辺。

眼下には港もあり往時から栄えていたと思われる。

塩冶氏も水軍としての機能を有していた豪族だったと思われる。

諸寄港。

周辺。

山の方向は土地も狭い。

山頂部。

本丸部分と考えられる。

浜坂方向の港。

中央の山は観音山。

芦屋城麓の海。

 

余湖図【芦屋城】

当時のイメージ図(余湖図コレクションより引用)

 

ひなたGIS【芦屋城】

 

 

城の概要

芦屋城跡浜坂町芦屋城山

芦屋集落の西側、標高一七九メートルの山頂にあり、東に浜坂港、南西に諸寄港を眺望する地を占める。

 

但馬 守護山名氏の家臣塩治氏の居城で、諸寄城ともよばれた。

 

城域は東西約三九六メートル・南北約四六四メートルあ り、主郭部(本丸)と副郭部(二の丸)のほぼ二つの城砦群からなる。

 

主郭城砦群は東西約七七メートル・南北条二「 メートルもある広大な主郭と、四方向に延びる尾根の小曲輪群からなる。

 

主郭北側には岩盤を削り残した高さ約 三メートルの土塁と径二・五メートル、深さ二メートルほ どの岩盤を彫込んだ井戸跡と推定される穴がある。

 

副郭 城砦群は東西約六一メートル・南北約一三メートルの副 郭・帯曲輪と小曲輪群からなる。

 

縄張りから判断すると 小曲輪群で構成されていた城を、戦国期に主郭部・副郭 部を中心にして改修したものであろう。

 

なお主郭部は昭 和五九年(一九八四)にテレビアンテナ中継局設置工事に伴って発掘調査が行われ、掘立柱建物跡二棟へ一棟は六間×七 間、一棟は一辺五間以上)・溝状遺構・土遺構などが検出 され、硯・刀子・白磁片・青磁片・天目片・土師皿.鉄 釘・北宋銭などが出土している。

 

「東寺執行日記」によると文明五年(一四七三)一二月五 日、「山名殿御内延屋」氏が百四、五十人を引連れ大内方 合力として摂州へ下向、また同六年四月四日に山名氏の 命を受けて応仁・文明の乱の講和を触れ回った人物の一人に延屋氏の名前がみえる。

 

「蔭涼軒日録」延徳三年(一 四九一)八月二八日条によれば将軍足利義材(義植)の六角高 頼征討に際し、塩治周防守が山名俊豊に従って参戦している。

 

明応二年(一四九三)七月、塩治周防守・塩治彦次郎 父子は山名政豊・俊豊父子の戦いのなかで俊豊方につき、  討死した(同書同月二二日条)。

 

芦屋竜潜寺には天文八年(一五三九)五月に死去した塩冶周防守(法名光照院殿梅月宗香大禅定門)の位牌がある。

 

弘治三年(一五五七)の「但馬国にしかた日記」には「もろよせ御志ろ」(諸寄御城)と記され、 山下(城下)には塩冶殿様・「御内すきもと殿」が居を構え ていた。

 

近隣の諸寄(浜の分)には松堀隠岐殿・同右京殿、 浜坂には森和泉殿・佐々木三郎左衛門殿・湊兵衛殿、阿勢井(芦屋)には鰺飼丹後殿・小谷安芸殿、今在家(芦屋のうち)には塩治主計亮殿・同兵衛左衛門尉殿・「はし」二郎 左衛門殿・同壱岐殿などの名が記されており、塩治氏の家臣が城周辺の村々に散在居住していたことがわかる。

 

また彼らが但馬水軍を形成していたとみられている。永 縁一二年(一五六九)六月山中幸盛に擁された尼子勝久は、 但馬水軍の力を借りて出雲に入国しているが、毛利方の 湯原元網が「諸寄」に在番しており、当地は毛利方であった(同月七日「小早川隆景書状」萩豬閥閱錄)。 元亀二年(一五七一)八月、安芸毛利方の因幡鳥取城主武田高信の軍勢が織田信長方(尼子方)に与同していた塩治肥前守の立籠る当城を攻めている。

 

結局武田勢は敗退し、 当城から出撃した塩治勢と二方郡内の七釜城主田公筑前守・指杭城主矢谷伯者守らの軍勢によって大庭田圃(七釜地内)で挟み撃ちにあい、撃退されている(大庭軍記・因幡民談配)。

 

この頃当城は尼子方の拠点となり、因幡に刃を向けていたと思われる。

 

天正七年(一五七九)頃但馬の海岸部は毛利氏に誼を通じる垣屋豊続が掌握、また「下ハ諸寄、 上ハ竹野」の間に五、六ヵ所の要害を構えて守備しており、当地が軍事上の要地として重要視されていたことが うかがえる(七月二七日「吉川元春等連署書状案」吉川家文書)。

 

同八年五月、羽柴長秀(秀長)の第二次但馬進攻の時、当 城は宮部善祥房継潤軍の攻撃で落城し、城主塩治周防守 は鳥取へ逃れ山名豊国を頼っている(但馬国国主城主覚・因幡民談記)。

 

翌九年七月、羽柴秀吉の第二次鳥取攻めの時、 周防守は奈佐日本助らとともに毛利方につき、鳥取城の出城雁金山城・丸山城(現鳥取市)を守備していたが(「因幅 民談記」など)、宮部軍に攻められ両者ともに丸山城で自刃している。

 

鳥取市丸山には周防守の慰霊碑があり、但馬の殿さんの墓といわれている(同書)。

 

『兵庫県の地名』から引用。

 

芦屋城

芦屋城のある場所は東に芦屋集落を望み、南側は芦屋坂に連なる険しい斜面 で、北と西側は日本海を見おろす断崖であり、標高一四〇mの地点にある山城 である。

 

二の丸跡とみられる削平地は約四〇〇の広さで、雑木・雑草が生い茂って おり、さらに北西の約二〇m高い所に本丸跡とみられる削平地がある。

 

二つの 削平地とも石垣らしいものはない。本丸跡の場所は俗に「イツノナル」といわ れているが、これは両端に、岩盤をくりぬいた深さ二m程の五角形で、雨水を ためたと思われる井戸があることから、名付けられたとも考えられる。

 

この井戸 の上は約二・五mの岩山となっており、物見台として利用していたものと思われる。

 

最近、本丸跡の南西部の約二四下に、幅二四の小さな帯郭が二つ確認された。

 

『陰徳太平記」「因幡民談記』などにより、塩冶氏の居城であったことは間違 東人堂 いないと思われるが、いつ頃、築城されたかは明確でない。

 

『因幡民談記』に は「阿勢井ノ誠ハサノミ高山ニテハナケレドモ、岩石重ナリソビへ、山険シクシテ切立タルガ如ク、北東八海水ヲタタへ、敵兵容場ニ攻メ寄ベキ処ニ非ズ」 記されており、山名領の但馬における西北端を守る城として重要な軍事的意義をもっていたものと思われる。

 

元亀二年(一五七一)八月、鳥取城主武田高信の軍勢が芦屋城を襲ったが、武田勢は打ち破られ、大庭田園で最後の大激戦が展開され、軍将・副将らはここ でことごとく戦死した。

 

俗に「庭中合戦」といわれ、『因幡民談記』などに詳しくその模様が述べられている。

 

ところで、羽樂(豊臣)秀吉の第二次但馬征伐は、天正八年(一五八〇)に始まったが、芦屋城の塩冶周防守は逃れて鳥取の山名氏に頼った。

 

以後、二方郡一円は豊岡城主となった宮部善祥房の支配下に入 った。

 

翌年七月に至って秀吉は、 今度は兵五万で鳥取城を攻めた。

 

鳥取城主の吉川経家は塩冶周防 守に雁金山を、奈佐日本助に丸山を守らせたが、いずれも落城 し、周防守も切腹して果てた。

 

そして天正十年から芦屋オヤシキには陣屋が置かれ、宮部氏の城代・奉行などが配置された。

 

関ヶ原合戦後、二方郡の大部分は宮部頼久が支配するところとなったが、寛永四年(一六二七) には陣屋は清富に移され(清富陣屋)、芦屋陣屋の時代は終わりを告げた。

 

現在、芦屋にはオヤシキ・ヤカタ・ トノマチなどの小字名があり、内堀・外堀の一部と馬場といわれる場所もある。 またオヤシキの石垣の一部が、今も畑の中に昔のままの姿で残っている。

 

『日本城郭大系』12より引用。

 

城の歴史

南北朝時代末期に出雲国から塩冶氏の庶流が来たと考えられる。

 

文明5年(1473):山名氏家臣として摂津に下向、応仁・文明の乱の講和を触れ回った人物の一人に延屋氏の名前がある。

 

延徳3年(1491):足利義材(義植)の六角高頼征討に際し、塩治周防守が山名俊豊に従って参戦する。

 

明応2年(1493):塩治周防守・塩治彦次郎父子は山名政豊・俊豊父子の戦いのなかで俊豊方につき討死。

 

天文8年(1539):塩冶周防守死去。

 

弘治3年(1557):このころ塩冶氏は城下に居を構える。

 

元亀2年(1571):安芸毛利方の因幡鳥取城主武田高信の軍勢が織田信長方(尼子方)に与同していた塩治肥前守の立籠る芦屋城を攻める。

このころは織田(尼子)勢力下になっている。

 

天正7年(1579):この頃毛利氏に誼を通じる垣屋豊続が掌握する。

 

天正8年(1580):五月、羽柴長秀(秀長)の第二次但馬進攻の時、芦屋城は宮部善祥房継潤軍の攻撃で落城し、城主塩治周防守 は鳥取へ逃れ山名豊国を頼る。

 

天正9年(1581):七月、羽柴秀吉の第二次鳥取攻めの時、 塩冶周防守は、鳥取城の出城雁金山城を守備していたが、宮部軍に攻められ自刃する。

 

天正10年(1582):芦屋オヤシキには陣屋が置かれ、宮部氏の城代・奉行などが配置される。

 

慶長5年(1600):関ヶ原合戦後、二方郡の大部分は宮部頼久が支配するようになる。

このころ廃城か。

 

寛永4年(1627):陣屋は清富に移され、芦屋陣屋の時代は終わりを告げ芦屋城も完全に廃城となったと思われる。

 

所感

●塩冶氏は出雲塩冶氏の庶流だと考えられるが、詳しい家系図などが無く断定が難しい。

 

●山名家臣として有力国衆に育った塩冶氏は、美方郡を支配するまで大きく成長した。

 

●近隣の因幡山名氏の家臣である武田高信の妹と婚姻関係もあったが、後に敵対、武田氏が攻めたが返り討ちにする。

※この戦で高信の息子が討死して武田家は凋落していく。

 

●当主の塩冶周防守は豊臣秀吉の鳥取城攻めの時に雁金城を守備、結局負けて自刃する。

 

●子孫は吉川氏の家臣となり岩国に転付する。

 

 

関連URL

【 島根県】塩冶神社境内遺跡【出雲市上塩冶町】

【島根県】向山城、大廻城【出雲市上塩冶町向山】

【島根県】半分城【出雲市上塩冶町】

惣領家塩冶氏縁の城。

【鳥取県】雁金城【鳥取市湯所町】

塩冶周防守(高清)が守った城。

 

参考URL

山城攻城日記(芦名城)

西国の山城(芦名城)

武家家伝(但馬塩冶氏)

但馬塩冶氏(ウッキペディア)

塩冶高清(ウッキペディア)

 

『兵庫県の地名』

『日本城郭大系』12

 

公開日2021/08/21

 

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