城データ
城名:明石城
別名:喜春城、錦江城
標高:20m
比高:20m
築城年:元和4年(1618)
城主:戸田氏、大久保氏、松平氏
場所:兵庫県明石市明石公園1丁目
北緯:東経:34.652418/134.991154
攻城記
駅から見れる明石城。
入城。
立派な虎口。
有名な三重櫓。 左:坤櫓 右:巽櫓
巽櫓。
巽櫓方向から坤櫓をみる
坤櫓。
坤櫓から巽櫓方向を望む。
立派な石垣。
西方向を散策していく。
排水溝。
西の丸。
天守台石垣。
天守台石垣と坤櫓が良く似合う。
下から見上げる坤櫓。
巽櫓方向にすすむ。
中心部に進んでいく。
坤櫓。
天守台にいく手前の階段に宝篋印塔基壇部分の石垣を発見。
転用石だと思われる。
天守台石垣。
天守台。
艮櫓も江戸時代にはあったらしい。
今は何もない。
二の丸。
二の丸からの巽櫓。
東の丸。
東の丸土塁。
薬研堀。
箱堀。
堀。
open-hinataより【明石城】
余湖図【明石城】
当時のイメージ図(余湖図コレクションより引用)
城の概要
明石城は海岸に近い丘陵舌端に築かれた平山城で、本丸付近には築城以前に 柿本人麻呂を配る人丸塚があったといい、嘉吉の乱(嘉吉、一四四一)では、 ここが激戦の地となったほどに要衝の地を占めている。
この城は大坂の役の 功によって元和三年(一六一七)七月、明石十万石を賜わって信濃の松本から入部した小笠原忠真(初名は忠政)が二代将軍徳川秀忠の命によって築城した。
忠真は秀政の次男、母は徳川家康の長男信康の好福姫で、家康からは外倉孫にあたり、忠真の夫人は同時期に姫路城主となった本多忠政の女で、その母にあたる忠政夫人は福姫の妹であったから、忠真夫妻はいとこ同士でもあった。
家康は播磨を西国諸大名の押さえとして重視し、慶長五年(一六〇〇)の関ヶ原合戦の直後、娘婿にあたる池田輝政を姫路に移して壮大な姫路城を築かせ、輝政子忠継・忠雄に備前と淡路を与えて西国諸大名を監視させた。
この時、輝政 東播磨の明石郡・三木郡(美囊郡)には家老を配置し、明石には池田出羽守由之 (輝政の兄之明の子)を置き、艦上城を守らせ、三木には伊木長門守が三木城 守った。
輝政の死後、長男の利隆が若死にして幼い光政が当主になると、江戸幕府はこれを鳥取に移し、播磨を二分して姫路には本多忠政を移し、明石には小笠原忠真を移してここに新城を築かせ、協力して輝政の果たした役割を分担させようとしたのである。
『日本城郭大系』12より一部引用
城の歴史
(初代)元和6年(1620)
小笠原忠真が船上城より移る。在城13年(10万石)
(二代)寬永10年(1633)
松平丹波守康直が封ぜられ在城1年(7万石)
(三代)寛永11年(1634)
康直の甥松平丹波守光重が封ぜられ在城5年(7万石)
(四代)寛永16年(1639)
大久保加賀守季任が封ぜられ在城11年(7万石)
(五代)慶安2年(1649)
松平山城守忠国が封ぜられ在城11年(7万石)
(六代)万治2年(1659)
忠国の嗣子松平日向守信之が封ぜられ在城21年(7万石内、弟志摩守に5千石分封)
(七代)延宝7年(1679)
本多出雲守政利が封ぜられ在城4年(6万石)
(八代)天和2年(1682)
松平若狭守直明が6万石で封ぜられその子孫が明治廃藩まで在城したが天保11年(1840)松平斉宜(将軍家斉の子)が封を嗣ぎ禄2万石の加増をうけ10万石の格を許された。
城主家系図
城主(一族)石高
約7万~10万石台で推移。
所感
●江戸幕府がバックについているので石高に比べて城の規模が大きい。
●全国で僅かに残っている三重櫓のうち2つが明石城にある。
●JR明石駅から見える城で有名であるが、日本全国でも櫓と塀を少し復元しただけ趣がでる城は多いと思う。
関連URL
参考URL
参考文献
『日本城郭大系』12
公開日2024/02/23