城データ
城名:神宮寺山城
別名:無し
標高:229m
比高:178m
築城年:不明
城主:小賀源六
場所:広島県広島市安佐北区可部町今井田
北緯:東経:34.514806/132.486571
攻城記
この山頂が目標の神宮寺山城。
登山口、近隣に車を停めるところはない。
攻城スタート。
このような道をかなり登って行く。
山頂にいくまでに削平地が現れる。
城域が不明。
自然の地形にしては綺麗。
石積ではないが、この辺辺りから城域のような気がする。
とにかく、削平地になっている。
石積っぽい。
大堀切がある、ここからが本格的な城域か。
曲輪跡。
本丸に登っていく。
本丸に到着。
本丸は非常に綺麗で整っており、散策しやすい。
茶臼山山頂。
高松山方面。
太田川の蛇行。
本丸から降りていくと曲輪跡がある。
本丸方面を望む。
そのまま進む。
石垣跡。
位置関係
open-hinataより【神宮寺山城】
余湖図【神宮寺山城】
当時のイメージ図(余湖図コレクションより引用)
『芸藩通志』【神宮寺山城】
拡大図。
1960年代の航空写真
城の概要
本城跡は、蛇行を繰り返して東流する太田川が可部盆地にさしかかったところに位置し、太田川を眼下にのぞむ茶臼山山頂にある。
城跡の構成は、1郭を中心に大手に当たる北側に二つ、南側に一つの郭を配しているほか、城跡の西方には堀切を設けて尾根を分断している。
構成は簡単ではあるが、城内の各所に土塁・石垣を築き、きわめて堅固である。
また城跡の東裾は宅地化されて詳細は不明であるが、4~6か所の小郭と観察される部分があって、居館跡の可能性がある。
城主については小賀源六の名がみえる。
『広島県中世城館遺跡総合調査報告書』より引用
可部市街から西方を見あげると螺山がゆったりとした姿でそびえている。
山麓にある虹山団地の名の由来となった山だ。太田川はこの螺山の南で大きくU字形を描いて曲流する。
その曲流部に突き出した形の半島状尾根があって、その付け根にある茶臼山に神宮寺山城が載る。
城のある今井田には、福王寺の末寺の一つ神宮寺があったことが江戸期の地誌『芸藩通志』に見える。
城名はこの寺名によるもののようだ。 東麓は中世可部荘のうち四日市であり、古名を河戸という。
太田川河岸の河戸浜は太田川上流域から陸路輸送された物資を川舟に積み たむ港であったというから、神宮寺山城は太田川水運を掌握する城であったのかもしれない。
亀山二丁目には河戸神社があって金山城主武田氏の祈願所であったという。
亀山南三丁目の両延神社も武田氏の勧請によるというから、可部荘は武田氏と深いつながりを持っていたことがうかがえる。
神宮寺山城の主について、芸藩通志は小賀源六の名を伝えるが、詳細は分からない。
丘頂の主郭は長さ六〇㍍、最大幅二〇㍍の長円形。急峻な山にしては意外に大規模な曲輪だ。
この南北両側に腰曲輪2・3郭が付属する。2郭はわずかな段差で2段に分かれており、東辺の切岸には石垣で補強されている。
さらに2郭北端には土塁・堀切を設けて山腹斜面に備え、 主郭への通路が伸びる南端部も鋭く削り落とした切岸となっているから、主郭南側の3郭に比べ、防御の堅さが際立っている。
2郭土塁脇に虎口が開かれてい たものと思われるが、絶壁に近い急斜面の山に載る城とい うこともあって、麓までの道筋は確認できていない。
現在の登城路は西尾根を経由してつけられている。この尾根をばっさりと遮断する大堀切が4郭西側に入るから、城の範囲はここまでのようだが、その外側にもわずかな加工痕を見せるだけの不規則な平地が並ぶ。
一部に石垣も見られるものの、西寄りでは自然地形と判別出来なくなるし、城域の限界を示す堀切や明瞭な切岸が確認できないから、城郭の一部とするには疑問が残る。
『広島の中世城館を歩く』より引用。
城の歴史
近隣の城と同じく、武田氏の支配下の城として機能していたと思われる、大永五年(一五二五)尼子氏を離れて大内方に属した毛利元就は、その恩賞として大内義隆から与えられた可部の地を、義隆の了解を得て熊谷氏に与えている。
熊谷氏は可部の高松城を本拠とし、代々武田氏に属していたが、こののち毛利方に寝返ることになる。
その時期ははっきりしないが、軍記『陰徳太平記』によると、熊谷信直が毛利元就に一味したことに怒った武田光和が、天文二年(一五三三)八月高松城を攻撃し、城麓の横川で 激戦があったことを記すから、熊谷氏の離反はこの頃らしいため、おそらく、神宮寺山城も同じ頃には熊谷氏の支配下に入ったのではないかと思われる。
天文21年(1552)には完全に熊谷氏の支配下に可部が入っている。
『毛利家文書』261より一部抜粋。
所感
●城自体は急峻でもなく比較的登りやすいが山頂まで距離が長い。
●山頂からの景色は良く、登山向けの城。
●城郭自体は大きな本丸と周囲にいくつか曲輪がある、防備よりも太田川の河川に関わりがある城かもしれない。
●この場所で太田川が大きく蛇行しており、四方に目が届きやすい場所と思われる。
●城主は小賀氏であるが、武田家臣として熊谷氏につかなかったか、逆に家臣化していったかは不明。
関連URL
参考URL
参考文献
『日本城郭大系』13
『広島県中世城館遺跡総合調査報告書』
『広島県の地名』
『広島県地名大辞典』
『広島の中世城館を歩く』
『萩藩諸家系譜』
『毛利八箇国御時代分限帳』
『萩藩閥閲録』
公開日2024/01/13