城データ
城名:尾首城
別名:無し
標高:210m
比高:128m
築城年:不明
城主:松浦甚吾左衛門
場所:広島県広島市安佐北区可部町勝木
北緯:東経:34.531065/132.465834
攻城記
攻城スタート。
登り口が分からず、いつもの直登。
畝状竪堀群に到着。
綺麗に残っている。
このような畝状竪堀が周囲を取り囲んでいる。
非常に美しい畝状竪堀群。
本丸はこの上になる。
本丸。
下を望む。
本丸から。
本丸を降りる。
堀切発見。
何重にも堀切がある。
どうもこの尾根筋からくれば楽だったよう。
位置関係
open-hinataより【尾首城】
余湖図【尾首城】
当時のイメージ図(余湖図コレクションより引用)
『芸藩通志』【尾首城】
拡大図。
1960年代の航空写真
城の概要
本城跡の下には、陰陽連絡ルートと太田川とを結ぶ間道が通っている。
また、北には久保城跡がある。
最高所の1郭の東に小郭を配す簡単な構造である。
その位置及び構造から、見張等のための機能が想定できる。
『広島県中世城館遺跡総合調査報告書』より引用
主郭は歪んだ長楕円形で、その規模は短辺二〇㍍、長辺六五㍍に及ぶ大きな曲輪だ。
小郭が南側に付属してはいるが、単郭の城と見て良い。
主郭を囲む切岸の高さは五〜六㍍。急傾斜に加工されており、所々に壁面補強のための石垣も見られる。
曲輪の縁には不規則に六カ所の窪みが見られるのだが、後世の崩落によるものか、あるいは何らかの意図を持って築かれたものなのか判断できない。
主郭の南側二路ほど下には石垣で補強された小郭が付属する。
ここから主郭へ通じる道があり、不明瞭だが下方斜面へ延 びる道もあって、ここが虎口部をなすものと思われる。
城の背後を遮断する堀切は五重。うち三基は南北両斜面に伸びる堅堀となるが、残り二基は南斜面側だけに伸びるものだ。
何と言っても本城最大の見所は曲輪の周囲を埋め尽くす畝状竪堀群である。切岸下には横堀が 巡り、堅堀はこの横堀から発生するから、竪土塁が並ぶ姿を見せる。
横堀は北斜面から南斜面側に回り込むが、やがて横堀が途切れると共に堅堀群も消える。
畝状堅堀群の配置状況からみれば、本城は北方を意識した城と考えられる。
このことは尾首城の眺望を考えてもうなずけるところだ。
南側太田川方面は急峻な山々が視界を遮るが、 北方面には眺望が広がる。
飯室に向かう国道一九一号のルートは、ほぼ江戸期の都志見往還の道筋であって、現在と違うところは幕の内経由でなく、その北、防地峠を越えて飯室へ通じていたことだ。
尾首城にはこの道筋を掌握する役割もあったに違いない。
江戸期の地誌『芸藩通志』では城主を松浦甚五左衛門とする。
勝木の玉縄神社には、尾首城主となった甚五左衛門が、当地の産土神を守護神として崇敬し社殿を建立したとも伝わるのだが松浦氏の名は武田氏の家臣にも熊谷家臣にも確認できず、詳細はわからない。
大永五年(一五二五)尼子氏を離れて大内方に属した毛利元就は、その恩賞として大内義隆から与えられた可部の地を、義隆の了解を得て熊谷氏に与えている。
熊谷氏は可部の高松城を本拠とし、代々武田氏に属していたが、こののち毛利方に寝返ることになる。
その時期ははっきりしないが、軍記『陰徳太平記』によると、熊谷信直が毛利元就に一味したことに怒った武田光和が、天文二年(一五三三)八月高松城を攻撃し、城麓の横川で 激戦があったことを記すから、熊谷氏の離反はこの頃らしい。
尾首城の縄張りには強い軍事的緊張感 が感じられるから、熊谷氏がこの頃領域 の西端に構えた城だったのかもしれない。
『広島の中世城館を歩く』から一部引用。
城の歴史
『毛利家文書』251
大永5年(1525)毛利元就が尼子から離反して大内氏に寝返った時に、可部700貫を拝領し、熊谷氏に与えた書状。
当時この地域は武田氏の支配下であったが、熊谷氏が毛利に寝返った為、不安定な状態であった。
松浦氏は武田氏の家臣だったと思われるが、後に熊谷氏の家臣となったともいわれるので、この頃に城の増強が行われたのかもしれない。
所感
●城は単郭であるが、周囲を異常なまでに、畝状竪堀群で囲んでおり、緊張感が分かる。
●主に北側に畝状竪堀群があることから、北方を意識しているが、街道もあり、見張りの役目も果たしていると思われる。
●今では団地が城の麓まであるが当時は街道付近まで山林が広がっていたか。
関連URL
参考URL
参考文献
『日本城郭大系』13
『広島県中世城館遺跡総合調査報告書』
『広島県の地名』
『広島県地名大辞典』
『広島の中世城館を歩く』
『萩藩諸家系譜』
『毛利八箇国御時代分限帳』
『萩藩閥閲録』
公開日2024/01/13