城データ

城名:岳城

別名:多計城、嶽城、嶽山古城

標高:521m

比高:321m

築城年:不明

城主:武田弾正

場所:広島県広島市安佐南区沼田町阿戸

北緯:東経:34.490692/132.385417

岳城はここ

 

 

攻城記

高速道路の橋を渡って登山口に進む。

きちんと城下橋になっている。

境原ルートから進む。

さあスタート。

このような山道を比高200m登る。

苦しい思いをしてやっと尾根の先端に到達。

先に進む、ここも曲輪跡か?

尾根筋は削平地が多い。

阿戸方面。

看板あり、掃除はしてほしいな。

南方面を望む。

武田山(銀山城)は見える。

武田山(銀山城)

ここも曲輪跡。

実はここは本丸ではない。

本丸に進む。

曲輪跡。

本丸に進む。

到着。

本丸跡。

本丸はそこそこ広い。

本丸下の曲輪。

下山していく。

下山途中の景色。

最高の景色。

 

番外編【久地の千年杉】

 

位置関係

 

open-hinataより【岳城】

 

余湖図【岳城】

当時のイメージ図(余湖図コレクションより引用)

 

『芸藩通志』【岳城】

拡大図。

 

城の概要

南麓には東西に旧山陽道が、東麓には南北に久地から伴への道がある。

 

郭は山頂の二つの峰に設けられている。

 

西側の郭群は、最高所の1郭とその北から東をとり囲む郭、さらに堀切状の郭を挟んで東に郭を配している。

 

東側の郭群は、最高所の郭の西下に一つ、東下に五つの郭を配している。

 

城主は武田弾正と伝えられている。

 

『広島県中世城館遺跡総合調査報告書』より引用

 

城の歴史

不明であるが、武田弾正とある。

 

応永4年(1397)に幕府,武田伴遠江五郎の押妨を止め,佐東郡杣村内大塚・久知両村を厳島社雑掌に沙汰付けさせる〔御判物帖62〕。

『広島県史』より

 

応永四年(一三九七)八月十八日、幕府は安芸国守護渋川満頼に命じて、杣村内大塚・久知両村にたいする武田伴遠江五郎の押妨を止め、厳島社家維掌が知行すべきであるとしている。

 

武田伴遠江五郎なるものは明らかでないが、沼田町伴に拠を有 する伴氏であろう。

 

大塚(沼田町)久知(安佐町)をめぐって相論を行っている。

 

これによると武田伴遠江五郎は柚村七か村を貞治年中(一三六二〜一三六七)に拝鎖していることがわかる。また建武二年中(一三三五)や至徳三年(一三八六)の安堵状なども有しており、早くからこの地にかかわりをもっていることがうかがえる。

 

『沼田町史』155頁より

 

このように、この伴地方を有した武田一族が弾正を名乗ったものと考えられるが、いつの時代の人物かは不明。

 

所感

●標高500m級の山であり武田山よりも高いところに位置する。

 

●武田伴氏の城であるが、阿戸、鈴張、久地方面からの交通を監視していたのかもしれない。

 

●伴氏は武田一族なかでも有力な一族で領土も広かったと思われる。

 

関連URL

【広島県】伴東城・伴城【広島市安佐南区伴町】

【広島県】国重城【広島市安佐南区伴東】

【広島県】岸城【広島市安佐南区沼田町大塚】

 

参考URL

ひろしま昔探検ネット(岳城)

城郭放浪記(岳城)

 

参考文献

『日本城郭大系』13

『広島県中世城館遺跡総合調査報告書』

『広島県の地名』

『広島県地名大辞典』

『広島の中世城館を歩く』

『萩藩諸家系譜』

『毛利八箇国御時代分限帳』

『萩藩閥閲録』

 

公開日2024/01/12

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