城データ

城名:渋谷城

別名:金王丸城

標高:26m

比高:5m

築城年:1092年

城主:河崎基家、渋谷氏

場所:東京都渋谷区

北緯:東経:35.657571/139.706247

渋谷城はここ

 

攻城記

比高は5m余り、少し小高い場所と言う感じ、但し当時の渋谷川からでは10m強はあったと思われる。

若干の削平地、当時あったかは不明。

境内に進む。

現在は金王八幡宮になっている。

本殿から望む。

手水鉢。

正面から。

夜の渋谷城(金王八幡宮)は幻想的。

 

戦前の地図

 

余湖図【渋谷城】

 

当時のイメージ図(余湖図コレクションより引用)

 

城の概要

金型丸伝説で有名な渋谷の金王八幡境内とその周辺は、かつて渋谷氏が城館 を構えた地であるといわれる。

 

「金王八幡社記」には、源義家が河崎基家に渋谷を含める谷盛七郷を与えたという。

 

基家の子重家 の長子重国は、相模国渋谷荘司となって 移ったが、次男金王丸はこの地で成長し、 のち源義朝に従った。

 

義朝が平治の乱に敗れ、東国に逃れる途 中、尾張野間荘内海で長田忠致に謀殺された時、金王丸は長田の郎等数十人を切 って、京都に戻り、義朝の死を常盤御前 に告げ、その身は僧 となって諸国を行脚し、義朝の菩提をと むらったという。

 

金王八幡の西側の丘陵斜面は「堀の内」と呼ばれ、東・南・西の低地には渋谷川を利用して堀を 巡らしていたものと思われる。

 

今の渋谷警察署のあるあたりが堀の跡といわれ ている。

 

そして、この斜面から丘上にかけて居館が築かれたのであろう。

 

丘の上は金王丸産湯井戸をはじめ、水質のよい井戸に恵まれており、交通が便利で、 要害堅固な、しかも展望のよくきくという各種の条件を備えていた。

 

江戸時代にはまだ馬場や的場や築地の跡が残っていたという。

 

金王丸以降、廃城にいたるまでの、渋谷城における渋谷氏の動向については、 ほとんど何も分からない。

 

大永四年(一五二四)、江戸城が後北条氏に奪われた時、渋谷氏も渋谷城を捨てたといわれる。

 

『日本城郭大系第五巻』より引用

 

城の歴史

寛治 6年(1092):河崎基家が渋谷の地に渋谷城を築いたとの伝承がある。

 

大永4年(1524):北条氏との戦いにて落城し、渋谷氏も滅ぶ。

 

所感

●眠らない街である渋谷の中にひっそりと佇む金王八幡宮が城跡。

 

●開発が進み当時の渋谷城がどの位の規模か不明であるが、もう少し広かったと思われる。

 

●堀もあったようで、城というよりも城館の感じであったのかもしれない。

 

参考URL

渋谷城(ウッキペディア)

古城の歴史(渋谷城)

渋谷氏(ウッキペディア)

武家家伝(渋谷氏)

澁谷氏 ~秩父党~ – 千葉氏の一族

 

公開日2023/10/08

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