城データ

城名:岸城

別名:無し

標高:124m

比高:22m

築城年:不明

城主:大塚四郎兵衛義清

場所:広島県広島市安佐南区沼田町大塚

北緯:東経:34.441861/132.399936

岸城はここ

 

攻城記

城の周囲は急峻であり登ることが難しい。

城の裏付近には平坦な部分もあるがこれは後世に改変されたものと考えられる。

竹藪も多く、登るところも見当たらない状態。

墓所の部分に窪みがありここから登る。

この窪みも堀切なのかもしれない。

とりあえず、ここから直登する。

登り切れば頂上部に削平地が広がる。

先天部分から下を臨む。

曲輪の南東部分にも一段下がったところに削平地がありここも曲輪だった可能性がある。

降りたところ。

大塚観音堂

天明二年(1782)の文字が刻まれていた。

 

広島市指定重要有形文化財

木造十一面千手観音立像一軀

付铸造阿弥陀如来立像。二躯

指定 昭和62年6月25日   広島市安佐南区沼田町大塚字観

 

木造十一面子 千觀音立線  像高185㎝  付造阿弥陀尿来立像 像高9.8cm

 

この様音堂に安置されている観音立像は頭部と体部の主要部を一材から彫り出した一本造の技法が用いられています。

 

さらた、乾燥による干割れを防ぐため、 背中と 下半身から内部が刳られていて、胎内には、鋳造阿弥陀如が納められていました。

 

これらのことから、製作年代は、平安時代後期、少なくとも鎌倉時代初期のものと思われます。

 

県内においてこの時期の仏像は少なく、貴重なものです。

 

この像は南北朝時代、この地を領有していた大塚氏と関係のある仏像と伝えられています。

 

いづれにてもこの小堂に納められている仏像は、何百年もの間、多くの人々の強い信仰心に支えられて守られてきたものでありこの地域に根づいた文化を継承させる上で大切な役割りを果たしてきた文化財といえるでいよう。

 

平成2 年■月31日 広島市教育委員会

 

佛石。

宝篋印塔や五輪塔の残欠がある。

こちらにも。

清水もわき出している。

 

ご本尊の木造十一面千手観音立像は昭和62年(1987年)に市の重要文化財に指定されています。

 

弘法大師の作と伝えられ、可部福王寺、立木像の二番木をもって作ったものと言われています。

岸城城主「大塚氏」がこの像に感応し、建てたお堂が同寺であると伝えられており、武芸の祖神として信仰され、武士が奉納した額が残っています。

かつては大塚の中心的な存在で、境内に湧き出る清水は眼病に効くと言われ、遠くからくみに来る方もおられました。また大塚十二景の一つにもなっています。

 

「あさみなみ散策マップ」より引用。

 

 

宮ヶ瀬神社

 

創立、勧請年代は不詳ですが旧大塚村の村社であったため、大塚村の守護神であり、家内安全、五穀豊穣の神とされています。

 

元は大塚の城主、大塚四郎兵衛義清が山の中へ社殿を建立し、八幡神と厳島神社を勧請し数百年来祭っていましたが、「三本の川の交わる所へ移転せよ。そうすれば地の幸福を守る。」との神勅があったので、宮ヶ瀬の地に奉遷したと伝えられています。

 

現在はアストラムラインの建設に伴い、元宮のすぐ上の丘に移転しています。

 

「あさみなみ散策マップ」より引用。

 

現在の岸城。

1960年代の岸城。

 

位置関係

 

open-hinataより【岸城】

 

余湖図【岸城】

当時のイメージ図(余湖図コレクションより引用)

 

『芸藩通志』【岸城】

城の概要

1郭の北に帯郭、西に二つの小郭、東は堀切を挟んで一つずつの小郭を置いている。

 

本城跡の南北は旧状がかなり破壊されているが、規模は現在より大きかったと考えられる。

 

城主は、大塚四郎兵衛と伝えられている。

 

『広島県中世城館遺跡総合調査報告書』より引用

城の歴史

南北朝時代に大塚四郎兵衛義清がこの地を治めていたらしい。

 

大塚氏の考察

大塚氏に関しては南北朝時代に大塚四郎兵衛義清という人物がいたということしか分かっていない。

 

ではこの大塚氏はどのような人物であったのか、当然資料もないため、推測になるが、厳島神領家に連なる人物ではないかと思う。

 

沼田町史(155頁)に大塚が武田氏に押妨されていることが記載されている。

 

大塚・久知をめぐる相論

 

沼田町内の地も相論の対象になって いる。

 

まず次の史料をみてみよう

 

厳島文書 判物帖」 厳島社掌中安芸国村内大塚久知両村事、武田伴遠江五郎捧建武 二年御下文至德三年安堵等案、為三相七ヶ村内之由難支申、去貞 (義弘) 治年中雖」拝三領柚七村、為三厳重神領一之間、閣」之由、大内左京権大 夫入道進状上本社領、此上早彼遠江五郎妨、可被」沙三汰付社 家雜掌之由、所」被仰下也、仍執達如」件

(斯被義籽)

応永四年八月十八日

沙你(花押)

右兵衛佐殿 (渋川賴)

 

応永四年(一三九七)八月十八日、幕府は安芸国守護渋川満頼に命 じて、杣村内大塚・久知両村にたいする武田伴遠江五郎の押妨を止め、厳島社家雑掌が知行すべきであるとしている。

 

武田伴遠江五郎なるものは明らかでないが、沼田町伴に拠を有 する伴氏であろう。

 

大塚(沼田町)久知(安佐町)をめぐって相論を 行っている。

 

これによると武田伴遠江五郎は相村七か村を貞治年中(一三六二~一三六七)に拝領していることがわかる。

 

また建武二年(一三三五)や至徳三年(一三八六)の安堵状なども有しており、早くからこの地にかかわりをもっていることがうかがえる。

 

「沼田町史」から引用。

 

南北朝時代は一般に1337年~ 1392年頃だと言われているため、大塚氏はこの時代に生きた人物だとして、宮ケ瀬神社の勧請に注力しており尚且つ厳島神社も一緒に勧請したということから以下の推測が成り立たないだろうか。

 

大塚氏は厳島氏の神領衆の一人であり、当時宮ケ瀬神社に八幡神と厳島神社を勧請した。

 

しかし、1397年頃に武田の一族である武田伴遠江五郎の押妨が発生する、武田「伴」遠江五郎とあることから近隣の「伴氏」が

 

この大塚の地を押妨したのではないか?

 

南北朝時代に活躍していた大塚氏も武田氏の押妨にて厳島の神領の影響力が無くなり、伴氏の支配が確立されたものと考える。

 

その後の大塚氏がどうなったか不明であるが、厳島神領家陣営であれば、滅亡して新しい支配者として伴氏は入部したのかもしれない。

 

若しくは、早い段階で押妨からすぐに武田(伴)側の家臣になったという推測も成り立つ。

 

所感

●城の規模はそこまで大きくない、また加工度も低い。

 

●大塚観音堂や宮ヶ瀬神社など大塚氏に関わり合いも史跡も残っている。

 

●大塚氏が武田氏の家臣だったか不明。

 

関連URL

【広島県】国重城【広島市安佐南区伴東】

【広島県】伴東城・伴城【広島市安佐南区伴町】

近隣の城

 

参考URL

城郭放浪記(岸城)

ひろしま昔探検ネット(岸城)

open-hinata

 

参考文献

『日本城郭大系』13

『広島県中世城館遺跡総合調査報告書』

『広島県の地名』

『広島県地名大辞典』

『広島の中世城館を歩く』

『萩藩諸家系譜』

『毛利八箇国御時代分限帳』

『萩藩閥閲録』

公開日2023/02/19

 

ホームに戻る

攻城一覧

 

Copyright © 山城攻城記 All Rights Reserved.