城データ
城名:頼兼城
別名:無し
標高:25m
比高:22m
築城年:不明
城主:岡崎十郎左衛門頼兼
場所:広島県三原市頼兼町
北緯:東経:34.399373/133.057219
攻城記
城跡に石碑が建っている。
「頼山陽先生遠祖頼兼城址」とある。
城主岡崎十郎左エ門頼兼天正年間
故アリテ廃セラレ子孫永ク此地方
ニ住シ後竹原ニ移ル 山陽先生ハ竹
原頼五世春水ノ子也 大人
昭和27年に三原市によって建立されている。
先端部分。
当時の面影はあまりない。
若干の比高がある。
堀切跡か。
位置関係
中世の推定海岸線
中世は麓まで海が迫っていたと考えられる。
open-hinataより【頼兼城】
余湖図【頼兼城】
当時のイメージ図(余湖図コレクションより引用)
『芸藩通志』【頼兼城】
城の概要
1973年, 山陽新幹線建設に伴い,南側斜面の一部の発掘調査が行われている。
所の長さ約100m,幅約20mの範囲が平坦であるが,現在畑となっており,原状発掘調査では主に近世陶磁器が出土しており,中世と判断できる遺構はなく,中世の遺である。
ただ,城跡西側の傾斜変換点付近にある道は周囲より一段低く,堀切であった可能性もある。
『広島県中世城館遺跡総合調査報告書』より引用
城の歴史
天文16年(1547):小早川隆景の神辺城攻めの際、岡崎頼兼にも出陣の命があったが、頼兼の妻女と姉妹関係にある神辺城主の妻女との事もあり、頼兼は出陣しなかった。
それにより、小早川隆景の神辺城攻めの後、頼兼城は攻められ、頼兼は戦いに敗れ、一族全員自害し城に火をつけ亡びる。頼兼城は廃城となる。
との伝承がある。
城主家系図
所感
●現在は宅地化されて当時の様子はあまり伺いしれないが、麓まで海岸であったと思われる。
●城の付近には岡崎姓があったが、たまたま同姓なのか、それとも子孫なのか。
●子孫には日本の歴史を変えたといっても過言ではない頼山陽がいる。
※頼山陽の日本外史は後に吉田松陰の思想に大きく影響を与えた。
関連URL
近隣の城
参考URL
参考文献
『日本城郭大系』13
『広島県中世城館遺跡総合調査報告書』
『広島県の地名』
『広島県地名大辞典』
『広島の中世城館を歩く』
『萩藩諸家系譜』
『毛利八箇国御時代分限帳』
『萩藩閥閲録』
公開日2022/08/06