城データ
城名:丸山城
別名:勝場山城
標高:144m
比高:50m
築城年:不明
城主:上里氏
場所:広島県尾道市御調町丸門田
北緯:東経:34.498402/133.115604
攻城記
前方の小山が丸山城。
途中垰山城が見える。
御調川を渡ればすぐそこにある。
これが天然の濠の役割をしていたのであろう。
萩八幡神社に行く道を道なりに進み、途中の入り口から入っていく。
石垣っぽいがこれは後世のものだと思われる。
山頂までこのような道がある。
途中ところどころに地蔵がある。
人工的な加工跡。
その先に進むと曲輪がある。
場所的には本丸の北に位置する。
石積みの跡、これも当時のものか不明。
山頂部に到着。
本丸方向。
本丸には観音霊場の観音堂がある。
下を臨む。
木々があって見にくいが麓との比高はそこまで高くはない。
本丸部分。
本丸から二の丸方向。
曲輪の周囲には石垣もある。(当時のものか不明)
二の丸方向から。
萩八幡神社
萩八幡神社から丸山城を臨む。
萩八幡神社は仁治2年(1241年)に千葉豊後入道直翁が東中八幡宮として造営したのが始まりという。
位置関係
open-hinataより【丸山城】
余湖図【丸山城】
当時のイメージ図(余湖図コレクションより引用)
『芸藩通志』【丸山城】
拡大図。
城の概要
山頂部には三つの郭が並び,東下の郭は一部破壊されているものの,北辺に土塁,南に虎口を有する。
南麓に石垣が見られ,屋敷跡の可能性がある。
『広島県中世城館遺跡総合調査報告書』より引用
標高一四二メートルの独立丘陵に上里里周防守実秀が明応年間(一四九二~一五〇一)に三次より来て在城、四代が居城し、天 正一八年(一五九〇)四月に落城したといい、一族の上里豊後守は天文一三年(五四四)尼子氏が三吉氏を攻めたとき 加勢して功があったという。
上里氏の知行所は郡内では丸門田・丸河南・徳永・植野・今田・大原・綾目・野間・三郎丸の諸村であった(御調郡誌)。
丸山城跡西南には千葉豊後の居城と伝える峠山城跡がある(芸藩通志)。
『広島県の地名』より引用
丸山城
丸山城は、御調川によって開析された丸門田の耕地中の独立丘陵上に構築された山城である。
城主や築城年代などは詳らかではないが、『芸藩通志』によれば、上里丹後、 あるいは上里周防とみえている。
その後、同善九郎通職・民部助実と続き、天正十八年(一五九〇)に、四郎三郎元実の代に落城したことが『御調郡誌』記されている。
本城には三段の郭が構築され、それに数段の小郭が配置されている。
また、 二郭、三郭の一部には石垣が築かれ、さらに周囲は急崖となっているため、容易に攻略できない堅固さを備えている。
また、本城を取り巻くように御調川が 流れているため、これが濠としての機能を果たしたものであろう。
『日本城郭大系』13より引用。
城の歴史
明応年間(1492~1501):上里周防守実秀が三次より来て在城する。
天正18年(1590):4月に落城する。4代目上里四郎三郎元実の時に落城する。
城主家系図
ただし、上里家系図では若干違いがある。
九郎と助実の間に少輔三郎が入る。
周防守は実秀ではなく高宕という人物。
城主(一族)石高
丸門田、丸河南、徳永、植野、今田、大原、綾目、野間、三郎丸の諸村であった(御調郡誌)
1619年頃の石高
丸門田村 556石
丸河南 505石
徳永 434石
植野 526石
今田 389石
大原 340石
綾目 671石
野間 206石
三郎丸 230石
合計 3857石
全ての村が自分の所領でないとしてもかなり勢力があったかもしれない。
所感
●門丸田は三次方面からだとかなり南に進んだ地域であり、この場所に何故所領があったのか興味が尽きない。
●この地域には千葉氏もおり、隣の垰山城は城主が千葉豊後であった、しかし、千葉氏と上里豊後守の混同であったのであれば、上里氏がこの地域を広範囲に支配していてもおかしくはない。
●御調郡誌では天正18年(1590)に落城とあるが、この時代は秀吉の天下統一の時代であり戦があるとは思えない、天文18年(1549)の間違いではないか。
●かつて城山の周りは沼地だったらしく、沼城の為敵も攻めにくかったのではないか。
関連URL
近隣の城。
参考URL
参考文献
『御調郡誌』
『日本城郭大系』13
『広島県中世城館遺跡総合調査報告書』
『広島県の地名』
『広島県地名大辞典』
『広島の中世城館を歩く』
『萩藩諸家系譜』
『毛利八箇国御時代分限帳』
『萩藩閥閲録』
公開日2022/05/01