城データ

城名:石垣山城

別名:石垣山一夜城、太閤一夜城

標高:261m

比高:220m

築城年:天正18年(1590)

城主:豊臣秀吉が築城

場所:神奈川県小田原市早川

北緯東経:35.235209/139.127121

石垣山城はここ

 

攻城記

バス停から降りて攻城開始。

石垣山というだけあって凄い量の石垣。

角の石垣。

下から見上げる。

 

看板

石垣山城は、「笠懸山」あるいは「石垣山」と呼ばれる箱根から派生する山上にあります。

関白豊臣秀吉が天正18年(1590)の小田原合戦の際に築いた陣城で、徳川家康家臣松平家忠が記した「家忠日記(六月二十二日)」に「石かけの御城」と記されていることから、「石垣山城」と呼ばれています。

 

秀吉が、一夜のうちに城が出現したように見せかけたとの伝承から「石垣山一夜城」とも呼ばれていますが、実際には「聚楽又ハ大坂の普請を数年させられ候二不相劣様」と、聚楽第や大坂城に勝るとも劣らない普請工事であったことを秀吉自身が書状にしたためており、秀吉入城までに3ヶ月の築城期間を要した関東唯一の豊臣秀吉の城郭です。

 

今も穴太衆により築かれた野面積みの石垣が本丸や南曲輪などの各所に残り、谷を石塁で塞いで井戸とした井戸曲輪の姿は圧巻です。

 

本丸目指して登っていく。

400年以上前からここにある石垣。

圧巻である。

南曲輪跡。

 

本丸跡。

この場所から小田原城を眺望できる。

二の丸方面。

 

看板

史跡 小田原合戦と一夜城伝説

小田原北条氏を攻めることを決意した関白豊臣秀吉は、天正 豊臣方の布陣18年(1590)3月1日に京都を発し、4月3・4日には小田原城の攻囲を開始しました。

 

そして、4月6日には早雲寺(箱根町)を本陣とし、その日のうちに笠懸山(石垣山)に登って小田原城を眺望しました。

 

周囲9kmにわたり、壮大な堀と土塁で周囲を囲んだ小田原城を力攻めにするのは難しいと判断した秀吉は、長期戦の構えでこの場所に城を築城することを決めました。

 

普請は急ピッチで進み、秀吉は5月14日には石垣ができあがって広間・天守などの作事に差し掛かる段階にあったことを、妻の北政所(ねね)に手紙で知らせています。

 

6月9・10日には奥州の雄、伊達政宗が普請中の石垣山で秀吉に伺候します。

 

その時政宗は、前日には無かった白壁を「紙を貼ったもの」と見破り、 秀吉を初めとする諸将に賞賛されています(「木村宇右衛門覚書」)。

 

そして6月26日、秀吉は石垣山に本陣を移しました。

 

これを期に、秀吉は小田原城へと一斉に鉄砲を撃ちかけさせ、小田原北条氏方を脅かしました。

 

このような秀吉の行動や政宗と白壁の逸話が、「小田原城を遮る大樹を悉く斬る。

 

小田原城中より是を見 だい み み かわして、笠懸山に附城一夜に成就せるに驚く」(『大三川志』)や「面向きの松の枝ども切りすかしければ、小田原勢肝をつぶし、こはかの関白は天狗か神か、かやうに一夜の中に見事なる館出来けるぞや」(『北条記』)との、後の一夜城伝説を生んだのです。

 

一夜城伝説の真意はともかく、人員を大量動員した築城を可能とする秀吉の権威と財力が、小田原北条氏が降伏する決定打となったのです。

 

二の丸から石垣を見上げる。

 

 

 

看板

石垣山一夜城二の丸(馬屋曲輪)

 

石垣山は、もと笠懸山、松山などと呼ばれていましたが、 天正一八(一五九〇)年豊臣房吉が小田原北茶氏の本拠小田原城を水陸合わせて約二十二万の大軍を年いて包囲 した小田原合戦のとき、その本営として総石垣の械を築いて 石垣山と呼ばれるようになりました。

 

この域を一夜にして築いたように見せかけたという伝承 から石垣山一夜域ともいわれています。

 

ここ二の丸(馬屋曲輪)は、本丸(本城曲輪)と並んで 最も広い曲輪で、中心部分、北へ長方形に張出した部分及び 東の腰曲輪部分、これらの三つの部分からなっています。

 

「新場相模国風土記稿」では二の丸として紹介されているが 伝承によれば馬屋が置かれ、本丸寄りには「馬流い場」と 呼ばれた湧水もあったようです。

 

井戸曲輪に行く道の直ぐ 横には「構台跡」が残っており、他の曲輪にも「櫓台跡」が 確認されています。

 

小田原会戦の当初に豊臣秀吉の本営の置かれた箱根湯本の 早雲守には、一夜城で使用した神奈川県指定重曇文化財の 「梵鐘」が残っており、どこかの櫓で使用されたと思われ ますが、現時点では、詳細は不明です。

 

三の丸。

井戸曲輪。

アップ。

二の丸から下って戻る途中にも立派な石垣がある。

 

余湖図

当時のイメージ図(余湖図コレクションより引用)


城の概要

石垣山城跡

早川集落の西北、箱根外輪山の東端、標高二六一六メ ートルの石垣山山上にある豊臣秀吉の小田原攻めの本営 として築かれた城の跡。

天正一八年(一五九〇)四月一日箱根山を越えて湯本の早雲寺に本陣を置いた秀吉は、昼夜兼行で 京都聚楽第や大坂城に劣らぬ築城を命じている。

 

秀吉に随軍した千利休は六月二〇日の古田織部宛書状に「一関白様被仰付候御城も漸当月出来にて候、然者還御あるへく候哉、 小田原も久事候ましく候ハん、方々内々かけ事ニかきり も無之由申候」と記しており、六月下旬には完成したも のと考えられる。

 

「北条記」によれば北条氏の重臣松田憲秀の進言によるもので、「嶮難の地、屈竟の要地、(中略) 小田原を目の下に御覧候は>」という位置に築かれ、完成とともに小田原城側の樹木を伐払ったため「一夜の中 に白壁の家出来ける」と北条軍を驚かせ、一夜城の名が 付いたという。

 

城の規模は東西三四〇メートル、南北二〇五メートル。

 

石垣山山頂を削った平地の中央付近に東西一一四メート ル、南北一〇二メートルの本丸があり、その西に天守台、 西端には二ノ丸に相当する西郭、東に厩郭・馬出郭が続く。

 

東端には深い谷間を野面石積みで堰止めた井戸郭が あり、石垣内側は天端より九メートル深く、さざえの井 戸とよばれ、また淀君化粧井戸とも伝承される。

 

井戸郭 北側と本丸南側に櫓台跡がある。

 

天守閣は天守櫓敷坪 規模などより、二層ないし三層と考えられ、瓦の出土より瓦葺屋根であったと推定されている。

 

全域が野面石積 みによる城郭としては、関東最初の築城例という。

 

所感

●関東には石垣の城が少ないのでこの石垣山城の城は圧巻であった。

●僅かな期間でこのレベルの城を築城する、豊臣方の財力と人手があればこその天下統一は納得できる。

●井戸曲輪に行きたかったが、手段行動のため行けず、残念であった。

 

関連URL

【神奈川県】小田原城【小田原市】

小田原城攻め。

 

参考URL

小田原市

石垣山城(ウィキペディア)

城郭放浪記(相模石垣山城)

 

参考文献

『神奈川県の地名』

『日本城郭大系6』

公開日2021/02/23

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