城データ
城名:古城山城
別名:無し
標高:225m
比高:30m
築城年:13世紀後半か
城主:広沢与三実高(後に和智氏となる)
場所:広島県三次市和知町
北緯:東経:34.811215/132.930217
攻城記
城としてはそこまで大きくない。
目の前には川があり天然の濠の役割をしている。
削平地。
本丸跡には小社があった。
若干の加工が見て取れる。
位置関係
open-hinataより【古城山城】
余湖図【古城山城】
当時のイメージ図(余湖図コレクションより引用)
城の概要
1973年に発掘調査が実施された。背後には土塁と堀切,先端部には堀切を設け,北側斜面には小規模な小郭が二つ取り付く。
郭内からは古墳,溝などが検出された。出土遺物は青磁椀などで,15世紀代に比定される。
なお,郭の北側斜面下からは中世の古墓が検出され,備前焼の片口壷が出土している。
『広島県中世城館遺跡総合調査報告書』より引用
古城山城
三次盆地の東端にあり標高二二五 ㍍ 、比高三五 ㍍の丘陵先端部を利用した山城跡 。
文献資料には全く見られず 、中国自動車道建設に伴う遺跡分布調査で確認され昭和四八年(一九七三)に発掘調査された 。
城の範囲は、六二×四五㍍で背後を土塁と堀 切で断絶し、先端部には堀切を設け北側に二段の小郭を配する単純な縄張りである。
郭内は、古墳が残っているようにほとんど自然地形のままで、ただ北側は急斜面で小郭の存在との関係から多分に北方に対する備えを意識したものかと思われる。
出土した青磁が一五世紀代に比定され、それ以後の遺物が出土していないことから廃城もその時期であった可能性が高い。
当地は一三世紀中ごろ、地頭職として広沢氏(後の和智氏)が入部し、城の南麓の土居地名とあわせて考えれば、地頭職入部当時の築城と考えられる。
( 新祖隆太郎)広島県教育委員会『中国縦貫自動車道建設に伴う埋蔵文化財発掘調査報告(一) 一九七八年
『三次市史第2巻』より引用
城の歴史
建久3年(1192):広沢氏が恩賞として三谷郷十一郷を賜る。
承元年間(1207~1210):この頃、和智実高が和智八幡宮を勧請する。
承久3年(1221):承久の乱にて更に三谷郡の別の所領を獲得し新補地頭となる。
13世紀後半:この頃実質的に在地に根差して支配をし始めたか。
正安4年(1302):後深草院二条が厳島神社詣での帰途、和智邸及び江田邸に立ち寄ったことが日記『とはずがたり』に書かれている。
応安年間(1368-1375):広島県三次市吉舎町の備後・平松山城、更に南天山城へ移ったとされる。
城主家系図
資実の時に古城山城から南天山城に移った。
「とはずがたり」における和智の館
1302年頃に都から後深草院二条が厳島神社詣での帰途、和智邸及び江田邸に立ち寄ったことが日記『とはずがたり』に書かれている。
戦後すぐの写真。
現在の写真。
現在は国道が通っているが、当時は白枠あたりが館跡ではなかったか。
所感
●城の規模は小さく、戦になれば籠城するしかないが、当時の戦での人数は数十人規模と思われるので、このレベルでも対応可能だったのかもしれない。
●中世の城、館、八幡宮などが周辺にあり、この地を「一所懸命」に守っていたことが窺い知れる。
●城は高速道路で一部破損している。
関連URL
戦国時代の和智の居城。
和智春誠の城だと伝わる仁後城。
参考URL
参考文献
『三次市史』
『日本城郭大系』13
『広島県中世城館遺跡総合調査報告書』
『広島県の地名』
『広島県地名大辞典』
『広島の中世城館を歩く』
『萩藩諸家系譜』
『毛利八箇国御時代分限帳』
『萩藩閥閲録』
公開日2022/03/20