城データ

城名:南天山城

別名:矢の城

標高:330m

比高:120m

築城年:和智氏は資実のときに和知から吉舎へ移ったらしい。

城主:和智氏

場所:広島県三次市吉舎町吉舎

北緯:東経:34.713604/132.986659

南天山城はここ

 

 

攻城記

南天山城全景。

 

南天山城と和智氏

南天山城は中世、約200年の間、9代にわたってこの地方を支配した和智氏の本拠で、戦国時代のこの地方を代表する本格的な山城です。

 

築城年代は文献がないために明確ではありませんが、初代の和智資実が14世紀中ごろに本拠地を和知(現三次市)から吉舎に移したことから、このころに築城されたものと思われます。

 

以後、和智氏の本拠として戦国時代を迎えました。

戦国時代、和智氏は大内氏・尼子氏の二大勢力の間にあって、大永年間(1521~1527)には尼子氏に攻められ、8代城主の和智豊郷は尼子方に降っています。

 

9代城主の和智誠春は大内氏を滅亡させた毛利元就の味方として転戦していましたが、永禄12(1569)年、元就によって厳島において誅殺されました。

 

誠春の子の和智元郷は毛利氏に従い、和智氏は吉舎の地を離れています。

 

そのため、この頃に南天山城は廃城となったと思われます。

 

平成9(1997)年11月 市史跡に指定

 

南天山城について

標高340mの南天山山頂を本丸とし、南北に延びる尾根にそって郭(削平地)が何段もあります。

 

ここから200m上がった所に大手門(城の入口)がありました。

城内には井戸跡が4ケ所あります。

 

また、戦国時代特有の竪堀の跡が数ヶ所あります。

 

これは、敵が攻めたときに敵の左右の移動を防ぐためのものです。

城内からは一部の建物に用いられた軒丸瓦や軒平瓦の破片が見つかっており、それらは吉佐町歴史民族資料館に展示されています。

南天山城は城域が非常に広く、敵が攻めてきたきたときには城下に住んでいた住民も一緒に立てこもったと考えられます。

南天山城の城下町である吉舎には「古市」「七日市」「四日市」といった古い地名が残っています。

 

また城下を流れる馬洗川は、もともと現在の国道184号線あたりを流れていたのを堀として利用するために流路を変えたという言い伝えもあります。

なお、南天山と北側の尾崎山を区切る「尾崎山の堀切」は、戦国時代のものではなく、江戸時代後期に清正公の初代庵主日正上人が里道のため開削したものです。

 

尾崎山の堀切(江戸時代末期に僧が3年の歳月をかけて削った)

清正公付近からみた城下町。

スタート。

最初はこんな感じ。

しばらくすると楽になる。

先に進む。

北東先端部の曲輪、このような曲輪が続く。

土塁。

曲輪も多く、しかも広いのが特徴。

竪堀跡。

大井戸跡らしいがよく分からない。

ここから山を直登してしまい三の丸に到達。

二の丸。

本丸。

本丸土塁。

投石用の礫か。

本丸裏土塁。

土塁から見て南の曲輪。

三の丸に戻る。

更に下り四曲輪へ到着。

麓に戻り目の前の寺を見る(善逝寺)南天山城初代城主の和智資実が創建した。

 

open-hinataより【南天山城】

 

余湖図【南天山城】

当時のイメージ図(余湖図コレクションより引用)

 

『芸藩通志』【南天山城】

拡大図。

 

城の概要

最高所の1郭は背後(南西側)に高さ4mの土塁を持ち、さらに堀切を挟んで南西側にも郭を置いている。

 

1郭の西下には堀切を挟んで井戸跡が残る小郭がある。

 

1郭を中心とする郭群から北へ延びる狭い尾根上にも郭を連ねており、2郭とその北下の谷部にある小郭にも井戸跡がある。

 

本城跡からは軒丸、軒平瓦と鉄滓が採集されている。

 

本城跡は、和智氏が本拠とした城と考えられている。

 

『広島県中世城館遺跡総合調査報告書』より引用

 

南天山城

南天山城は、東は馬洗川、西は桜尾川の谷に挾まれて北に細長く延びる丘陵 上に、郭を階段式に設けた和智氏の本城である。

 

和智氏は、東国の広沢与三実方を初代とする広沢氏から派生した家で、広沢氏は十二世紀末から十三世紀初頭頃に三次市・双三郡西部の地の地頭職を与えれ、二代実高の三男実村の時に備後のこの地に移った。

 

実村には二子があっ て、実綱が江田氏、実成が和智氏と分かれ、実成の五男資実は足利尊氏から双三郡東部の所領を安堵された。

 

暦応三年(興国元、一三四〇)、和智氏の所領が天龍寺造営料所に定められたため、和智氏はこれを不満として反足利方に転じ、それは資実の子師実にも受け継がれた。

 

貞治四年(正平二十、一三六五)、足利義詮は山内通継・矢野上野介に対して吉舎の平松城に拠る師実の鎮圧を命じているが、その後、まもなく師実は天龍寺造営料所の替地に成功し旧地を確保したようで、同六年に足利義詮は山内通継に宛てて和智師実と共に矢野上野介・太田備前を討つように命じ ている(『山内首藤家文書』)。

 

和智氏は、これよりまもなく、より強固な居城として平松城の南約二㎞に南天山城を築いて移った。

 

この南天山城の北端にある尾崎神社の西方に正覚山善逝寺があるが、ここに伝来する本尊には、応安二年(正平二十四、一三六九)、 定快の作銘と檀那藤原師実の寄進銘がある。

 

おそらく善逝寺は、南天山城の築城と前後して創建されたのであろう。

 

南天山城に本拠を移した和智氏は、室町時代前半は備後国守護山名氏に属した、応仁の乱以後は、山口の大内氏と結ぶ毛利氏と山陰の尼子氏との勢力伸長の間にあった。

 

大永二年(一五二二)、尼子経久が南天山城を囲んだため、和智氏は一時、尼子方に降ったが、その後はしだいに毛利氏に属したとみられ、 天文九年(一五四〇)の尼子晴久が毛利元就の郡山城を囲んだ郡山合戦には、和智氏の一族は毛利方に属して戦っている。

 

天文二十二年、毛利元就は尼子方の三次市三若町の旗返山城に拠る江田氏を攻略したが、毛利方には南天山城主和智又九郎誠春が加わっている。

 

また、弘治三年(一五五七)の毛利氏親類衆・年寄衆ならびに家人連署の起請文の中に、 和智又九郎誠春のほか、一族の安田少輔元賢・柚谷新三郎元家・上原右衛門大夫豊将の名がみられ、和智氏が毛利氏に従属していたことがわかる。

 

永禄六年(一五六三)、毛利氏は隆元を総大将として尼子氏を攻略することに高田郡高宮町佐々部で軍を整えていた。

 

そのおり、隆元は和智春誠 湯谷久豊(柚谷元家)の仮屋の宴に招かれたが、病を発して翌日に そのため、誠春・久豊兄弟は毒殺の疑いをかけられ、同十二年に厳島において 毛利元就によって幽閉され、殺害された。

 

誠春の子元郷は同十一年二月十六日、 元就に対して起請文を出し殺害を免れたが、南天山城は廃城となった。

 

南天山城は、北に延びる丘陵の尾根を利用して、階段状に郭を配置した城郭 の典型的なもので、地形的にいくつかの郭群に分けることができる。

 

これは和智氏の勢力の増大に伴って、しだいに郭を増加して城の繩張りを拡大していっ たものと思われる。

 

本丸は、三七m×三六mの規模で、その南側には北側に土塁を設けた高さ六mの櫓跡がある。本丸の北方下にある二の丸は、二一m×二八mの規模で、そのさらに北方直下には二段からなる三〇m×五五mの三の丸を設けている。

 

この三の丸から二〇m前後下った大手口の真上には鋤先形を呈する郭がある。

 

二の丸から東に下る丘陵の斜面には小郭群を設け、二の丸・三の丸への敵方 の直進を阻止している。

 

この小郭群の北方には東南隅近くに井戸二か所と竪堀 一本を設けた郭がある。

 

この郭から北に比高差一~二mで、長さ一二~二八m、 幅一二~一六mの小規模な郭を八段設けており、馬場跡といわれている。

 

北端には五二m×一七mの規模の郭のほかに小郭をも配し、東・西両斜面には腰郭が細長く延びている。

 

丘陵の北端は、いったん鞍部となって、尾崎神社が鎮座する出丸の尾崎丸があり、吉舎の町並を見下ろしている。

 

この城の大手道は、櫓跡から北方に延びる尾根と、井戸や竪堀を設けた郭から北方に延びる郭群との間にある谷道で、その途中には土塁を設けているほか、 三~四段の平坦地がある。

 

本丸の櫓跡の背後は、二五mほど下った丘陵鞍部を空堀とし、井戸のある小 郭や堀切・竪堀を設けているが、後世の開墾によってかなり旧状を失っている。

 

つぎに、本丸の東下方に延びる小尾根には、五五m×二〇mの郭があり、南側に土塁、北側に井戸を設けている。

 

和智誠春は殺害されて永樹寺境内に葬られたといわれているが、このほか一 族の墓としては、氏実は大慈寺の門前に、実勝・豊広は南天山城の南方の清綱の地に墓として伝えられているものがあり、そのほか各所に和智氏が寄進・創 建した社寺が知られている。

 

『日本城郭大系』13より引用

 

城の歴史

南北朝時代:足利尊氏から吉舎の地を安堵される。

 

1340~1360年頃:この頃和智資実が南天山城の築城したらしい。

 

延元5年(1340):この頃 幕府から安堵されていた所領が天龍寺造営料として定められた為これを不服として反幕府になる。

 

正平22年(1367):天龍寺造営料の替地に成功して旧地を確保する。

 

大永2年(1522):尼子氏が南天山城を包囲 一時期尼子へ下る しかし、またしばらくして毛利方へつく。

 

天文9年(1540):尼子の吉田郡山城合戦の時には毛利側として戦っている。

 

天文22年(1553):毛利元就が江田氏を攻略した時にも毛利側として戦っている。

 

弘治3年(1557):親類衆・年寄衆ならびに家人連署の起請文の中に、 和智又九郎誠春のほか、一族の安田少輔元賢・柚谷新三郎元家・上原右衛門大夫豊将の名がみられ、和智氏が毛利氏に従属していたことがわかる。

『毛利家文書225』

 

永禄6年(1563):和智誠春が毛利隆元を饗宴したが翌日に隆元死亡する。

 

永禄11年(1568):和智元郷は毛利元就に忠誠を誓う誓詞を出す。

『毛利家文書241』

 

永禄12年(1569):毛利元就が厳島において和智誠春、久豊兄弟を毒殺をしたという理由で幽閉して殺害する。

この頃毛利氏に城が摂取される。

 

城主家系図

和智資実が南天山城を築いたとある。

和智豊郷は上原氏から家督相続を行った。

 

城主(一族)石高

 

生右衛門に続く家系図は、『みよし地方史』第77号を参考にした。

 

和智勝兵衛(元盛)

2927.065石

 

【内訳】

200.000石 石見 美濃

053.000石 周防 佐波

2674.065石 備後 三谷

 

和智生右衛門(由郷もしくは元次)

208.126石

【内訳】

50.082石  備後 三上

96.722石  備後 三谷

29.300石  安芸 高田

09.485石  安芸 佐西

22.537石  周防 玖珂

 

三谷郡全てで9310石余りなので、和智氏惣領家としても元盛は和智のある土地の3割弱しか治めていなかった。

 

所感

●国衆として大きな力を有している為城の規模も大きい。

 

●なぜこの吉舎という場所に本拠地を移したのか疑問。

 

●戦国時代中期まで同族の江田氏と同じ行動をしていたが、最終的に和智氏は毛利氏(大内氏)についたため生き残った。

 

●和智誠春と毛利隆元は誠春と隆元が福原氏を介して縁戚関係にあったこともあるが、関係としては薄いと思われる。

※むしろ内藤興盛を通じた関係の方が強いのではないか、それとも伝承が誤って伝わったか。

関連URL

【広島県】古城山城【三次市和知町】

和智氏初期の城。

【広島県】仁後城【安芸高田市高宮町船木字田屋郷】

和智春誠の城との伝承もある。

【広島県】今高野山城【世羅郡甲山町】

和智一族の城。

 

参考URL

南天山城(ウッキペディア)

城郭放浪記(備後南天山城)

西国の山城(南天山城その1)

西国の山城(南天山城その2)

武家家伝(和智氏)

和智春誠(ウッキペディア)

和智元郷(ウッキペディア)

 

参考文献

『三次市史』

『日本城郭大系』13

『広島県中世城館遺跡総合調査報告書』

『広島県の地名』

『広島県地名大辞典』

『広島の中世城館を歩く』

『萩藩諸家系譜』

『毛利八箇国御時代分限帳』

『萩藩閥閲録』

公開日2022/03/20

 

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