城データ

城名:田屋城

別名:無し

標高:280m

比高:100m

築城年:南北朝時代(14世紀頃)

城主:内藤氏

場所:広島県安芸高田市向原町長田

北緯:東経:34.604866/132.706529

田屋城はここ

 

攻城記

 

麓にある看板。

攻城開始。

登って行く。

城域に到達(堀切とあるが本当は竪堀)

最初の曲輪(四郭)。

後世のもの。

見どころはこの土塁。

立派に残っている、土塁を歩いていくと上の曲輪に繋がっている。

土塁から見下ろす。

二郭(井戸郭)

かなり深い井戸。

柵も壊れているので落ちないように注意が必要。

二郭の土塁も見ごたえあり。。

土塁の残り具合が良い。

人が住んでいたのではないかと思われる位石垣で整えている。

正面扉の付近か。

本丸裏の土塁。

本丸からの眺望。

土塁から下を見る。

本当は竪堀ではなく堀切。下の看板と間違っている。

 

 

田屋城跡

右側尾根、比高約百米を深い竪堀で区画した田屋城は四つ の郭で構成している。

 

主郭(本丸)は掘り込みを入れた櫓台状の土塁を背にし、続く二郭は 西側株形の虎口があり、石垣による区画がある。

 

三郭は主郭の北西下約十米にあり中央に深さ約九米石垣井戸が あるさらに十米下に四郭があり、一 時荒神社が祭られた跡がある。

 

嚴島神社神主佐伯氏の一族内藤為弘は荘官であったが、鎌倉幕府の地頭となり、代々この地方を領有する。

 

築城は南北朝の十四世紀頃と考えられる。

 

高田郡社寺古城山由来に「⋯⋯高五十間 よこ廿問、城主内藤河内守、知行四千 石の由⋯⋯」と記す。

 

この城に由来する地名に田屋・矢拍子.城山,陣ケ坪,東山.黃幡谷等があり、またまつわる民話・伝説も多い。

 

 

 

田屋城址

高田郡社寺古城山由来記は「高五十間・よ こ廿間・城主内藤河内守・知行高千石の由」 と記す。

 

四つの平段があつて・下から二段目 に深さ九メートル水の涸れた廃井がある。

 

山麓の西方は今でも地名を田屋という。

 

また 城山と三篠川の間の地名を矢拍子と言い・それにまつわる伝説が・城の真向かいの山「陣 が坪」とともに今も語り伝えられている。

 

 

 

余湖図【田屋城】

当時のイメージ図(余湖図コレクションより引用)

 

『芸藩通志』【田屋城】

拡大図。

 

城の概要

丘陵背後(南側)を堀切で区切り,最高所の1郭とその西下に三つの郭(2〜4郭)を置いている。

 

1郭は約50×30mで,背後の堀切に面したところに高さ約2mの櫓台状の土塁が廻る。

 

西側には桝形の虎口があり,石垣による区画がある。3郭は1郭の北西下約10mにある郭で,東側は土塁で区画し,中央には直径約0.9mの石組井戸がある。

 

4郭は3郭の北下約10mにある郭で,東側は土塁で画し,土塁に接して井戸状の落ちこみがある。土塁は3郭への通路と考えられる。

 

城主は内藤氏と伝えられる。

 

『広島県中世城館遺跡総合調査報告書』より引用

 

田屋城跡 向原町長田

三篠川へ見坂川が流れ込む地に南西から張出した山の上にあり、「高田郡社寺古城山由来記」は「高五十間、よ こ廿間、城主内藤河内守、知行高四千石の由」と記す。

 

山上に平壇が四つ、深さ九メートルの水のかれた廃井がある。

 

城主内藤氏は平安時代末期の厳島神社神主で、その頃高田郡七郷の地を相伝私領とした佐伯景弘の一族とみられ、鎌倉初期に長田の地頭職を得る内藤為弘は、初め康弘といい、一時佐伯姓を称した。

 

高田郡妻保垣、高田原 (現甲田町)ならびに長田郷は平安時代末期から厳島神社領 で、為弘はその荘官であったと思われるが、平氏滅亡の のち為弘は進んで関東御家人となり、建保四年(一二一六) :には鎌倉幕府から正式にこれらの地の地頭職に補任された(「閣閱録」所収内藤次郎左衛門家文書)。

 

その後子孫の為貞・ 為久・姫松・景廉・教泰・親廉・道泰・重廉・元廉・泰康と伝領されたが、泰廉の子元泰には長田郷のみが譲られた。

 

元泰の長子元康の妻は福原出羽守貞俊の妹で、毛利元就には姪にあたる。

 

毛利氏の麾下に属した時代は不明であるが、おそらく元康の時であろう。

 

『広島県の地名』より引用。

 

城の歴史

 

明応6年(1497): 内藤泰廉、嫡子元康に長田郷地頭職を譲る。

 

文龟2年(1502): 養康寺の遺物の朱塗盆に同年銘が残る。

 

永正8年 (1511):内藤元廉、毛利氏に忠節を誓い、京関東御役の際役銭を納めることを約す。

『毛利家文書202』

『毛利家文書203』

 

天文元年(1532): 内藤元廉、毛利氏に利害関係の調停を要請した家臣団の連署起請文に加わる。

 

天文19 (1550):内藤元種、元就の上意に従うことなどを誓約した家臣団の連署起請文に加わる。

『毛利家文書401』

 

弘治元年(1555): 厳島の戦い。

 

弘治3年(1557): 内藤才松、軍勢狼藉禁止令に従うことを誓約した毛利氏家臣団の連署起請文に加わる。

『毛利家文書402』

 

永禄3年(1560): 内藤河内守、新宮大明神を勧請。

 

永禄9年(1566): 内藤元泰、毛利氏に対する「陣立其他諸公役」免除と引き換えに尼子氏の受け入れを承諾。円明寺に収容し厳重に監禁する。

 

天正16年(1588): 尼子義久、上洛を控えた毛利輝元に請われ秘蔵の刀を献上。

 

天正17年(1589): 尼子氏、志道へ移動。

 

平成 22 年度 秋山教授と行く 広島歴史探訪バスツアー 安芸の戦国再発見 -三篠川流域の武士たちと毛利氏-

より引用。

 

城主家系図

城主(一族)石高

内藤中務(元泰)

984.013石

【内訳】

893.126石 安芸 高田

090.887石 安芸 山県

 

内藤新右衛門(就藤)

553.765石

【内訳】

300.228石 石見 美濃

253.537石 周防 都濃

 

内藤河内守(元栄)

426.411石

【内訳】

123.161石 周防 玖珂

303.250石 備後 神石

 

内藤五郎兵衛(広泰)

21.393石

【内訳】

7.882石  周防 都濃

13.511石  安芸 高田

 

所感

●早い段階から毛利氏の家臣となっており「中郡衆」として譜代化していった国衆。

 

●信頼されており、元泰は元就から降伏した尼子義久の警固を何十年も任されていた。

 

●城は綺麗に加工されており、これぞ中世山城というイメージぴったりの城。

 

●石組井戸も残っており近隣では鈴尾城や隣の井原氏の鍋谷城などにもある。

 

関連URL

【広島県】鍋谷城【広島市安佐北区白木町大字井原】

【広島県】藤加勢城【広島市安佐北区白木町秋山】

【広島県】古川城【広島市安佐北区白木町三田】

その他「中郡衆」の山城。

 

参考URL

安芸高田市(田屋城)

城郭放浪記(安芸 田屋城)

安芸 田屋城跡(よしだっちの城跡探訪記)

安芸内藤氏(ウッキペディア)

武家家伝(安芸内藤氏)

内藤元泰(ウッキペディア)

 

参考文献

『日本城郭大系』13

『広島県中世城館遺跡総合調査報告書』

『広島県の地名』

『広島県地名大辞典』

『安芸の城館』

『広島の中世城館を歩く』

『萩藩諸家系譜』

『毛利八箇国御時代分限帳』

『萩藩閥閲録』

公開日2022/03/12

更新日2024/3/23

 

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