城データ
城名:琴崎城
別名:小手先城、内部城
標高:270m
比高:60m
築城年:南北朝時代
城主:毛利氏
場所:広島県安芸高田市吉田町小山
北緯:東経:34.642897/132.679912
攻城記
琴崎城全景。
比高は高くない。
尾根まですぐに到着できる。
本丸を目指して進む。
細長い曲輪が特徴の山城。
麓を臨む。
削平地。
位置関係
余湖図【琴崎城】
当時のイメージ図(余湖図コレクションより引用)
『芸藩通志』【琴崎城】
拡大図。
城の概要
細長い尾根に直線的に郭とその周囲に帯郭を配し,尾根続きを堀切で区画している。
東に延びる支尾根上には小郭が見られ若干東側を意識した構造となっている。
城の規模は大きいが土塁など防御施設は見られず,単純な構造である。
最高所の1郭の北西隅,その南の2郭の中央部,そこから南に一段高くなる3郭には巨岩が露出している。
特に2郭には築山状の高まりが見られ,この部分は庭として機能していた可能性がある。
「吉川家文書」には,足利尊氏に背いた毛利元春が1352(文和元)年にこの城に篭り,尊氏方の安芸国守護武田氏信と戦ったことが記されている。
また,1376(永和元)年にも一族間の争いの際にこの城のことが見え,南北朝期に本城跡が存在したことがわかる。
広島県中世城館遺跡総合調査報告書』より引用
琴崎城
琴崎城は、吉田盆地の南側を流れる可愛川東岸に延びる丘陵上にある山城で、 毛利氏の初期の城の一つである。
築城の年代は明らかでないが、南北朝期の争乱時に、「郡山殿」と呼ばれた 毛利氏四代元春が、足利尊氏に背き、文和元年(正平七、一三五二)にこの城に籠もって尊氏方の安芸国守護武田氏信と戦ったとの記録があるので、すでにそ 頃には城があったものと思われる。
また、六代光房もこの城にいたが 朝期の争乱にからむ永和二年(天授二、一三七六)の一族間の争いの際、匡時・直元らに攻められているなど、代々毛利氏一族が居城したことは明らかである。
その後も吉田盆地における毛利氏の南の守りを固める出城の一つとして利用されたらしい。
当城は、北へ延びる丘陵の背後を大きな空堀で区切って、その前に九段の長大な郭を並べていた。
また、細長い尾根上にも全長三〇〇mに近い長大な郭を 連ねていたが、構造的には郭を一列に並べた単純な直線状連郭式の山城である。
このほか、位置が、小山集落の谷の入口にあるためか、東の谷側の支尾根上に 一段、その下方にも三段の郭がみられる。
なお、この城からは、東方に吉田盆地を隔てて毛利氏の本拠郡山城を遠く望 むことができ、間近には井上氏の天神山城、西側には福原氏の鈴尾城、桂氏の中山城、長屋氏の槇ケ城などを見ることができる。
『日本城郭大系』13より引用。
內部城跡 吉田町小山
可愛川の支流で北流する砂田川西側、南から北へ突出 した丘酸上にあり、北西眼下には可愛川を望む。
小手先城・琴崎城とも称し、毛利元春の居城。「高田郡中聞書」 に「こと崎城山、高三十間、横二十五間、此城主毛利右馬殿知行不申知候」と記す。
丘酸南を大きな空堀で区切り、九壇の長い郭を並べる。直線連郭式の山城である。
南北朝期、毛利氏は一族が両派に分れて争ったが、暦応四年(一三四一)毛利時親が没すると、その曾孫元春は一九歳で所領を相続、郡山城に拠り「郡山殿」とよばれ足利尊氏に味方した。
しかし文和元年(一三五二)一時尊氏に 背いて内部城に拠ったが、同年五月二八日および六月八 日の二度にわたり、尊氏方の安芸国守護武田氏信に攻め られ敗れた。
さらに永和二年(一三七六)四月一六日、元春 の九州出征の留守を守っていた孫光房は、一族間の争い から元春の弟匡時らに「小手先城」を攻められ、多数の 死傷者を出した(「毛利元春自筆事書案」毛利家文)
城の歴史
文永7年(1270):初代毛利時親が安芸国吉田荘の地頭職を譲り受ける。
元徳2年(1330):吉田荘を孫の親衡に譲るが、子の貞親と孫の親衡が南朝につき地頭職を取り上げられる。
建武3年(1336):4代毛利元春が吉田荘に下向する(貞親と親衡も北朝に帰順させる)この頃琴崎城築城か。
建武4年(1337):この頃、元春が吉田荘を相続する。
暦応4年(1341):初代時親没。
文和元年(1352):元春が北朝に叛旗を翻し、北朝方の安芸国守護である武田氏信と戦い落城降伏する。
『吉川家文書 1053』
永和2年(1376):元春が九州遠征中に大内軍に扇動された父親や弟の匡時・直元により城が攻められる、しかし落城寸前で大内氏が撤退して窮地を逃れる。
『毛利家文書15』
城主家系図
毛利親衡は息子の匡時や直元と嫡男で元春を攻める。
所感
●城は長大であるが加工度も低く削平地が続いている感じで籠城には向かない雰囲気をうける。
●元春は北朝として曽祖父の時親と一緒に南朝方である祖父、父と戦っているが、これも当時の生存戦略か。
●元春自身も一時期北朝から南朝に鞍替えして北朝の武田氏に攻められている。
●時衡はなかなか反骨精神のある人物で息子が九州征伐に行っている間に居城を攻めている。
●ここまで多くの戦をしているが、時の権力者の両軸に対応することで家の存続を図っていたとも考えられる。
関連URL
隣の天神山城。
参考URL
参考文献
『日本城郭大系』13
『広島県中世城館遺跡総合調査報告書』
『広島県の地名』
『広島県地名大辞典』
『安芸の城館』
『広島の中世城館を歩く』
『萩藩諸家系譜』
『毛利八箇国御時代分限帳』
『萩藩閥閲録』
公開日2022/03/06