城データ

城名:天神山城

別名:無し

標高:268m

比高:60m

築城年:不明

城主:井上氏

場所:広島県安芸高田市吉田町竹原

北緯:東経:34.643638/132.684968

天神山城はここ

 

攻城記

天神山城全景。

こんもりとした山。

麓には八幡宮がある。

長尾神社。

神社の方から登っていく。

特段大きな加工跡も無い。

周辺部。

位置関係

 

余湖図【天神山城】

当時のイメージ図(余湖図コレクションより引用)

 

『芸藩通志』【天神山城】

拡大図。

 

城の概要

頂部の郭群と背後の郭に分かれる。最高所の郭は一辺約20〜30mで,中央に幅約3m,高さ約1.5mの櫓台がある。

 

その南約8m下には幅5〜10mの帯郭があり,虎口と思われる馬蹄形状の凹みがある。西・北下には小郭が配されている。

 

郭群の東下は鞍部を一辺約30mの三角形に造成したもので,館とも思われる。

 

現在は神社境内地となっている。城主は,1550(天文19)年に毛利氏によって滅ぽされた井上氏と伝えられる。

 

『広島県中世城館遺跡総合調査報告書』より引用

 

天神山城

天神山城は、吉田盆地の南半、可愛川南岸の丘陵上にある毛利氏初期からの 重臣井上氏の居城で、毛利元就によって井上氏が絶滅されるまでの間、すなわ ち、室町期から戦国期にかけて使用された城である。

 

位置としては、広い耕地を持つ吉田盆地南方の可愛集落の南にあたり、南に延びる小山の谷を押さえる位置にある。

 

城自体、比高約六〇mとあまり高くないが、丘陵が半島状に突出しているため、北方の郡山城から吉田・可愛の両集落にかけて広い範囲を見渡すことができる。

 

ただ、小山の谷を挾んで対面する西側尾根上には、かつて毛利元春や同光房らが居城としたとされる琴崎城があり、西方への展望はほとんどきかない。

 

天神山城は、井上氏代々の城とされているが、その創建年代などについては、 ほとんど明らかでない。

 

しかし室町時代後期の光教の代には、毛利豊元の妹を妻としており、以後、毛利氏と密接になって、次の勝光・光兼の頃には勢力を 強めている。

 

元就の幼時、父弘元から譲られた多治比三百貫の地を横領したのは、この光兼とは兄弟にあたる元盛であり、光兼の子元兼は大永三年(一五二三)、元就の毛利宗家相続の際には元就の郡山入城を要請する書状に連署した重臣の一人である。

 

そして、その後も毛利氏のもとで勢力を伸ばし続けたが、横暴な振舞が多か ったことから、天文十九年(一五五〇)には、井上氏一族は元就によって滅亡さ せられている。

 

つまり、天神山城主井上氏は元就以前から毛利氏の重臣として仕えていたが、元就による毛利氏の勢力拡大と共に毛利氏内部で支障をきたすようになり、滅ぼされたということになる。

 

城の遺構は、吉田盆地の南を画する丘陵から北西方に瘤状に突出した丘陵尾根上にある。

 

北・西・南の三方は急傾斜で、東側の背後は神社の境内となって いる空堀底状の広大な郭で画しているため、城域は独立丘陵状になっている。

 

郭は、頂部に径約三〇mの本丸を置き、その下方約一〇mには、南東方に幅五 ~一〇mの帯状の長い郭、北・西方にはそれぞれ独立した一辺約一〇mの郭を 配置して輪状連郭式の郭配置をとっている。

 

なお、本丸中央部には径約一〇m、 高さ一・五皿の物見台状の高まりがあり、このほか西北前方部の斜面には階段状に若干手を加えた 小さな平坦地がある。

 

このように天神山城は、 城域が狭いため郭配置も単純だが、山麓には小山 の谷から流れる砂田川がめぐっており、濠の役目を果たしていたものと考 えられる。

 

また、川と城とに挾まれた城の南側の神社登山道近くには、現在は水田となっているが、 階段状に広い平坦地が並んでおり、居館として使 用されていたのかもしれない。

 

ちなみに、この周辺には五輪塔群が散在している。

 

『日本城郭大系』13より引用。

 

城の歴史

永享11年(1439):井上光純が下野国にて戦功をあげて足利義教から感状をうける。

 

応仁元年(1467):井上光教が応仁の乱にて活躍して細川勝元から感状をうける。

 

明応4年(1495):井上光兼が備後国境において合戦を行い毛利弘元から感状をうける。

 

大永3年(1523):毛利元就の家督相続の書状15人の中に井上氏が5人おり、井上衆の力が大きかったことが伺える。

『毛利家文書248』

 

享禄5年(1532):福原広俊以下家臣連署起請文。この時連署状に署名した32名の中13人に井上氏がいる。

『毛利家文書396』一部抜粋。

 

これら起請文に連なる人物は福原・坂などの一族や粟屋・赤川ら譜代家人、井上、秋山・井原、内藤、三田などの近隣国人領主など、出自を異にする面々である。

 

彼らと元就の関係は、彼らの用水管理や、従者の負債や逃亡への対応など、共同で処理しなければならない問題を抱えていたが、それらは基本的に互いの間で解決することとし、元就には違反者の処分だけを依頼している。

 

この文章は元就に対する起請文という体裁をとっているが、中味からすれば「傍輩」間の一揆契状であり、元就は保証人的立場に過ぎなかったともいえる。

 

彼らは、毛利「家中」としてまとまりは強めつつも個々の自立性が強く、主人への忠節よりも相互の一揆的関係で秩序維持を図っていた。元就からすれば統制しにくい厄介な存在でもあったのである。

『知将 毛利元就』51頁より。

 

天文19年(1550):毛利元就の井上衆の誅殺にて天神山城も廃城になったか、もしくはその後井上惣領家を継いだ井上氏が居城したかは不明。

因みに惣領家は元就妹婿の元光が継ぐ。

 

城主家系図

井上一族家系図。

赤は粛清されたもの、青は許されたもの。

大永3年の元就家督相続時の連署に載っている井上氏関係図。

元吉のみ関係が不明。

 

井上氏は毛利氏とも婚姻関係がある。

井上光教は煕元娘と婚姻しており、勝光はこの2人の子どもかもしれない。

ただし、井上家の家系図に記載がないので詳細不明。

 

城主石高

1550年に滅亡しているので所領無し。

 

所感

●毛利家中で大勢力を持っていた井上氏にしては地味な山城。

 

●井上氏は元々山県郡の地域を治めていた豪族であったが、一族が毛利家臣になっていく中で惣領家も毛利氏の家臣となっていった。

 

●1550年の粛清にて30人余りの井上氏が粛清されたが、許された者もいる。

 

●その後も井上一族は毛利家の中である程度の勢力を持っていたと思われる。

 

関連URL

参考URL

安芸高田歴史紀行(天神山城)

城郭放浪記(安芸天神山城)

安芸 天神山城跡(よしだっちの城跡探訪記)

武家家伝(安芸井上氏)

安芸井上氏(ウッキペディア)

 

参考文献

『知将 毛利元就』

『日本城郭大系』13

『広島県中世城館遺跡総合調査報告書』

『広島県の地名』

『広島県地名大辞典』

『安芸の城館』

『広島の中世城館を歩く』

『萩藩諸家系譜』

『毛利八箇国御時代分限帳』

『萩藩閥閲録』

公開日2022/03/05

 

ホームに戻る

攻城一覧

 

Copyright © 山城攻城記 All Rights Reserved.