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城データ

城名:鈴尾城

別名:福原城

標高:316m

比高:110m

築城年:永徳元年(1381)福原広世によって築かれたと云われる。

城主:福原氏

場所:広島県安芸高田市吉田町福原

北緯:東経:34.634652/132.665074

Google マップ (Google Maps) で緯度経度を指定して場所を見つける方法

※C. フォーマット「度(DD)」の場合を参照。

 

攻城記

三合目に広い削平地がある。

 

福原氏居館跡

福原氏の居城であった鈴尾城は別名福原城とも呼ばれ、永徳元年(一三八一)に福原広世が築城した。

 

福原氏は、代々毛利氏の重臣であり、特に九代貞俊の妹は、毛利弘元の妻で、興元、元就を生んだ。

 

この地は福原氏の居館跡(別名土居の壇)と伝えられ本丸からは東側の谷の中腹に位置し、 長さ約50m、幅約20mの広大な敷地を有している。

 

さらにこの東側下部には、小さな平地があるが、これらも居館の一部と使用されたもののよ うである。

 

昭和十三年 (一九三八)に、 毛利元就生誕の碑が建てられた。

 

さらに東側に 福原氏の菩提寺楞厳寺跡がある。

 

福原広俊ら八基の 墓がある。

 

平成三年三月 吉田町教育委員会

 

毛利元就生誕の碑。

かなり広い。

更に登って行く。

石組の井戸もある。

 

本丸までもうすぐ。

本丸全景。

本丸アップ。

この石はなにかしらのものか。

 

鈴尾(福原)城跡

(毛利元就誕生伝說地) 県史跡指定 一九四0(昭和一五)年十一月十日

 

鈴尾城は、吉田盆地南の可愛加に面する丘陵上に築かれた 山城で、永徳元年(一三八一年)に毛利元春の五男広世が 福原の地に移り、姓を福原と改めて築いた城で十六世紀 元俊に至るまでの二百十九年間福原氏の居城と伝えられている。

 

天文九年(一五四〇年)の郡山合戦には広俊がこの城に籠って吉田盆地の南の守りとした。

 

鈴尾城は標高三一六m、比高一一〇mで、三方を急峻な崖と背後を空堀で区切ることによって要害としている。

 

郭は機能的に、頂部を輸状にめぐる中央部の郭群と北側の支尾根上に つながる小郭群、さらに 東側の谷近くにある居館跡の三群に分けられる。

 

頂上部の 郭は南北十八m東西十二mの 広さをもち、その中央部には櫓だったと思われる高さ一m 上幅一・五mの石垣がある。

 

城の眼下には、可愛川が あり、これを扼す要衝の地 として戦国動乱期の吉田 盆地を守る南の要であった。

 

一九九五(平成七)年三月

吉田町教育委員会

 

前方の小山は桂城。

手に取るよう分かる。

鈴尾城全景。

毛利元就誕生伝説地

(鈴尾城跡) 県史跡指定一九四〇(昭和一五)年十一月十日

 

福原氏は大江氏の子孫である。大江広元の次男時広は、武蔵国、長井庄を領してから姓を長井とし、四男季光は相模国毛利荘を領してから姓を毛利とした。

 

永徳元(一三八一)年毛利元春の五男広世は長井氏を相続して六代の領主になり、父元春から安芸国中部庄福原村を譲られてこの地、鈴尾城(福原城)に移り住み姓を福原と改めた。

 

八代広俊の娘は毛利弘元の妻となり、長男興元が誕生し、 次男元就は明応六(一四九七)年三月十四日、母の里であるこの 城内で誕生したという。

 

天文五(一五四〇)年の郡山合戦では十代広俊がこの守備にあたり西に備えた。

 

慶長五(一六〇〇)年十三代広俊は毛利輝元に従って防長に 移ったが、この間七代二一九年 間にわたる福原氏の居城であった。

 

鈴尾城跡は別名福原城とも呼ばれ、前面には江の川が流 れ、標高三一六m、比高一一〇mの半円球状の頂部に本丸等壇の曲輪を配し、西側井の 直径一・〇m、深さ六mの石組みの井戸があり、東側斜面居館跡と伝えられる広大な平たん部がある。

 

そこは、毛利元就誕生地として伝えられ碑が建っ ている。

 

一九九六(平成八)年五月

 

吉田町教育委員会

 

 

楞厳寺【福原氏菩提寺】

 

 

福原氏墓所

町史跡指定一九六八(昭和四三)年九月一日

楞厳寺は、十代広俊の菩提寺で、開山は僧真如厳甫による禅寺である。

 

防長移封により現在萩市にあり、十三代元俊によって故郷の地名を山号として福原山徳隣寺と改称されて いる。

 

下の段の竹薮東端が境内であったという。

 

左の釈迦堂は十一代貞俊が先祖を祀った信仰の御堂という。

 

福原氏の墓所は、芸藩通志によると八墓とされているが、 福原氏末商の墓誌によると東西の墓所に五墓とある。

 

東墓所を右からの墓誌によると、「福原大江朝臣広俊」 (十代)の墓で次は「福原大江朝臣貞俊」(十一代)の墓であり、次は「祥室妙春禅尼墳墓跡」で毛利弘元の妻であり 元就の母の墓跡である。

 

大正十 年に毛利、福原両氏の協議 によって多治比の弘元の墓地に改葬された。

 

西墓所は五十m離れた所にあり右から「福原広俊息女」の墓 であり、左が「福原大江朝臣元俊」(十二代)の墓 である。

 

一九九五(平成七)年三月

吉田町教育委員会

 

桂城麓にもあった仏像のある宝篋印塔。

墓の形が庄原地域と同じであることから、運ばれた可能性もある。

 

庄原市東城町小奴可にある宝篋印塔。

 

位置関係

 

余湖図【鈴尾城】

当時のイメージ図(余湖図コレクションより引用)

 

『芸藩通志』【鈴尾城】

拡大図。

 

城の概要

吉田盆地の南を画す丘陵群から北西に派生した尾根の先端に位置する。

 

最高所の1郭には櫓台を設け,そこから東西方向にほぽ直線上に郭を連ね(1〜6郭),北下にも細長い郭を配している(7〜10郭)。

 

さらに北東に延びる支尾根には小郭(16〜20郭)を連ねており,これらは東下にある館(22郭)を守ることを意識したものと思われる。

 

15郭は約45×20mで西辺に土塁を有しており,16〜20郭との間の谷部にある郭(14郭)には石塁と直径1.5mの石組井戸がある。

 

傾斜のきつい南側よりも,北側を中心に郭を配置している。

 

城跡の東約300mの山麓には菩提寺楞厳寺跡があり,6基の墓が残る。

 

本城跡は,14世紀末に毛利元春の五男広世が内部荘福原村に入り,築いた城と伝えられる。

 

『広島県中世城館遺跡総合調査報告書』より引用

 

鈴尾城

鈴尾城は、吉田盆地南の可愛川に面する丘陵上に築かれた山城で、毛利氏の親類で、のちに重臣となった福原氏の居城である。

 

位置としては、南北に流れる可愛川によって開けた吉田盆地の南辺にあり、 毛利氏の郡山城からは、南西方約六㎞の地にある。

 

しかし、城は盆地内に半島状に大きく張り出した位置にあたっているために展望は開け、吉田盆地のほぼ全域と西は入江・勝田方面まで見渡すことができる。

 

なお、周辺の西方には桂氏の中山城、柏村氏の柏ヶ城、長屋氏の槇ケ城・星ヶ城などの毛利氏家臣団の城が取り巻いており、東方には毛利氏初期の毛利光房の琴崎城、井上氏の天神山城などがある。

 

福原氏は、関東評定衆長井氏の子孫で、備後長和荘の長井氏とは親類にあた っている。

 

六代広世は、毛利元春の五男で、のち長井氏を継ぎ、備後信敷荘の領主であったが、永徳元年に、元春より安芸国内部荘・福原村を譲られたため 福原に移り、姓を福原と改めて城を築いた。

 

鈴尾城がそれで、以後、七代朝広・ 八代広俊・九代貞俊・十代広俊と代々福原氏の居城であったが、その後、十代広俊の時には、毛利氏の防長移封に伴って防長へ移っている。

 

この間、天文九年(一五四〇)、尼子氏の郡山城攻撃の際、十代の広俊がこの城の守備にあたったこと以外には当城をめぐっての争いは記録にないが、これは福原氏が当初 毛利氏とは一族だったのが、文明年間(一四六九~八七)には家臣化しており、 周辺一帯が当初から毛利氏の領地として比較的安定していたためと考えられる。

 

また、八代の広俊の女が毛利元就の生母なので、元就がこの城で誕生したとの伝えがある。

 

城の遺構は、半島状に延びる丘陵先端を利用したもので、三方の為背後を空堀で区切ることによって要害としている。

 

郭は機能的に、頂部を輪状にめぐる中央部の郭群と、北側の支尾根上につながる小郭群、さらに東側の谷 近くにある居館跡の三群に分けられる。

 

中央部の郭群は、頂部に一辺約二〇mの本丸を置き、その南・北 に一辺一五m前後の郭を階段状に並べ、さらにその東北側に長大な郭を帯郭状に配置した もので、各郭はかなりの比高を持っている。

 

また、本丸には一辺約 一〇mの範囲を高さ一 mの石垣で囲った物見 状の高まりがある。

 

北側の小郭群は、中央部の郭群の東北部から一辺一〇m前後の小さな郭を尾根に沿って 八段並べたもので、その間には小空堀もある。

 

これは東側の谷にある居館の守備のためのものと考えれる。

 

なお、この郭群の西側の谷には、頂部の郭から約一五m下方に径一・五m、深さ六mの石組の井戸があり、井の壇と呼ばれているが、その前面には石塁もあり、水の手として大切にされたものらしい。

 

また、その東側にも両側に土塁を持つ一辺五〇m近い郭があるが、これは正面の守りにあたったものらしい。

 

 

居館跡は、東側の谷の中腹にみられるもので、長さ約五〇m×幅約二〇mの広大な敷地を持つが、この下部には、さらにそれよりやや小さめの平地が二、 三あるが、現在、畑地となっているため明らかではないものの、居館の一部として使用されたもののようである。

 

鈴尾城東方の支尾根上には福原氏の菩提寺楞厳寺跡があり、その旧境内には福原氏の墓地があって六基の墓が並んでいるが、それは広俊・貞俊・元俊らの墓とされている。

 

そのほか、周辺には万福寺・現当寺・光蓮寺・ 後藤庵・地蔵院などの地名もあり、福原氏に関係する寺院があったものと思わ れる。

 

『日本城郭大系』13より引用。

 

城の歴史

永徳元年(1381):福原広世が父である毛利元春から福原の地を与えられ苗字を福原とする、鈴尾城もこの頃築城か。

 

応永6年(1399):大内義弘の反乱やその後の大内家の内証では、主君である毛利光房が幼いこともあり、足利義満は広世を毛利家の惣領に任じている。また、光房が成人後には惣領を光房ぬ譲り、側近として支える。

 

応永26年(1419):毛利宗家と庶家が対立した際には宗家に味方をして毛利光房が留守

 

応永25年~26年(1418~19);この頃毛利惣領家と庶家が対立する、居城である吉田郡山城も庶家からの攻撃を受けるが、光房が在京しており、福原広世、朝広親子は惣領家の側に立ち光房の嫡子である煕元を守り庶家を撃退する。

 

寛正4年(1463):またもや所化の反攻をうけるが恐らくこの時も惣領家を守ったと思われる。

 

明暦2年(1493):毛利興元が誕生する、福原広俊の娘が興元を生んでおり、毛利家の外戚として毛利惣領家を支えることになる。

 

明応6年(1497):毛利元就が生まれる、生まれた場所は鈴尾城との伝承もある。

 

永正9年(1512)、永正16年(1519):この頃11代当主、福原貞俊が生まれる。

 

 

大永3年(1523):毛利元就の家督相続の書状に福原広俊がいる。

福原広俊が主となり元就の家督相続の連署を記載したことが分かる。

 

享禄5年(1532):福原広俊以下家臣連署起請文。この時連署状に署名した32名の中に1番目に福原広俊がいる。

『毛利家文書396』

 

これら起請文に連なる人物は福原・坂などの一族や粟屋・赤川ら譜代家人、井上、秋山・井原、内藤、三田などの近隣国人領主など、出自を異にする面々である。

 

彼らと元就の関係は、彼らの用水管理や、従者の負債や逃亡への対応など、共同で処理しなければならない問題を抱えていたが、それらは基本的に互いの間で解決することとし、元就には違反者の処分だけを依頼している。

 

この文章は元就に対する起請文という体裁をとっているが、中味からすれば「傍輩」間の一揆契状であり、元就は保証人的立場に過ぎなかったともいえる。

 

彼らは、毛利「家中」としてまとまりは強めつつも個々の自立性が強く、主人への忠節よりも相互の一揆的関係で秩序維持を図っていた。元就からすれば統制しにくい厄介な存在でもあったのである。

『知将 毛利元就』51頁より。

 

天文9年(1540):尼子晴久が吉田郡山城を攻めた時に鈴尾城を守る。

 

天文19年(1550):井上氏誅殺時に家臣から忠誠を誓う連署に1番目に記載されている。

 

弘治3年(1557):福原広俊以下家臣連署起請文。この時連署状に署名した中に1番に福原氏がいる。

『毛利家文書402』

 

防長経略により大内氏を滅ぼした元就は吉田に帰った、しかし、その後大内氏の遺臣たちが義隆の遺児を擁立し籠城した為に、再度大内氏遺臣達の残党を打ち破るべく長府へ出発した、その後元就らが富田(周南市)に着陣した11月末頃までに反乱はほぼ一掃されており元就らも12月には吉田へと帰った。

 

この起請文は12月2日の日付であり、軍の規律を厳しく統制することが伺える、その中で福原氏が筆頭として記載されている。

 

 

天文22年(1553)年頃:福原貞俊他廿二名が具足の注文をする。

『毛利家文書623』

 

家中の中でも一番大きな勢力を保持していたことが分かる。

 

弘治3年(1557);10代目当主である福原広俊が亡くなる

 

文禄2年(1593):11代目当主である福原貞俊が亡くなる。

 

城主家系図

城主石高

 

 

福原式部(広俊)

5630.595石

 

福原太郎兵衛(元頼)

52.450石

 

福原内蔵介(貞房)

192.501石

 

福原孫兵衛(就理)

1.040石

 

福原太郎兵衛(元置)

52.450石

 

所感

●歴代毛利氏の藩屏として陰ひなたに支え続けた一族、特に

 

●毛利氏家臣の中では最大の5000石以上を賜っている。

 

●城は南北朝時代から200年強に渡り築城改修し続けたと思われ曲輪の数も多い。

 

●見どころは石組井戸で近隣でも石組井戸は多くない。

 

●元就母の墓は楞厳寺にあったが、夫である弘元と同じ場所に移転された。

 

関連URL

【広島県】桂城【安芸高田市吉田町桂】

【広島県】琴崎城【安芸高田市吉田町小山】

【広島県】天神山城【安芸高田市吉田町竹原】

近隣の城。

 

参考URL

安芸高田市(鈴尾城)

鈴尾城(ウッキペディア)

城郭放浪記(安芸鈴尾城)

安芸福原氏(ウッキペディア)

武家家伝(毛利福原氏)

 

参考文献

『日本城郭大系』13

『広島県中世城館遺跡総合調査報告書』

『広島県の地名』

『広島県地名大辞典』

『安芸の城館』

『広島の中世城館を歩く』

『萩藩諸家系譜』

『毛利八箇国御時代分限帳』

『萩藩閥閲録』

公開日2022/03/06

 

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