城データ
城名:銀山城
別名:金山城
標高:411m
比高:400m
築城年:鎌倉時代
城主:武田氏、後に大内氏城代、毛利氏城代などが城に入る。
場所:広島県広島市安佐南区祇園町(武田山)
北緯:東経:34.455998/132.448479
。
攻城記
標識もあるが傷んでいる。
武田氏の墓地、誰の墓かは不明。
攻城スタート。
人工的に設置されているような石。
馬返し、ここまでは馬でこられたらしい。
馬返し付近からみた風景。
自然に置かれたとは思えない。
大倉屋敷。
比高が高いのでどんどん進んでいく。
石段っぽい。
御門跡。
ここの石も移動されたきたのか。
城跡って・・・
曲輪跡のことか。
更に進んでいく。
やっと頂上に着く。
指定 昭和31年3月30日
前方の山は牛田山。
御守岩。
珍しい積み方。
犬通し。
見張台。
空堀跡。
出丸跡。
石垣跡。
再度本丸に戻る。
鶯の手水鉢。
ここの水は日照りの時でも枯れないらしい。
いかにも腰かけ石。
観音堂跡。
弓場跡。
石垣っぽい。
下高間。
馬場跡、ここまで馬がこれたのであろうか。
井戸跡か。
櫓跡。
open-hinataより【銀山城】
余湖図【銀山城】
当時のイメージ図(余湖図コレクションより引用)
『芸藩通志』【銀山城】
拡大図。
城の概要
本城跡は、武田山の山頂を中心とする尾根上にある。
山頂からの四方の眺望はきわめてよく、東側の山麓には太田川の形成した後背地が南北に広がっている。
本城跡は、5郭群に大別される。
最高所の「御守岩台」と呼ばれる郭を中心とする山頂郭群には、「館跡」「見張台」と称する郭や「犬通し」という堀切等がある。
「御守岩台」の中央付近には巨岩が集中し、建物を構架するためのものと考えられる加工痕が随所にみられる。
また、「鶯の手水鉢」と呼ばれる人工的な窪みをもつ岩もある。
「御守岩台」の西180m地点の郭を中心とする郭群には、この郭の東に一つ、西に三つ郭を配し、南下には「観音堂」「上高間」と呼ばれる郭がある。
ほかに「下高間」「馬場」「見張櫓」と呼ばれる所があるが、痕跡は明瞭ではない。
「御守岩台」から南に延びる尾根上の郭群には、階段状の三つの小郭と「千畳敷」と称する郭がある。
ここから下って標高330m地点に「御門跡」がある。
これは自然の石をベースに巨石を配したもので、近世城郭でいう桝型の原形とされている。
「御門跡」からさらに下ると南と東へ続く登山道があるが、この南よりの小高い削平地には「馬返しの壇」を中心とする七つの削平地がある。
山頂郭群の東には堀切を隔てて「出丸」と称される郭があり、そこから東に五つの小郭が階段状に並んでいる。
本城は、安芸国守護武田氏の居城である。鎌倉時代末期に築城というが、詳細は不明である。
武田氏滅亡後、1554(天文23)年まで大内氏の支配を受け、大内氏滅亡の後は毛利氏によって管理された。
『広島県中世城館遺跡総合調査報告書』より引用
銀山城跡 安佐南区祇園町東山本・安古市町相田
太田川下流西方武田山(金山ともいう、四一〇九メートル) にあった山城で、安芸国守護武田氏の居城で中世の文献には「金山城」と記されるが、近世には銀山城の表記が多い。県指定史跡。
甲斐国守護武田信光は承久の乱後、安芸国守護を兼ねたが、築城の時期は信光の時とする説もあり、「吾妻鏡」 によれば信光は鎌倉に居住し、安芸には守護代を送って いる。
孫信時宛の文永一一年(一二七四)一一月一日付の関 東御教書案(東寺百合文書)によれば蒙古の襲来に備えて 「早来廿日以前下向安芸、彼凶徒寄来者、相催国中地頭御 家人井本所領家一円地之住人等、可令禦戦」とあり、こ れ以前は安芸にいなかったことが知れる。
しかし鎌倉中期頃には武田氏の一族で金山の東麓に住した者もあり、 熊谷家文書によれば佐東郡地頭武田泰継が三入庄(現安佐 北区)地頭熊谷氏と争っている。
銀山城は信時の孫信宗がこの地に土着した折に築城したと考えられる。
信宗の子信武は南北朝期に足利方につき、付近の御家 人を率いて東上。
途中宮方についた熊谷蓮覚を矢野城(跡地は現安芸区)に破った。
信武の子信成は甲斐を本拠とし、 安芸国守護は信成の弟氏信が継ぎ、以後この一族が銀山城主として天文一〇年(五四一)毛利氏に滅ぼされるまで 存続した。
その間、付近の温科・香川・戸坂・壬生の諸 氏などを家臣化するが、安芸一国を支配するまでには至らず、佐東郡一帯を領国化したにとどまった。
元繁の代に大内氏に従うが、のち離反し毛利氏と山県郡有田(現千 代田町)で戦って敗れ、その子光和も山陰の尼子氏と結ん で大内氏に対したが、一族や家臣の離反が目立ち、天文 一〇年に大内氏の命を受けた毛利氏によって落城した。
その後大内氏、続いて毛利氏が城番を置き、元就は一時 期この城を隠居所として太田川河口支配の拠点としようとした。
城は山頂の北東から南西にかけて四〇以上の郭を配し、 その中心に千畳敷とよばれる本丸の郭を配し、馬返し・ 御門・館跡・観音堂跡・上高間・下高間などの郭が山麓 から山頂にかけて残る。
このうち御門には鉤の手の石積遺構もあり、近世城郭の枡形の祖型として注目される。
なお銀山城山麓には武田氏勧請と伝える新羅神社・日吉神社や、光見寺跡・仏護寺跡などがある。
『広島県の地名』より引用。
城の歴史
鎌倉時代:武田信宗により築城(ただし本人が下向したかは不明)
南北朝時代:北朝につき従軍する。
室町時代 分国守護として生き延びる。
文安4年(1447):武田氏、大内氏最初の武力衝突。
康正3年(1457):厳島社家・藤原親春と武田氏の領土争いに親春の舅・大内教弘が援軍を出す。
己斐城も落ち、銀山城も中腹まで攻められたが、管領補底和勝元の命で馳せた毛利、吉川の援軍で助かる。
この時若狭に移っていた武田本家へ毛利熙元が連絡している。
長禄4年(1461):大内氏に対し、管領・細川勝元が鏡山城を武田氏に明け渡すように命じる。
大内氏は味方の安芸国人衆・平賀・阿曽沼・竹原小早川に攻めさせたが沼田小早川に阻まれる。
寛正6年(1465):伊予・河野氏討伐を企てた細川氏に従い、伊予に渡った大内氏が河野氏側に寝返ったため、幕府が武田・吉川に周防発向の命を出す、事前に知った大内氏と8月、陶氏VS白井水軍の戦いが起きている。
寛正7年(1466):2月、大内水軍と白井水軍が広島湾頭で戦う。
明応8年(1499):家臣の温科国親の謀反が発覚するが自力で討伐出来ない為、熊谷氏に助成を頼む。
永正12年(1515):武田元繁が己斐城を攻める、しかし包囲したが敵も激しく抵抗し「武田数ヶ月攻むるといえども、銘城なるが故に、遂に落ちず」(房顕覚書)とある、大内義興が毛利、吉川に有田の有田城を攻め落とすように命じたことにより己斐城から撤退する。
永正14年(1517):武田元繁が有田合戦にて討死、家督を武田元和が継ぐ。
大永4年(1524):大内氏により銀山城を攻められるが尼子氏の支援により守り切る(毛利に助けられる)
享禄元年(1528):大内氏、再度銀山城を攻めるも撤退する。
天文2年(1533):武田元和が熊谷氏の高松山城を攻めるも落城せず。
天文10年(1541):大内氏の命令にて毛利元就に攻められて落城 (大内氏の支配下になる)
天文23年(1554):厳島の合戦の前哨戦として、毛利元就が城を攻め落とす(以後毛利氏の支配下となる)
城主家系図
エピソード
●銀山城は昔この山で金銀がとれた為その名前がついたが現在では武田の本拠だっとこともあり武田山になっている。
●城が落城する時に黄金の茶釜を白南天の木の麓に埋めて逃げた。
●堅牢な城のため毛利元就は一計を案じた それは銀山城から見える太田川に草鞋を千足、火をつけて流してあたかも大群が川を下って攻めてくるように錯覚させて城兵を大手門から攻めていくのを裏(相田方面)から攻めて落城させた。
●当然相田方面にも守りはあったのだがそこの鐘を鳴らす役目の坊主を寝返らせておいたので成功した。
●当時の太田川は現在の太田川とは違っていた 現在の古川が太田川であった。
※1607年の大洪水によって川の進路が変わってしまった、当時の太田川など小川にすぎなかった。
●武田光和は弓の名人で大力の持ち主であったため10人引きの大弓を使用していたらしい(そのくらいの大力の持ち主)
●武田家も光和で滅亡かと思われたが実は妾子がおり(武田小三郎)周防武田氏の祖となってその血脈は連綿とつけ継がれている
所感
●彦が400m位あり、登るのは大変であるが、本丸からの眺望は抜群。
●曲輪は沢山あるが、大内氏に何回か攻められており、落城寸前までいった戦もある。
●毛利元就がまだ尼子氏の勢力についていた頃、大内氏の武田攻めの時に、武田光和に味方をして撃退している。
※その前に毛利元就が光和の父である元繁を討ち取っているにも関わらず。
●城はその後、大内氏の城番がいたが、元就が陶晴賢に叛旗を翻した時に、1日にて攻め落とす。
●城自体は自然の地形を利用したもので、大きく加工された形跡はない。
関連URL
元就に1日で攻め落とされた城。
参考URL
参考文献
『日本城郭大系』13
『広島県の地名』
『広島県地名大辞典』
『安芸の城館』
『広島の中世城館を歩く』
『萩藩諸家系譜』
『毛利八箇国御時代分限帳』
『萩藩閥閲録』
公開日2022/01/23