城データ
城名:米子城
別名:久米城、湊山金城
標高:90m
比高:88m
築城年:応仁から文明年間(1467~87)に、山名宗之によって砦として飯山に砦か築かれる。
城主:山名氏、尼子氏、吉川氏、中村氏、加藤氏、池田氏
場所:鳥取県米子市久米町(湊山公園)
北緯:東経:35.425060/133.324270
攻城記
まずはここから入城していく。
今でも水が湛えられている。
国指定史跡
米子城跡
指定年月日 平成18年1月26日
米子城は、伯耆国守護山名教之(のりゆき)の配下、山名宗之(むねゆき)によって応仁年間から文明年間(1467~87)に築かれたと伝えられる。
その後、天正19年(1591)には、西伯耆・東出雲・隠岐の領主であった吉川広家が新たに築城を開始したが、関ヶ原の戦い後、吉川広家が岩国に転封となった。
このため、新たに伯耆18万石・米子城主となった中村一忠が築城を続け、慶長7年(1602)に完成させたとされる。
絵図によると米子城は、天守と副天守(四重櫓)の二つが並ぶ威容を誇っている。
一説によると、四重櫓は天守に先行する古い時代のもので、吉川時代のものとも尾高城から移築したものとも伝えられている。
中村氏により、城下町を含め整備された米子城であったが、中村氏の改易の後、慶長15年(1617)に加藤貞泰が入城、そして、加藤氏転封後は、池田光政一族の池田由之(よしゆき)・由成(よしなり)と城主が頻繁に入れ替わる。
池田光仲が寛永9年(1632)に因伯二国の領主となって以降は、鳥取藩家老職の荒尾氏が幕末まで米子城を預かるが、明治になって天守閣をはじめとする建物すべてが取り壊された。
米子城は、山上に本丸、内膳丸、山裾に二の丸、三の丸を配して水濠(現在は埋め立てられている)で囲んだ典型的な平山城で、近世城郭として、その歴史的価値は高い。
平成19年3月 鳥取県教育委員会
内膳丸
内膳丸周囲の石垣。
登り石垣
当時発掘途中であった。
本丸へ向かう。
本丸
中村一忠墓所【感應寺】
米子市指定史跡
米子城初代城主の菩提寺感応寺
米子城初代城主中村一忠のとき、旧城下の静岡から菩提寺として移された。
一忠は、慶長14年(1609)21歳で病死し、世継ぎがなく所領没収になったが、一忠の遺体は、殉死した小姓の垂井勘解由、服部若狭と共に寺の後山に葬られた。
その後、三人の木像がつくられ、墓地の御影堂に安置されたが、今は本堂に移し、祀られている。墓地には「故伯耆守中村一忠公の碑」が建てられている。
山門のすぐ前には、第21代横綱若島の碑や芭蕉100年忌念句碑があり、すぐ後ろには米子組の医師西村大六の碑もある。
中村一忠墓地と三人の木像は、昭和52年4月に市指定史跡となった。
米子市
横田内膳墓所【妙興寺】
位置関係
余湖図【米子城】
当時のイメージ図(余湖図コレクションより引用)
城の概要
中海に面した標高約90mの湊山と標高約60mの飯山に築城された西伯耆を代表する近世城郭。
現在石垣として見られる近世城郭は、吉川広家によって本格的に整備され、関ヶ原の戦後、伯耆者18万石に封じられた中村伯耆守一忠の家老横田内膳正村詮によって完成されたと伝えられる。
「伯者民談記」には古くは湊山に城はなく、古記録にいう米子城は飯山のこととするが、中世城館の姿は明瞭ではない。
湊山内膳丸下の久米第1遺跡の発掘調査では、戦国時代末期と思われる掘立柱建物が確認されている。
近世城郭としては、山頂部の本丸に中村時代の五重大天守と吉川時代の四重天守が並び立ち、北側の丸山には内膳丸、戦国期の本城であったと言われる飯山も出丸として整備され采女丸と呼ばれた。
山麓の北東側山麓には城主居住区として御殿を構えた二の丸で、入口には枡形が残としての旧状を留めている。
これに対して三の丸より外側は市街地となり、三の丸の外周を飯の山から中海まで巡らされていた内堀も埋め立てられている。
また湊山の南で中海に面した深浦にも独立の郭があり船手としている。
内堀の外側に武家屋敷を割り付けて、外堀で町屋と区切っていた。
現在、外堀の一部が残っている。
15世紀に築城され、明治5(1872) 年に廃城。昭和52年市指定史跡(湊山の近世城郭)。
『鳥取県中世城館分布調査報告書第2集(伯耆編)』より引用。
米子城跡 現米子市久米町
米子市西部、新加茂川河口部北岸にあり、西は中海に面する。
国道九号が飯山と湊山の間を南北に縦断している。
現在建物類は残っておらず、城跡一帯は市営湊山球場やテニスコートなどのある湊山公園となっている。
築城の時期は室町期にさかのぼるともされ、近世城郭としての姿は天正(一五七三ー九二)後期からの吉川氏支配下、および慶長五年(一六〇〇)城主となった中村氏のもとで整えられた。
寛永九年(一六三二)以降は鳥取瀋家老で着座家筆頭の荒尾(米子荒尾氏)の城となり、西伯耆支配の要となった。
湊山城、久米城とも称されたという。
(中世)
築城の嚆矢は応仁~文明(一四六七~八七)出雲国守護代尼子氏と伯耆山名氏との合戦の際、山名氏により雲伯国境警備の砦として築かれた飯山城とされる。
同城は近世米子城の本丸が置かれた湊山の東側にある独立丘 陵飯山(五九・二メートル)に築かれた砦で、合戦記類に記される中世米子城は飯山城のことであるという(伯耆民談記)。
ただし飯山の城名を記す同時代の史料は見当らず、 また昭和六三年(一九八八)の久米第一遺跡の発掘調査か ら、一五~一六世紀には湊山北西海側で埋立てが行われ、 なんらかの施設が構築されていたと推定される。
「出雲私史」には尼子清定に反撃された伯耆の山名勢が、文明二 年敗退して米子城に入ったと記しているが、これも飯山城であろう。
永禄(一五五八~七〇)頃の城主山名治部大輔之秀は同一二年尼子勝久の出雲奪回の戦いに加わった。
吉川氏の軍勢に敗れた勝久が飯山城に籠ったのち播磨へ 逃れた時、之秀は城中で自刃したという(伯耆民談記)。
また元亀二年(一五七一)には毛利方の福頼治部大輔元秀(孝興 とも)が在城しており、同三月一八日尼子方の羽倉元陰らの攻撃を受けて城下の町屋が焼失した(陰徳太平記)。
その後毛利氏の将吉川氏の家臣古引(古曳)長門守吉種が当城に配された(伯耆民談記)。
古引氏により、新たに湊山に中心城館の建設が着手されたとされる(伯耆民談記)。
年未詳一二月一三日付の吉川広家自筆書状(吉川家文書)では「先年一乱之刻、伯州湊山 可抱之催堅固ニ候通」とみえ、湊山城を守りとおした祖式長好に一休墨跡を与えて労をねぎらっている。
また年 月日欠の吉川広家自筆覚書(同文書)には「富田湊山森山内 之用之事」とみえ、時期ははっきりしないものの天正一 五年以降伯耆西半を領した吉川広家の下で、湊山に城が 移されていたことがわかる。
広家は寒気の厳しい出雲富田城(現島根県広瀬町)から海・陸の地の利に恵まれた当城 に居城を移そうとしていたとされ、犬田の日御崎神社に対し米子に入部したのちに本領を還補することを約して いた(三月六日「吉川広家書状」伯耆志)。
だが広家は豊臣秀 の朝鮮出兵に従軍、文禄元年(一五九二)古引吉種が朝鮮で戦死したことなどもあって、城は未完成のまま慶長五年の関ヶ原合戦後、吉川氏は周防岩国(現山口県岩国市)へ 転封となった。
戸田幸太夫覚書(吉川家文書)によると、その時点で米子城は「十の内七つ程も出来候」という。
(近世初期の城主)
慶長五年一一月中村忠一(一忠、一学 ともいう)は伯耆一国六郡一七万五千石を与えられ、翌六 年駿河国府中(現静岡市)から米子に入部した。
ただし当城はまだ築城途中であったためしばらく尾高城に滞在、完成を待って翌七年当城に入ったといわれる。
忠一の父一 氏は豊臣秀吉の三中老の一人であったが、一氏没後関ヶ原の合戦で中村氏一族は徳川方にくみし、その功により伯耆に封ぜられたもので、忠一はのち徳川家康の養女を妻としている。
中村氏は一族中村一栄(一万三千石)に八橋城(現東伯町)を預けたのをはじめ一族や高禄の家臣を東伯耆に配し、一国の支配は忠一が幼少であったため米子城 にあった家老横田内膳正村詮が担当した。
村詮は三好氏 旧臣でのち中村一氏に仕え、農政など実務面にすぐれた 才覚をあらわして一氏に重用されたといわれる(中村記)。
村詮の施策としては寺社領の寄進・安堵(慶長六年一〇月二 五日「日吉津天照大神社領寄進状」蚊屋島神社文書など)、川船の整備など日野川の河川交通手段の確保(慶長六年六月八日 「横田村詮書状」足羽家文書)、境相論の裁定(慶長六年五月二〇 日「横田村詮裁許状」江府町久連区有文書)などが知られ、寺 社領については検注が実施された可能性もある。
米子城 築造や城下の整備も村詮の下で完成した。
慶長八年一一月村詮は当時一五歳となっていた主君忠 一により城内で誅殺された(米子騒動)。
村詮の弟主馬助らは飯山の居城に籠って抵抗したが、堀尾氏など出雲・隠 岐からの援軍を得た中村氏に攻略され自刃した。
村詮誅殺は家臣の讒言によるものとされ、この事件の報告を受けた家康は機嫌を損じたといい、幕府は近藤氏ら四名の忠一寵臣を処罰している。
同一四年五月忠一は二〇歳で 急死、中村氏は断絶した。
所領伯耆一国は収公され、当城は同年末までに幕府から派遣された在番衆に引渡された(徳川実紀)。
慶長一五年七月、加藤貞素が会見・汗入郡二万石を加増され計六万石で美濃黒野(現岐阜市)から米子へ移された(同年七月一五日「本多正信等連署書状」大洲加藤家文書)。
加藤氏は元和三年(一六一七)伊予大洲(現愛媛県大 洲市)に転封となる。
その間瑞仙寺を日下村から、法蔵寺を米原村から、福厳院を日野町から、安国寺を大寺村(現岸本町)から移して寺町形づくり、また城北西の中海沿岸に父加藤光泰(曹渓院)供養のための寺を建立している。
元和三年因伯二国に池田光政が封ぜられると、池田出羽守由之(三万二千石)が米子城を預けられた。
このとき米子城は大名居城としての性格を失ったことになる。
同四年由之が家臣に殺害されたため子由成が城主となり、寛永九年国替で光政に従って備前岡山に移るまで在城した。
『日本城郭大系』14より一部引用。
城の歴史
応仁元年 (1467年) | このころ、山名教之の配下 山名宗之(宗幸)が米子飯山砦を築いたという
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文明2年 (1470年) | 伯耆の山名軍が出雲に乱入したが、尼子清定に逆襲され退いて、米子城にこもる(出雲私史)
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文明3年 (1471年) | 山名之定 米子城を守る
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永正10年 (1513年) | 出雲の尼子経久、このころから米子城などをしばしば攻める
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大永4年 (1524年) | 尼子経久は山名澄之の援助と称して伯耆に攻め入り、米子城などが従えられ、尾高城主 行松正盛は城を去る(伯耆民談記)
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永禄5年 (1562年) | このころから米子城などは毛利氏によって制圧される このころ、米子城主は山名秀之か
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元亀2年 (1571年) | 尼子氏再興軍の羽倉孫兵衛が米子城を攻め、城下を焼き打ち 米子城主は福頼元秀
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天正9年 (1581年) | 古曳吉種がこのころから米子城主 (「伯耆民談記」では永禄12年から) |
天正19年 (1591年) | 出雲・伯耆の領主 吉川広家が米子湊山に築城開始 城主 古曳吉種、築城奉行 祖式九右衛門 |
文禄元年 (1592年) | 吉川広家が古曳吉種とともに朝鮮役に従軍 古曳吉種はこの年、戦歿 |
慶長3年 (1598年) | 吉川広家 富田城に帰り、湊山築城を監督 米子港・深浦港整備も始まる |
慶長5年 (1600年) | 関ヶ原戦いの結果、吉川広家は周防国岩国へ転封 駿河国府中城主 中村一忠が伯耆国領主となる この年までに、米子城工事は7割ぐらい進行(戸田幸太夫覚書) |
慶長6年 (1601年) | 日野郡二部村理兵衛(足羽氏)に、日野川川船船頭を命じ、用材運搬と川浚人夫の差配をさせる
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慶長7年 (1602年) | この年、中村一忠が尾高城から米子城に移る
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慶長8年 (1603年) | 11月14日、中村一忠が老職横田内膳を誅殺 横田の家臣ら反抗し、翌日、出雲富田城主 堀尾吉晴の応援で鎮定(米子城騒動) |
慶長9年 (1604年) | 幕府の命によって佐藤半左衛門、河毛備後を米子城の執政をとし、君側の安井清一郎、天野宗把、道長長右衛門を死罪にする
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慶長14年 (1609年) | 5月11日、中村一忠20歳で急死 中村家断絶、城地収公に決まる 8月、監使として朝比奈源六ら派遣 城請け取り役 古田大膳太夫重治、一柳監物直盛を派遣 10月、西尾豊後守光教ら3人を米子城在番に任命 |
慶長15年 (1610年) | 伯耆国会見・汗入郡6万石領主として、美濃国黒野城主 加藤貞泰の転封を発令
|
元和元年 (1615年) | 幕府が一国一城令を発したが、米子城保存と決まる
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米子市サイトから引用。
城主家系図
山名宗之(宗幸)は日野山名家当主。
中村忠一と横田内膳関係図。
忠一の伯母の夫にあたる。
城主石高
中村忠一時代:17.5万石。
加藤貞泰時代:6万石。
池田由之時代:3.2万石。
荒尾氏時代:1.3万石。
所感
●山陰の山城の中ではベスト3に入る。
●近年登り石垣が発掘されており朝鮮出兵した影響もうかがわれる。
●城内はしっかりと整備されており、本丸からは日本海や大山が見えて壮大感を味わえる。
関連URL
米子城築城までの中村氏の居城。
親族の中村一栄が城主であった。
日野山名家である山名宗之(宗幸)の居城。
参考URL
参考文献
『鳥取県中世城館分布調査報告書第2集(伯耆編)』
『日本城郭大系』14
『鳥取県の地名』
『鳥取県地名大辞典』
公開日2021/12/25