城データ

城名:飯山城

別名:采女丸

標高:50m

比高:50m

築城年:応仁から文明年間(1467~87)に、山名宗之やまなむねゆきによって砦として飯山いいのやまに築かれる。

城主:山名氏、尼子氏、吉川氏、中村氏

場所:鳥取県米子市久米町

北緯:東経:35.424793/133.327469

飯山城はここ

 

 

攻城記

 

柳生奮戦の地と飯山城跡


約500年前に築かれた伯耆・出雲国境の重要な砦で、中世には山名・尼子・毛利など戦国の攻防戦が繰り返された。

山頂には、南北約85m、東西約35mの曲輪が古い二段の石垣で築き上げられている。

 

湊山と山続きであったので、江戸時代には湊山本城の東の砦となった。

 

慶長8年(1603)11月、家老横田内膳村詮が、主君中村一忠に暗殺されると、横田方が反旗を翻し、飯山に立て籠もって激しい戦いが起こった。

これが、世にいう「米子城騒動」「中村騒動」である。

 

このとき、横田方の剣豪柳生五郎右衛門(但馬守宗矩の兄)が、中村方の武将矢野助之進らとわたりあい、十文字槍をしごいて、中村方を多数討ち取ったという武勇伝は有名である。

米子市

 

この石段を登れば本丸。

本丸には碑が建っている。

米子市を臨む。

何かの礎石か。

山頂部には特段変わったものは無い。

瓦の残骸発見。

山頂から少し降りて周囲を確認すると、そこには石垣があり驚かされる。

対面の米子城。

位置関係

 

 

余湖図【米子城の一部】

当時のイメージ図(余湖図コレクションより引用)

飯山と記載されているところ。

 

城の概要

築城の嚆矢は応仁~文明(一四六七~八七)出雲国守護代尼子氏と伯耆山名氏との合戦の際、山名氏により雲伯国境警備の砦として築かれた飯山城とされる。

 

同城は近世米子城の本丸が置かれた湊山の東側にある独立丘 陵飯山(五九・二メートル)に築かれた砦で、合戦記類に記される中世米子城は飯山城のことであるという(伯耆民談記)。

 

ただし飯山の城名を記す同時代の史料は見当らず、 また昭和六三年(一九八八)の久米第一遺跡の発掘調査か ら、一五~一六世紀には湊山北西海側で埋立てが行われ、 なんらかの施設が構築されていたと推定される。

 

「出雲私史」には尼子清定に反撃された伯耆の山名勢が、文明二 年敗退して米子城に入ったと記しているが、これも飯山城であろう。

 

『鳥取県の地名』より該当部分引用。

 

城の歴史

応仁元年
(1467年)
このころ、山名教之の配下 山名宗之(宗幸)が米子飯山砦を築いたという

 

文明2年
(1470年)
伯耆の山名軍が出雲に乱入したが、尼子清定に逆襲され退いて、米子城にこもる(出雲私史)

 

文明3年
(1471年)
山名之定 米子城を守る

 

永正10年
(1513年)
出雲の尼子経久、このころから米子城などをしばしば攻める

 

大永4年
(1524年)
尼子経久は山名澄之の援助と称して伯耆に攻め入り、米子城などが従えられ、尾高城主 行松正盛は城を去る(伯耆民談記)

 

永禄5年
(1562年)
このころから米子城などは毛利氏によって制圧される
このころ、米子城主は山名秀之か
元亀2年
(1571年)
尼子氏再興軍の羽倉孫兵衛が米子城を攻め、城下を焼き打ち
米子城主は福頼元秀
天正9年
(1581年)
古曳吉種がこのころから米子城主
(「伯耆民談記」では永禄12年から)

米子市のサイトから該当部分のみ引用。

 

所感

●初期の米子城はこの分で飯山城と呼ばれていたらしい。

 

●城というよりか砦跡で、削平地も1つしかない。

 

●削平地部分は広く多くの城兵を収容できたと思われる。

 

●見どころは本丸から降りた部分の周囲に石垣の痕跡があることで、近世城郭時代に築かれたものと思われる。

 

●近世には采女丸と呼ばれており、当時はしっかりとした曲輪があったのかもしれない。

 

 

関連URL

【鳥取県】米子城【米子市久米町】

 

参考URL

城郭放浪記(伯耆飯山城)

西国の山城(飯山城)

飯山城 / 飯之山城- しろ凸たん

 

参考文献

『鳥取県中世城館分布調査報告書第2集(伯耆編)』

『日本城郭大系』14

『鳥取県の地名』

『鳥取県地名大辞典』

公開日2021/12/25

 

ホームに戻る

攻城一覧

Copyright © 山城攻城記 All Rights Reserved.