城データ
城名:法勝寺城(ほっしょうじじょう)
別名:尾崎城、尾崎寺城
標高:90m
比高:60m
築城年:永禄7年(1564)これは毛利軍が改修した年か。
城主:毛利氏、三村家親、一説には毛利本紹という人物がいた。
場所:鳥取県西伯郡南部町法勝寺(城山公園)
北緯:東経:35.334816/133.325577
攻城記
まず最初に麓にある毛利本紹をの供養塔を確認する。
南部町指定文化財
法勝寺城址
平成成16年10月1日指定
毛利氏によって永禄7年(1564)築城され、吉川元春の家臣三村家親が城主となった。
家親は、尼子方の八橋城を攻略し、城将吉田源四郎らを敗走させた。
一説によると、法勝寺城には毛利遠江守本昭が城主になったが、尼子遺臣の山中鹿助により攻められ落城し、本昭は自刃して果てた、という悲話が伝えられている。
中世特有の典型的な山城で、本丸・二の丸で構成され、土塁や空堀が残っている。
今では、城山公園として整備され、桜の名所である。
平成17年3月 南部町教育委員会
ここから登っていく。
堀切が凄い。
これこそ中世の山城。
少し麓を臨む。
綺麗に整えられており散策しやすい。
しっかりとした切岸。
これも素晴らしい切岸。
なかなか急峻な造りになっている。
山頂に到着。
土塁。
本丸は広い。
別方向から。
下を臨むとこんな感じ。
余湖図【法勝寺城】
当時のイメージ図(余湖図コレクションより引用)
城の概要
法勝寺往来沿いの低丘陵上に位置し、南側には外構城がある。
丘陵北端部に広がる郭群は、南北方向約200m、東西方向約100mの規模になる。
郭群は北部分にある堀切で二つの群にわけられ、南側の郭群南端に主郭が置かれている。
主郭北側には腰郭等が配置され、その西側下段には土塁状の土盛りが確認できる。
『鳥取県中世城館分布調査報告書第2集(伯耆編)』より引用。
法勝寺城
法勝寺城は、西伯町の法勝寺の北側を一〇〇mあまり上った鴨部地内に突き 出している丘陵端(比高四〇m)を三段に削り取った山城であったが、中世の山 の形をいまに残している。
周辺に土塁と空堀が残っており、近くには「戸構」という地名も残っている。
また、城のある地形から尾崎城の別名もあった。
当城は永禄七年、毛利氏の築城にかかり、同年、吉川元春の家臣三村修理亮家親が日野の不動ケ嶽城に立て籠もったのちこの城に移った。
九月、家親は尼子方の吉田源四郎や、その部下の谷上孫兵衛・福山肥後守らの守る八橋城を攻略し、 吉田氏らは富田城に走った。
同八年十月、尼子方の福山 肥後守・平野又右衛門らが 当城に来襲して城下に火を 放ったが、家親は城を出て 戦わなかった。
平野又右衛門は家親の作戦を察して退 いたが、福山肥後守は城下を荒らし、日暮れになって 引き返すところを家親に襲撃され、肥後守は討死した。
ついで慶長年間(一五九六~一六一五)、中村氏が米子城を築いてからは廃城となった。
北東を大手とし、山頂には長さ五四m×横二七mと二七m四方の平地がある。
なお、城跡は、現在、桜の名所として市民から親しまれている。
『日本城郭大系』14より引用。
法勝寺城跡 西伯町鴨部
鴨部集落の北方、同集落と法勝寺川を隔てた丘陵先端にある戦国時代の城跡。
尾崎城ともいう。山城で、因伯古城跡図志(県立博物館感)によると比高は約三六メートル。
諸寺川に臨み、北東を大手とし、山頂は長さ五四メートル・横二七メートルの平地で、やや下って一八メート ル四方、さらに二七メートル四方の平地があるとする。
周辺に土塁・空濠が確認でき、戸構などの地名も残る。
伯耆西部出雲国境にあって、北から飯山・橋本・新山(現米子市)・柏尾・伐株の各城と連なる戦略上の拠点にあたり、かつ法勝寺往来(備後街道)、同往来枝道の金山越(作州街道)および出雲方面に通ずる山田谷の道などが交差する地を占めていることからもその重要性がうかがえる。
明徳の乱では山名満幸が一時在城したとされる(山名系図)。
文明一二年(一四八〇)一〇月五日の山名政豊感状(閥閲録)に「伯州法勝寺城」とみえ、山名一族の内粉で守護山名政之についた政豊は、九月一四日の城攻めにおける田総豊里の戦功を賞している。
翌一三年九月、伯費東部を制圧した政之は、同国西方に残った当城および久坂城(現米子市)の攻撃に向かった(九月一二日「山名政之書状」蜷川家文書)。
大永の五月崩れ以後、当地方では尼子氏が勢力を扶植した。
次いで毛利氏の勢力が及ぶと、永禄七年(一五六四)同氏家臣三村家親(備中成羽の人)が日野郡不動ヶ岳 (現日野町)から転じて当城に入り、防備を固めた。
翌八年尼子氏の臣福山肥後守の攻撃を受けて城下を焼かれたが、 これを退けたという(伯耆志)。
同年家親は備中に帰り、同 一二年末には再び尼子氏の支配下に入ったが、家親以後 の城主は明らかでない。
慶長年間(一五九六~一六一五)に廃城となり、当城下の有力商人も米子に移って法勝寺町が 形成された。
なお法勝寺の本紹寺の寺伝によると、同寺は永禄年間当城に関係のあったとされる法性寺殿本紹大居士の苦提寺として建立されたといい、城のある丘陵中腹には、同寺日玄(享保一〇年没)の建立になる「南無妙法蓮華経法性寺殿本紹大居士」と刻す石碑がある。
『鳥取県の地名』
城の歴史
文明12年(1480):一〇月五日の山名政豊感状(閥閲録)に「伯州法勝寺城」とみえることからこの頃にはすでに城があった。
文明13年(1481):山名政之が当城の攻撃に向かう。
大永4年(1524):大永の五月崩れで尼子経久が侵攻する。
永禄7年(1564):毛利氏の支配下に入り、城主を三村家親にする、ここから八橋城を攻撃する。
永禄8年(1565):尼子方の福山肥後守・平野又右衛門らが 当城に来襲して城下に火を放ったが家親は城を出て 戦わなかった。
慶長5年(1600):関ケ原の戦い以降中村氏が入部する。
慶長年間(1596~16151):廃城となる。
城主家系図
所感
●城はしっかり整備されており散策しやすい。
●桜の名所らしく、行くなら桜が咲いている時期がいいかもしれない。
●石垣などはなく土の城。
●毛利元紹という人物や山中鹿介に攻められて討死すると伝承があるが、誰の事か不明。
この地には隠岐国から法性寺某がおり城主を務めていたとのこともあるので「法性寺」→「本紹寺」→「元紹」に変化したのかもしれない。
関連URL
参考URL
法勝寺城 -伯耆の城ー
【伯耆】 法勝寺城|伯耆古城図録|しろ凸たん ~伯耆国古城 …
参考文献
『鳥取県中世城館分布調査報告書第2集(伯耆編)』
『日本城郭大系』14
『鳥取県の地名』
『鳥取県地名大辞典』
公開日2021/12/19