城データ
城名:鵯尾城(ひよどりおじょう)
別名:無し
標高:268m
比高:240m
築城年:天文年間(1532〜1555)頃に武田高信によって築かれたと伝わる。
城主:武田高信
場所:鳥取県鳥取市玉津
北緯:東経:35.436684/134.183784
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攻城記
登山口の看板。
鶴尾城の歴史
玉津南西に位置する二六八メートルの峰を中心 として、周辺の尾根や尾根続きの峰に郭群が認められ、空掘り跡等も認められる。
因幡南部と北部を結 ぶ交通の要衝にあり、北束方の鳥取城と鳥取平野を 一望出来る。
築城年代は不明、当城と鳥取城は武田 高信の拠点であり、特に南因矯方面からの侵攻に備える戦略拠点であったと考えられる。
武田氏は天正元年(一五七三)八月因幡へ侵入し てきた尼子民の家臣、山中鹿之介のこもる甑山城 (国府町)を攻撃するが敗れ、尼子氏と連携する山名豊国に鳥取城を明渡し、当城へ移ったという。
天正 二年の毛利輝元書状に「鵯尾」と書かれ、鹿野城在藩中の野村士悦は尼子勢再侵入後の因矯の状況を報告し、鳥取城・鵯尾城が「堅固之由」と伝えている。
この段階で高信の鵯尾城在城の有無は不明だが、翌三 年三月には豊国が当城を掌握し、五月には毛利氏がら徳吉に検使として派遣され在藩していた山田重信の支配下に置かれ、この頃高信は当城を追われて いたと推定される。
高信謀殺を企てた山名豊国は天正六年八月、智頭の草刈伊豆守追討ちを理由に出陣し大義寺(河原町) に本陣を置いた。
当時高信は鶴尾城に居たが、豊国に合力を依頼されて当寺に赴き、豊国の家臣によっ て討たれたと伝えられている。
「因幡民談記」より
山頂に向かって進む。
山腹の風景。
途中にあった祠。
削平地
更に進む。
馬場からの展望図。
遠くに鳥取城が見える。
鳥取城。
削平地。
二の丸跡。
本丸に到着。
本丸跡。
周辺部。
鳥取城方向。
大義寺(武田高信墓所)
武田高信墓。
その他にも多くの五輪塔、宝篋印塔がある。
余湖図【鵯尾城】
当時のイメージ図(余湖図コレクションより引用)
城の概要
概要
山間部の丘陵頂部に多数の連続した郭、堀切が存在する。
郭は概ね北東方向と南東側に広がる。
また、この城郭の東方向には智頭往来等の街道があり、南東側に郭が広がるのはこれらの街道を意識しているものと考えられる。
『鳥取県中世城館分布調査報告書第一集(因幡編)』より引用。
鵯尾城
鴨尾城は武田高信の居城であったが、天文の初め頃築城されたという。
永禄六年(一五六三)頃より高信は主家の天神山城山名氏に対する叛意を徐々に明らかにし、当城を弟の又三郎に譲って、みずからは鳥取城に常駐した。
元亀三年(一五七二)、山中鹿之助が山名豊国を助けて高信を攻撃し、甑山の 一戦に武田勢を破った。
高信は前年の芦屋城攻撃の失敗もあって勢力が激減したので、豊国に降り、鳥取城を去って鵯尾城に帰った。
ほどなく弟又三郎が没 し、高信は一人で孤塁を守ったが、豊国は高信を散岐の大義寺に軍議と称して招き寄せ、寺門を閉ざして高信を誅した。
当城は山上を階段状に切りならし、空堀・門・櫓などが配されているが、平 地は大小一九を数える。北東を大手としている。
『日本城郭大系』14より引用。
城の歴史
永禄6年(1563):この頃から武田高信が主家である山名氏に叛旗を翻す。城主を弟の又三郎に譲り、自分は鳥取城を居城とする。
元亀2年(1571):妹婿である芦屋城の塩冶高清を攻めるも大敗北して、息子らを討死させる。
天正元年(1572):山中幸盛(鹿介)が籠る甑山の戦いでも敗北して、武田勢力が一気に落ちる、鳥取城からも撤退する。
天正3年(1575):かつて攻めた塩冶高清を頼り落ち延びる、城は毛利方の部将である山名重直が在番する。
天正4年(1576):山名豊国によって大義寺にて謀殺させる。
城主家系図
所感
●城自体は曲輪も多そうで兵力があれば籠城も可能であるが、技巧的な印象はうけない。
●山頂から鳥取方向は良く臨むことができ、対山名氏の拠点として機能していたと思われる。
●芦屋城の合戦、甑山城の合戦で敗北したことが大きいがここで勝利していたら、因幡国は織田側になっていたと思うと鳥取城の籠城戦も無かった。
●芦屋の塩冶氏を攻めたが後に助命嘆願を依頼したり、山名豊国も自分が武田高信を謀殺しても息子の助信を家臣に取り立てようとしたりしており戦国時代の不思議さを感じる。
関連URL
妹婿である塩冶高清の城。
山中鹿介と戦った甑山城。
武田氏が城代として守った鳥取城。
因幡守護の居城であった、布勢天神山城。
参考URL
参考文献
『日本城郭大系』14
『鳥取県の地名』
『鳥取県地名大辞典』
公開日2021/12/11