城データ

城名:鵜丸城

別名:沖鵜丸城,鵜の丸城

標高:59m

比高:59m

築城年:1571年頃

城主:都野隆安が城番とある。

場所:島根県大田市温泉津町温泉津

北緯:東経:35.098189/132.338802

鵜丸城はここ

 

 

攻城記

鵜丸城全景

 

 

沖泊

温泉津湾に突き出た丘陵は鵜の丸城跡、永禄十三年(1570)出雲の尼子膀久が、尼子再興の軍をおこしたとき、毛利元就は出雲を討つ海軍の根拠地として、内藤内蔵丞ら三人を奉行として城塞を設けたのが鵜の丸城である。

 

元就は長くこれを重視した。

 

 

鵜丸城跡

 

鵜丸城跡は、中世の港湾として繁栄した沖泊港の南側の丘陵突端に位置する標高59m(比高55m)の海城です。

 

毛利氏(注)によって、元亀2年(1571)に毛利水軍の拠点として約1ヶ月で築城されたことが「児玉伝右衛門家文書」(『萩藩閥閱録』)に記 されており、文献資料によって築城の背景が分かる数少ない事例です。

 

鵜丸城跡は、大手の桝形虎口を挟んで西側と東側の尾根上に郭群を配し、東側の郭群には銃陣を敷くための雛壇状の3段の帯郭が築かれていることが特徴です。

 

注:安芸国(広島県西部)郡山の吉田城を拠点とした戦国時代の中国地方の覇者

 

 

 

櫛山城と対の城だと考えられる。

 

縄張図。

攻城開始。

三重の帯曲輪。

鵜丸城の矢竹。

二の丸。

大手門の虎口。

藪化しており確認困難。

 

本丸。

本丸から見た日本海。

本丸はこんな感じで7割位は藪化している。

 

麓を見る。

 

位置関係

 

余湖図【鵜丸城】

 

当時のイメージ図(余湖図コレクションより引用)

 

城の概要

温泉津湾の湾国の東岸に位置し、西岸の笹島城、沖泊湾を隔てた北方の櫛島城と呼応して、温泉津湾の湾口を掘している。

 

大手の桝形虎口を挟んで東側と西側の郭群で構成されており、西側の桝形虎口も北方の沖泊湾に向かって開口している。

 

東側の郭群には、銃陣を敷くため雛壇状の三段の帯郭が認められる。信頼できる文献史料によって築城の背景がわかる数少ない事例である。

 

島根県教育委員会『島根県中近世城館跡分布調査報告書』より引用

 

鵜丸城跡 温泉津町温泉津

温泉津湾の湾頭部にあった山城。

 

永禄一三年(一五七〇) 毛利元就・輝元父子によって築かれた。

 

山陰地域におけ る毛利水軍の基地、軍需物資補給のための兵站基地として築かれ、のち飛躍的に機能を拡大した温泉津湊の掌握と警護にあたった。

 

永禄一二年六月毛利軍の主力が九州に出陣した隙を狙って出雲に進入した尼子勝久軍を、富 田城(現広瀬町)の南方布部(現同上)で撃退した後、尼子氏 の再度の来襲に備えて急遽築造された。

 

同一三年と推定される二月二〇日の鵜丸城普請賦帳(閥閱録)によれば、元就は温泉三方・福光、仁摩·宅野・大国三方・雨河現(仁摩町)、磯武(五十猛)・静間(現大田市)、波積(現江津市)などの周辺地に普請を割付けて、三月二〇日まで完成させ るようにと命じている。

 

元亀二年(五七一)六月二六日吉 川元春ら四名が連著して洞春(元就)の命じたように温泉 銀山(石見銀山)を公領(毛利家直轄領)とし、軍用のみに供すよう毛利氏奉行人粟屋元種に伝えており(毛利家文書)、銀の積出港として重要であった温泉津湊守備を課題とした。

 

しかし同年八月尼子勝久が出雲を退去したのに伴って当 城の軍事的機能は低下し、関ヶ原合戦後、毛利氏が長門 国萩へ転封になり廃城となった。

 

なお天文九年(五四〇) 一二月一一日の公修外五名連署状(多田家文書)に「串山御 城」とみえる串山城(櫛山城)は、かつて温泉郷の領主であった温泉氏の居城で鵜丸城の近くにあり、温泉津湊の監 視と警護を任務にしていたと考えられる。

 

『島根県の地名』より引用

 

鵜丸城

鶴丸城は温泉津港の港口の東端、海に面する断崖の上にあったが、周辺一帯 の見通しはきわめて良好で、水軍の根拠地としてはもっともふさわしい位置にあった。

 

当城は、毛利元就が永禄十三年(一五七〇)、毛利水軍の拠点として都野氏に命じて築かせたものといわれている。

 

『日本城郭大系』14より引用。

 

鵜之丸普請

 

『萩藩閥閲録』巻101 児玉伝右衛門 34

 

 

城の歴史

永禄12年(1569):尼子再興軍が蜂起。

 

元亀2年(1571):わずか1か月で築城。

 

毛利軍は沖泊から軍船200隻を派遣し、安来の十神山城を急襲し落城させる、海の奉行を采配して尼子再興の夢を打ち砕いた。

 

 

城主家系図

 

所感

●突貫工事で築城したと思われるが、造りはしっかりしており、毛利軍の築城能力が伺われる。

 

●対面の櫛山城とセットで機能していたと考えられる。

 

●藪化しているので詳細が不明であるが、縄張図からは見てもいい城なので整備して欲しい。

 

●海に立地しており港の防衛も兼ねていたと考えられる。

 

関連URL

【島根県】櫛山城【大田市温泉津町温泉津】

お隣の櫛山城。

 

参考URL

城郭放浪記(石見鵜丸城)

石見銀山の城跡(鵜丸城)

お城解説「日本全国」1000情報【城旅人】(鵜丸城)

都野隆安(ウッキペディア)

 

参考文献

『島根県中近世城館跡分布調査報告書』

『島根県の地名』

『日本城郭大系』14

『毛利八箇国御時代分限帳』

『萩藩閥閲録』

『萩藩諸家系譜』

 

公開日2021/07/31

 

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