城データ

城名:甑山城

標高:110m

比高:80m

築城年:南北朝時代

城主:山名氏、一時期山中鹿之助が籠もっていた。

場所:鳥取県鳥取市国府町町屋

北緯東経:35.474043/134.279093

甑山城はここ

 

 

攻城記

麓の看板。

登山道のようになっており登りやすくなっている。

本丸に向かって進む。

本丸付近。

加工度は低い。

本丸からの風景。

左の山が大路山、右の山が面影山(面影城)。

河原石が散見されており、投石用に運ばれたものと考えられる。

周囲を回ったが特段目立った遺構は無し。

降りて甑山遠景を撮る。

 

看板

甑山(一一二.三米)

天正元年(一五七三年) 主家(尼子氏)再興の 悲願にもえた山中鹿之介がこの山上に立てこもった。

 

鳥取城代武田高信はこれしきの城と手兵 三百騎で攻めよせたが山中鹿之介の奇略にあって 敗走し 鳥取城明け渡しの悲運をまねいた「たのも崩れ」 の古戦場である。

 

山は 溶岩が冷却した凝灰角岩である。

 

甑とは 米を蒸す器に似て名つけられたものである 南方の今木山西方の面影山とともに「因幡三山」と 呼ばれている。

 

山の麓には法美農学校 実業補習学校 宇倍野中学校 などがおかれていた。

 

伝 山中鹿之介の歌

 

憂きことのなはこの上に 積もれかし 限りある身の力ためさん

 

昭和六十二年十月

国府文化協会 土交通律

 

余湖図

当時のイメージ図(余湖図コレクションより引用)

 

 

城の概要

飯山は標高は約一一〇メートル(比高八〇メートル余)だが、まさに飯を伏せたかの観のある険しい山であ る。

 

東を美歎川が流れ、南麓で袋川と合して北西へ流れている。

 

このように山は三方を天然の濠に囲まれた要害 みたに の地勢である。

 

山脚は岩盤だから攻口が限定され、選ばれるべくして選ばれた地といえる。反面、このことは城郭規模にも制約を与え、山頂の平面規模も狭い。臨戦的な城といえる。

 

遺構は戦時中に改変されたらしく、不自然な部分も認められる。特に牛首状の鞍部や山頂部に見られる溝は塹 壕演習の名残りを示したものだろう。縄張りは珍しい円郭式で死角が最も少なく、寡兵が守備する理想的な形である。

 

曲輪の原義に最も近く、山城部が狭小で、多勢が籠れない同城にとって理にかなった縄張りといえる。

 

各曲輪も同一平面を維持しておらず、適宜段差を設けて横移動を妨げている。

 

自己の位置関係が混乱する仕組みで ある。近年設置された休憩所周辺には拳大の河原石が散見されるが、投擲用のつぶて石と思われる。

 

鞍部には明確な堀切は認められないが、東西に穿れた堅堀によって僅かに偲ばれる。

 

この三〇メートル北側に も同様の竪堀が設けられている。竪堀以北には遺構は見当らず、稜線上に平坦面も数カ所認められたが、人工の ものと見えにくい部分もあって判断を避けた。城域としては先の堅堀が境界となろう。

『国府町誌』より引用。

 

城の歴史

建武四年(延元二)の南北朝の動乱期に、少人数で甑山城を 守る北朝方の軍勢を南朝方の軍勢が次から次へと絶え間なく 攻撃していることが、次の「平貞泰書状」(『金沢文庫古文書』 鳥取県史に収録)で知られる。

 

称名寺領因幡国千土師郷雑掌光信申す。東六郎盛義家人 彦次郎以下輩濫妨の事。

仰せ下され候の旨に任せて其の節を遂げしむ可く候の処、

当国甑山城内無勢を以て警固戦中、御敵連々出で向ひ候

の間、片時の隙無く候。何様に為す可く候哉。此の旨を

以て御披露有る可く候。恐惶謹言。

建武四年口月四日

平貞泰上

進上御奉行

 

この書状から、飯山城が南北朝時代にはすでに存在し、平 貞泰が城主であったことが知られる。

 

その後、西垣長兵衛という国侍が住していたというが、その詳細はわからない。

 

永禄年間(一五五八~七〇)になると、山中鹿之助が山名豊国を助けて浦富の桐山城から甑山に移り城を修築した。

 

これを知った鳥取城の 武田高信が、元亀三年(一五七二)に四、五百騎を率いて甑山城を攻撃したが、 飯山は山としては高くないものの険しくて容易に攻撃できなかった。

 

山中鹿之助は武田高信の軍勢に大打撃を与え、武田勢は再起不能なまでに打ち破られて 鳥取城に退いた。

 

これを「鳥取城のタノモ崩れ」という。

 

しかし天正元年(一五七三の冬、山中鹿之助の因幡退去の後、甑山城は廃城となった。

 

『日本城郭大系14』より引用。

 

たのも崩れに関しては下記参照。

鳥取のたのも崩れ(ウッキペディア)

 

所感

●加工度も低く本当にこの山で山中鹿之助が立て籠もり武田高信を撃退したのか疑問が残る。

●山頂付近には河原石(握り拳大)が多数有り、投石として使用するために麓の川から持ち運んだ事が分かる。

●眺望はきき、正面には面影城も見えたと思われる。

●南北朝の動乱期に南朝からの攻撃があったことが分かるが、北朝の事実上の軍事責任者である、高師直の二男が派遣されて秋里氏になったのもこの関係からかもしれない。

 

関連URL

【鳥取県】今木山城【鳥取市国府町法花寺】

甑山城の対面にある山城で城主は秋里氏

秋里氏は高師直の二男の子孫とも伝わっており関係があり、南北朝の甑山合戦戦後にはこの地にいたかも知れない。

 

参考URL

城郭放浪記(因幡甑山城)

西国の山城(甑山城)

 

参考文献

『国府町誌』

『日本城郭大系14』

『鳥取県の地名』

公開日2021/03/14

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