城データ
城名:道竹城
別名:無し
標高:150m
比高:130m
築城年:天文年間(1532~55)末期
城主:三上兵庫頭
場所:鳥取県岩美郡岩美町大字新井
北緯:東経:35.573917/134.325097
攻城記
道竹城全景。
岩美高校の校庭から入る。
校庭の端から入れる。
城に行く途中には仙英禅師の石碑がある。
途中の景色、日本海が一望できる。
更に山頂に向かって進む。
途中はこのような笹が繁茂しており遺構も確認しにくい。
本丸到着するが、このような有様。
本丸の標識ですらこの状態なので他の場所は藪化で侵入不可能。
桐山城方向。
三角点付近。
位置関係
余湖図【道竹城】
当時のイメージ図(余湖図コレクションより引用)
城の概要
平野を見下ろす丘陵頂部に主郭を置き、四方に伸びる尾根に郭群が展開する。
西尾根・南尾堀切で切断し、東側斜面には敵状竪堀が連続する。三上兵庫頭豊範の居城で、永禄(1564)に廃城される。
『鳥取県中世城館分布調査報告書第一集(因幡編)』より引用。
道竹城
文正元年(一四六六)、因幡国の守護山名勝豊は、巨濃郡岩常の二上山城から 高草郡布施(鳥取市布勢)に天神山城を築いて移り住んだという。
そのため山下の治安が大いに乱れたので、天文の頃、この地方の者が相談して但馬山名家か ら三上兵庫を迎え二上山城主とした『因幡志』。
三上兵庫は但馬守護山名祐豊の弟で、仏門に入って東陽蔵主といい但馬出石の宗鏡寺の住職であったが、還俗して山名豊弘と名のり、後、三上兵庫と称し た人物であった。
しかし、二上山城は山が高く不便であったので番兵のみを置き、新しく新井村(岩美町新井)に道竹城を築いてここで政務を執った。
当時の因幡は、西方に尼子氏、東方に但馬山名氏と両面に敵をもっていた。
特に天文十七年(一五四八)、但馬守護山名祐豊は因幡に侵入して天神山城を攻め落とし、因幡守護山名誠通は討死して因幡山名氏は没落し、但馬守護祐豊の 弟豊定が因幡守護となった。
永禄(一五五八~七〇)の頃になると、安芸国から興った毛利氏の勢力が伯耆 や因幡にも及ぶようになり、尼子氏の勢力は後退し始め、因幡においても、三上兵庫(山名豊弘)は武田高信や毛利氏と結び、因幡守護に背いて尼子勢の一掃 につくしていた。
しかし、永禄七年秋、因幡守護山名豊数の軍勢に急襲されて 道竹城は落城し、三上兵庫も討死した。
道竹城もそれ以後廃城となった。
道竹城は岩美町新井にあったが、この地は因幡から但馬への交通路が、海岸 沿いの道と山道とに分岐する要地であった。
城は標高一四九mの山上にあり、 東を大手としている。
山頂付近には六つの平地があり、本丸は「長二十間(約 三六m)、横十五間(約二七四m)」で、二の丸・三の丸などがみられる。
城の後ろ、岩美町本庄集落の東南の田圃の中に小さな丘があるが、ここで三上兵庫は討死したといわれている。
そこで、その地に八幡宮を建ててその霊を 2ったといわれ、社のそばに宝印塔があるが、兵庫の死骸を葬った標という。
城の歴史
文正元年(1466):山名勝豊が二上山城から天神山へ居城を移す。
16世紀初め:居城が移転して荒廃したので、村の者が但馬山名家に相談して三上兵庫を迎い入れる。
天文年間(1532~55)末期頃:二上山城は標高も高く不便なので、新しく道竹城を築く。
永禄年間(1558~70):この頃三上兵庫は武田高信や毛利側につき因幡山名氏に叛く。
永録7年:(1564):因幡守護の山名豊教に攻められて三上兵庫頭が討死する、城も廃城となる。
所感
●因幡山名氏の所領ではあるが、但馬山名氏からの支援にて三上兵庫頭が入城している。
●当初は因幡山名氏の支配下であったが、背き武田高信に与する、しかし因幡山名氏に急襲されて自刃。
●三上兵庫頭は不明な点も多い。
関連URL
道竹城に来る前の居城。
近隣の山城、垣屋氏が城であったが、垣屋氏が道竹城を支配していた可能性もある。
参考URL
参考文献
『日本城郭大系』14
『鳥取県の地名』
『鳥取県地名大辞典』
『因伯の戦国城郭 通史編』高橋正弘
『新編 岩美町誌 上巻』
公開日2021/12/11