城データ

城名:二上山城(ふたがみやまじょう)

別名:岩常城

標高:333m

比高:280m

築城年:文和年間(1352~55)

城主:山名時氏によって築城されたと伝わる。

場所:鳥取県岩美郡岩美町大字岩常

北緯:東経:35.540379/134.319103

二上山城はここ

 

攻城記

二上山城全景。

中腹から。

切岸がどこか不明。

道のりは長い。

登っていく。

どこが堀切か全く分からない。

遠く日本海が見える。

本丸行くまでの曲輪。

周辺部。

山頂に到着。

本丸。

 

史跡二上山城跡

二上山城の位置する二上山は、標高346.6m、所々に位置する巨岩と、標高200m前後から急勾配をもつきわめて険阻な山です。

 

城は山頂部の一の平及び、一の平帯曲輪を中心とし、北東方面へ向かって二の平、そして大小8か所の削平地からなる三の曲輪と続く主要部からなっています。

このほぼ一直線に並んだ城の状況をみると、二上山城は北側からの寄せ手を意識して築城されていたように思われます。

 

東西両斜面はかなり険しく、この方面からの攻撃は不可能と思われます。

 

一方で、他の斜面に比べゆるやかな南側の尾根伝いのルートは、非常時に逃げ道となっていたようで、こちらからの攻撃は少ないものと考えられていた様子がうかがわれます。

 

【一の平及び一の平帯曲輪】
東西50m、南北29.4m、面積953㎡の規模を持つ一の平は、近世の城でいえば「本丸」にあたり、有事の際にはここから指揮・指令が発せられました。

 

また一の平の周囲にはおよそ200mにわたる帯曲輪が設けられ、一の平の守備・防衛に役だっていたようです。

 

【二の平】
二の平は二上山城でもっとも面積の大きい削平地で、東西およそ100m、幅は最も広いところで24mで、ここから陶器片をはじめとする生活用品の遺物が出土していることから、屋敷等の生活のための施設があったと考えられます。

 

その他にも、東端の土塁から始まる三の曲輪方向への意図的な急勾配や、西端に位置する一の平入口の守りを固めるための櫓跡のような壇、また南側に9m隔てた場所に設けられた東西78mにわたる帯曲輪など、戦略面での工夫も各所に見受けられます。

 

投石用か。

 

余湖図【二上山城】

当時のイメージ図(余湖図コレクションより引用)

 

城の概要

概要

平野を見下ろす標高346mの二上山頂上部に構築された城郭で、岩常城ともいう。

 

丘陵頂部の「一の平」と呼ばれる50X30mの郭と周囲を巡る帯郭、その北東方向に築かれた幅15~25m、長さ100mの「二の平」と呼ばれる郭を中心に山中に郭群が点在する。

 

北・東・南の尾根は堀切で切断し、東側の斜面には畝状竪堀がみられる。

 

山名時氏による文和年間(1352〜55)の築城と伝えられ、南北朝期の特費を持つ構造と矛盾しない。

 

文正元年(1466)山名勝豊が布施天神山城に移るまで山名氏の因幡支配の拠点であった。

 

戦国時代末期まで使用され、慶長5年(1600)廃城と伝えられる。

 

『鳥取県中世城館分布調査報告書第一集(因幡編)』より引用。

 

二上山城

二上山城は、蒲生川の支流小田川の中流域、岩美町岩常にある。

 

文実和年時、山名時代に創建されたという。

 

「因幡志」に「山名伊豆守時代時代数ヶ国の領主として当所二上に在城の時」と記されている。

 

そして、山名豊勝の時の、文正元年(一四六六)の「因幡民談記』によると、「高草郡布施ニ城ヲ構 へ居住」したというから、約百十年間、因幅の守護所が置かれたことになる。

 

しかし、二上山城を守護所とすることの確証はない。しかも後背地に乏しく、 因幡全体の支配を考えると個馬に片寄りすぎているなど疑問とされる。

 

しかし、室町時代を通じて、この地方には山名氏の一族が多くおり、山名の因幡支配の一拠点であったことはまちがいあるまい。

 

「太平記』卷第三十二所教「神南合戦事」の中に、文和四年二月、「山名伊豆守時氏、子息右街門佐師氏ヲ大将二テ、伊田・波多野・石原・足立・河村・久世・土屋・福依・野田・首藤沢・浅沼・大庭・福間・宇多河・海老名和泉守・吉岡安芸守・小幡出羽守・楯又太郎・加治三郎・後藤壱較四郎・倭久修理亮・長門山城守・土師右京亮・毛利因幡守・佐治但馬守・塩見源太以下其勢合テ五千余騎」の因幡・伯者を中心とする軍勢が戦ったことが記されている。

 

この戦 で「将八十四人、其一族郎従二百六十三人」が戦死したので、戦死者の「名字ヲー々ニ書注シテ、因幡ノ岩常谷ノ道場へ送り」追善したとも記している。

 

これら戦死者の耳を埋めたという「耳塚」が岩常集落の中にある。

 

耳塚は、昭和になって集落内を流れる満願寺川の改修に伴い移転するまでは、現在地より下に「耳堂」と共にあったという。

 

塚は、高さ約一六五㎝、幅約七六㎝の自然石 で、元禄七年(一六九四)、岩常の小林次郎左衛門が再建したと刻まれている。

 

彼は山名氏の執権小林民部之丞重長の子孫と伝えられている。

 

「岩常谷の道場」は現存しない。

 

しかし、小田川から岩常付近で分岐する満願寺川の上流で、岩美町本庄の向山集落に、かつての山名家の菩提寺と伝えられ る大杉山満願寺があったという。

 

いまも、本庄の地籍図に「本堂」「玄海坊」 「大教坊」「茶屋ケ谷口」「内所」などの小字がみられる。

 

この地を「岩常谷ノ 道場」跡に推定する説もある。

 

二上山城の構築された二上山は標高三三四mの高山である。

 

城は東北を大手とし、山頂付近には「二十 間(約三六m)四方」の本丸 跡・空堀跡などがある。

 

二上山の南、標高二五〇~二七〇mぐらいで、小田 川の支流高野坂川上流の小 字「高野坂奥」に通称「大屋敷」とよばれるところがある。

 

この地は「長五十間 (約九一m)と、横十八間(約 三三m)」で面積にすると 三〇〇〇㎡ぐらいの平地となる。

 

里人の口碑によると、 ここが待屋敷であるという。

 

しかし、地形的にみて常住の地とするには難点があり、 城郭の一部が構築されてい たのであろう。また、高野坂川が小田川と合流する付近の「上ミツエ」「下ミツエ」は、当時の馬場といわれている。

 

岩常は、かつての城下町といわれ、『因幡志』に「二上二在城ノ時一国都城 ノ下ニテ民屋数千軒棟ヲ双へ寺院モ多ク繁昌ノ地ナリシトカヤ、今モ谷々ニ其迹アリ長者屋敷、侍屋敷、市肆ノ跡等アリ田圃ノ字ニ茶屋谷・美女谷・土塀・ 馬場・絹幕ナトイヘルモ皆城下ノ時ノ名ヲ伝へタル也」とある。

 

いまも、岩常 の地籍図に「中村屋敷」「横井屋敷」「南屋敷」「山崎屋敷」「美女谷」などの小字がみられ、往時の岩常がしのばれる。

 

『日本城郭大系』14より引用。

 

城の歴史

文和年間(1352~55):この頃山名時氏によって築城されたと伝わる。

 

文正元年(1466):5代目守護の山名勝豊により、布勢天神山に守護所が移されたと伝えられるが曖昧な部分も多い。

 

16世紀:因幡山名氏が守護所を布勢天神山城に移してから荒廃が進み、村民が但馬山名氏に訴え、それを聞き入れれて三上兵庫頭豊範を城主とする。

 

しかし、三上兵庫頭は不便さから道竹城へ居城を移す。

 

慶長5年(1600):この頃は廃城となる。

 

城主家系図

所感

●城しては太平記などに出てくる千早城みたいにゲリラ戦強い特徴を備えていたと思われる。

 

●ただし、因幡国の守護所としてこの地域にあるとあまりにも東に偏りすぎていると思う。

 

●岩常周辺が今は田圃になっているが、当時城下町があったのかもしれない。

 

●山頂からの景色はよく、遠く日本海も見える。

 

 

関連URL

【鳥取県】布勢天神山城【鳥取市湖山町南町】

山名勝豊が移ったとされる布勢天神山城。

 

参考URL

二上山城(ウッキペディア)

城郭放浪記(因幡二上山城)

山城攻城日記(二上山城)

古城盛衰記(二上山城)

西国の山城(二上山城その1)

西国の山城(二上山城その2)

山名時氏(ウッキペディア)

山名勝豊(ウッキペディア)

因幡三上氏(ウッキペディア)

三上政実(ウッキペディア)

 

参考文献

『日本城郭大系』14

『鳥取県の地名』

『鳥取県地名大辞典』

『因伯の戦国城郭 通史編』高橋正弘

『新編 岩美町誌 上巻』

 

公開日2021/12/11

 

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