城データ
城名:大阪城
別名:錦城、金城,、華城
標高:31m
比高:10m
築城年:天正11年(1583)
城主:豊臣氏、徳川氏
場所:大阪府大阪市中央区
北緯:東経:34.686276/135.525820
攻城記
堀だけでも興奮する。
最初からなかなかの石垣。
神社のなにかの石だと思われる。
きれいな切込みハギ。
石垣の折れすら美しく感じる。
巨石
有名なアングル。
上から見るとこんな感じ。
大阪城ベストアングル
余湖図【大阪城】
当時のイメージ図(余湖図コレクションより引用)
城の概要
豊臣時代大坂城
秀吉城の意図
大坂の地は、信長が早くから「日本一の境地」として目をつけ、十年に及ぶ 石山合戦ののちようやく入手したものだけに絶好の城地であった。
石山合戦に たびたび参戦した秀吉がその点を知らなかったはずはない。
天正十年、山崎合戦で明智光秀を破った直後、秀吉が大坂の御番衆へ使者を 送り、「この城は誰にも渡してはならぬ。上様(信長)の跡を継ぐべき天下人へ 目出たく渡すべき城であるから、当分は油断なく守備されたい」と内々厳命したという話が『川角太閣記』に伝えられている。
また、山崎合戦後、秀吉は山 崎の宝寺の上に新しく城を築いたが、『豊鑑』によれば、「この所思ひ定ざるに や、はかばかしく構にもし給ざりけり」という有様で、秀吉にとっては仮城の域 をでないものだったようである。
翌年四月、賤ヶ岳に柴田勝家を破り、織田軍 団の中で支配権を確立すると、秀吉は直ちに大規模な国割りを実施し、かねて よりの念願どおり、大坂の地を自らの直轄領に繰り入れた。
『多聞院日記』には、 「六月二日、去年の今日は、信長生害、肝を消し了んぬ。羽筑(羽柴筑前守秀吉) 成天守閣提供)今日、「大坂へ始めて入城云々」と記している。
秀吉が、京都で信長の一周忌法 要を済ませるとその足で大坂へ赴いたことがわかるが、このことは、信長以来宿願の大坂築城に並々ならぬ意欲をもっていた証拠といえよう。
徳川時代大坂城
再築の経過
元和六年一月十八日、将軍徳川秀忠は、大坂城修築の助役を西国・北国の諸 大名に課した。
すでに前年九月十六日付、四老中連署状をもって西国大名に 「明年三月一日より大坂城石垣工事をおこすのでその用意をせよ」と命じてい たが、ここにきていよいよ本格化したのである。
このとき公表された築城計画は、まず二の丸の西・北・東の三方面と北の外 郭(三の丸ともいう)の修築であったが、石垣築造規模は、これらの部分のみで 延べ三千五百六十八間余(六四二二m余)にのぼったという。
この普請に動員されたのは、大和・伊賀・伊勢・若狭・越前·加賀・能登・ 越中・丹波・丹後・但馬・因幡・出雲・石見・播磨・美作・備前·備中・周防・長門・讃岐・伊予・土佐・筑前・筑後・豊前・豊後・肥前・肥後・日向・壱岐の三十一か国の大名四十八家である。
今日の富山・石川・福井・滋賀・三重各県をつなぐ線から西の、ほとんど全域の主要な外様大名が網羅されている。
外様雄藩では鹿児島の島津氏・徳島の蜂須賀氏などが除外されているのが目立つ くらいだが、親藩・譜代では、逆に越前福井松平忠直・大和高取本多政武・豊後日田石川忠総のわずか三家が含まれるのみで、圧倒的に外様大名が多い。
この工事は、およそ三年間を費して元和九年二月に完了した模様である。
これを第一期工事と呼ぶことができる。
続いて寛永元年正月、前年七月に三代将軍に就任した家光によってすでに号令 の出されていた本丸・山里丸修築の工事がスタートした。
今回の動員は新たに近 江・美濃・淡路・阿波の四か国が加わり、 越前・土佐・肥後の三か国が除かれたが、 合計三十二か国の大名五十八家に及んだ。
これが第二期工事であるが、ほぼ三年間を要して、寛永三年十二月頃には完了したものと推定される。
本丸・山里丸はおよそ千七百五十三間 余(三一五五m余)の石垣が築かれたとい う。
しかし、先述のごとく厖大な盛土によって地盤の嵩上げが行われていることを考えれば、工事の規模は石垣の長さ以 上のものとみなければならない。
この間の工事と関連して、天守台石垣の築造時期についてふれておく必要があ る。
『大坂城誌』以来、天守台の築造は 元和八年六月加藤忠広の担当で着工、翌 九年二月完成というのが定説となっていた。
しかし昭和五十五年春、天守台石垣 修復工事に関連した史料調査の過程で、 『大村家史料』と『毛利家史料』などか ら、天守台着工が寛永元年であることが 明確になったのである(内田九州男氏「天 守台築造年代を考える」『観光の大阪』 三四六号)。
元和八年着工、翌年完成と の『徳川実紀』の記事に問題があるとせざるをえない。
第三期工事には、第二期と同じ三十二か国から五十七来が参知している。
石垣築造の総長千三百四十八間(二四二六m余)の地に、このとき元和六年築造の大手口・玉造口の桝形と橋台の築き直しが行われた。
『日本城郭大系』11より一部引用。
城の歴史
天正11年(1583):豊臣秀吉により築城。
慶長5年(1600):関ケ原の戦いで豊臣氏没落し一大名となる。
慶長20年(1615):大阪夏の陣にて豊臣氏滅亡する。
元和6年(1620):徳川秀忠により、豊臣時代の大阪城を一掃するために工事開始。
第一期工事を開始して西の丸、二の丸北部・東部、三の丸を再構築。
元和10年(1624):第二期工事を開始して本丸一帯を再構築。
寛永5年(1628):第三期工事を開始して二の丸南部を再構築し完成する。
城主石高
豊臣時代:220万石→65万石
徳川時代:天領となる。
所感
●日本三大名城だと思う、現在の城は徳川時代の城で豊臣時代の城はこの城の地中に埋められている。
●徳川時代の城ということで天下普請で多くの大名が築城に参加、特徴として巨石の石垣が散見される。
●周囲も広大で全てを見るには1日では足りない、写真スポットも多くあり、楽しめるお城。
関連URL
大阪城の出丸である真田丸。
参考URL
参考文献
『日本城郭大系』12
『大阪府の地名』
『大阪府地名大辞典』
公開日2021/11/28