城データ

城名:岐阜城

別名:稲葉山城、金華山城、井口城

標高:328m

比高:300m

築城年:建仁元年(1201)二階堂行政によって築城。

城主:齋藤氏、織田氏

場所:岐阜県岐阜市天主閣(金華山内)

北緯:東経:35.433934/136.782027

岐阜城はここ

 

 

攻城記

金華山麓から。

伝一の門跡。

奥に進んでいく。

堀切。

本丸井戸。

石垣ゾーンに突入。

斉藤時代なのか織田時代なのか不明。

天守閣に入ってみる。

有名なアングル。

他のアングルも。

降りて他の方向に進む。

模擬天守下の石垣。

かなり古いタイプの積み方。

今でも水がある。

なかなかいいアングル。

さきほど見た石垣を上から臨む。

迫力がある。

周辺部の石垣。

麓まで戻る、信長居館跡。

信長居館跡は水を庭園に利用しているらしい。

 

余湖図【岐阜城】

当時のイメージ図(余湖図コレクションより引用)

城の概要

岐阜城

金華山は岐阜市東北部の主峰である。

 

濃尾平野の北端部といってよく、北側 の山麓を流れる長良川がこの地点より平野を形成する。

 

山頂からは豊かな濃尾 平野が一望のもとに見渡せる。

 

東南は十数四隔てて木會川に臨む伊木山城・犬 山城が望まれ、東は武儀郡、西は揖斐川流域や大垣、晴れた日には関ケ原も視界に入る。

 

南は木會・長良・揖斐三川の合流点が遠望できる。

 

このように美濃 田む養老・鈴鹿・伊吹・白山・木會の山並みを見渡せる金華山に居を占めることは、不破・木書の関門に加えて東海道・東山道の要路を制することになる。

 

城の創築は建仁元年、鎌倉幕府政所の執事、二階堂行政であった。

 

その後、 女婿藤原朝光・子伊賀次郎左衛門光宗・弟三郎左衛門光資・光資の孫三郎左衛 門光房と続いたが、光房の在城は不明である。

 

光資の頃、この地を稲葉と称し たことから稲葉山城と呼ばれるようになった。

 

のち正元元年(一二五九)に二階堂行藤が在域したと、『美濃国諸旧記』『土岐累代記』は載せている。

 

応永十九年(一四一二)、土岐氏の守護代斎藤利永が山上の古城を修築して住 んだが、文安二年(一四四五)、加納城を築いて移った。

 

革手城の支えとして城を構築したのである。

 

しかしそれ以後、天文八年(一五三九)、斎藤利政(道三) が修築して居城とするまで百年余り廃城となった。

 

斎藤道三の台頭と対照的なのは、美濃守護土岐氏の衰亡である。応仁の乱中、 守護土岐成頼は一一年間京都に出陣した。

 

この間、成頼に代わって美濃を経営したのが守護代斎勝妙権であった。

 

文明九年(一四七七)、成頼は足利義視を伴っ て帰国し、革手城に養った。

 

文武の士妙椿が同十一年に七十歳で没すると、いわゆる文明美濃の乱といわれる船田合戦が起こった。

 

成頼の嫡男は政房であるが、成頼は後室との間にもうけた元頼を後嗣にしようとし、斎藤妙椿のもとで 実力のあった石丸利光にこれをはかった。

 

利光は守護代の地位を妙椿の子利国から奪う好機とみた。

 

守護の継嗣争いに家臣の権力争いがからんで、加納城の 利国、船田城の利光が指呼の間で戦った。

 

明応四年(一四九五)、加納城に近い正法寺の戦いで利光が敗れると、成頼はやむなく家督を政房に譲り、城田寺城(岐阜市城田寺)に隠退した。

 

政房・利国は翌五年五月、城田寺城に籠もる利光を攻囲し自刃させた。

 

この冬、利国は子の利親と共に近江へ出陣し、六角氏と戦っ て共に討死した。

 

利親の子利良が幼少で跡を継ぐと、長井長弘らがこれを補佐 した。

 

その頃、長弘の勧めで、鷺山城にいた政房の次子頼芸に近づいたのが松波庄五郎で、長井家の家老西村氏に後嗣が絶えると、彼は西村家の名跡を継い で西村勘九郎と改名した。

 

一方、守護土岐政房の跡を継ぎ革手城にいたのは頼芸の兄政頼で、大永七年(一五二七)、勘九郎は頼芸を助けて革手城を襲い、政 頼は越前朝倉氏のもとに逃 れた。

 

当時の守護代は斎藤利良であったが、実権は勘九郎の手中にあった。勘九郎は享禄三年(一五三〇)は長井長弘を殺し、天文三年 (一五三四)、長井一族の長老利隆が没すると長井新九郎規秀と名のった。

 

同七年、 守護代斎藤利良が病没して 斎藤家が絶えてしまうと、 新九郎規秀は斎藤家に入り、 斎藤左近大夫利政と改め、 稲葉山上の古城を修築して、 居城とした。

 

兄政頼を放逐 した土岐頼芸は守護になると鷺山城から革手城に移り、ついで長良の枝広邸に住していたが、同三年、長良川の洪水にあって、大桑城 (山県郡)に転じた。

 

同十年、斎藤利政は大桑城を攻略し、頼芸は織田信秀を頼っ て尾張に逃れた。

 

美濃一国を領した利政は、信長と和睦の後、大桑城に戻った頼芸を再び甲斐武田信玄のもとに追い、名実ともに美濃の主となった。

 

同二十 一年のことといわれる。利政は秀竜とも名のり、晩年入道して 道三と称した。

 

道三は稲葉山城を子義竜に譲り鷺山城に隠退した。

 

義竜は土岐頼芸とその妾三芳野の子であるという。

 

別に道三には可児郡明智城城主明智光継の女との間 に竜元・竜之という子があり、これを義竜に代えようとした。

 

弘治二年(一五五六)、両者は長良川で戦い、義竜の大軍に道三は打ち負け、崇福寺付近で討死した。

 

道三が死の前日に認めた遺言には、美濃を女婿織田信長に譲り、 子は道三出自の京都妙覚寺に入るべきことが記されていたと伝わる。

 

永禄四年(一五六一)に義竜が病死し、子竜興が十四歳で城主になったのち、信長は徳川家康と清洲同盟を結んで背後の憂いを取り去り、もっぱら美濃攻略をはかって西濃から兵を進めたが、竜興はよく防いだので戦術を変え、 稲葉山城を攻めようとした。

 

信長は居城を清洲より小牧山に移し、犬山城を降し、木曾川北岸の鵜沼城・猿製城などを落とした。

 

西美濃では、木下藤吉郎 が信長の命によって墨俣に櫓を築いて橋頭堡とした。

 

美濃国内では竜興の失政に対して、西美濃三人衆といわれる曾根城城主稲葉一鉄(良通)・大垣城城主氏家ト全(直元)・北族城城主安藤守就の内応があり、同十年八月、竜興はついに信長の攻撃を支えきれず、城から脱出した。

 

稲葉山城に入った信長は、禅僧沢彦にはかり、井の口を改め岐阜の名を用いた。

 

周の文王が岐山より興って天下を平定した故事によるものである。

 

これより天 正四年(一五七六)二月、安土城に移るまでの一〇年間、信長は天下布武の意気 を燃やし、将軍義昭を奉じて近畿を経略し、東は武田氏と拮抗した。

 

また、焼 き払った井の口(岐阜)の町を軍事・政治・経済・文化の中心地とすべく建設していった。

 

材木屋・呉服屋・漁屋・升屋・茶屋・空穂屋などの職業別居住区分、医師の招聘、市内三か所の楽市の設置などがそれである。

 

信長の本拠は岐阜で あるが、天下を統一するためには、さらに京に近づく必要がある。

 

安土に移っ た信長の跡には、長男信忠が入った。しかし同十年六月、本能寺の変に遭い、 二条御所で明智勢と戦ったのち自刃した。

 

信忠の没後、清洲会議の結果、信長 の三男信孝が城主となったが、柴田勝家らと結び、兄信雄や秀吉と争った末、 同十一年四月、尾張知多郡野間で秀吉の使喉をうけた信雄の命で自刃を強いら れた。

 

秀吉は池田信輝を封じ城には信輝の長男元助が入城した。

 

しかし、同十 四月、長久手の戦で長男元助と共に討死し、次男輝政が父と兄の ぎ六年間在城した。

 

この間に城郭の修造・改築が行なわれた。

 

天正十八年、小田原の陣後、輝政が三河吉田へ転じると、翌十九年、 養子、小吉秀勝が城主となったが、文禄元年(一五九二)、文禄の役に出陣し、 朝鮮で病没した。

 

続いて織田信忠の子で岐阜中納言といわれる秀信が入封した。

 

しかし、秀信は関ケ原の役で西軍に与し、慶長五年(一六〇〇)八月、池田輝政・福島正則・浅野幸長ら東軍先鋒の猛攻にあって開城、降伏した。

 

翌六年、奥平信昌が加納に封ぜられると、徳川家康の臣本多忠勝の手によって天守閣以下石 垣にいたる施設が加納に移築され、岐阜城は廃城となった。

 

天守台は城郭中最高地部にあり、明治四十二年までは原形をとどめていたが、 天守閣復興のため改修され、当時の石垣は天守台入り口の両側に原形を残すだけである。

 

古図によれば、東西一二m余、南北一一m弱となっている。天守台東方の一段低い所が東西三六m、南北一一m弱の米蔵跡である。

 

天守台の約五 〇m南方に台所ともいわれる東西九m、南北三六mの太鼓櫓跡がある。

 

この東 二の丸で、南面に高さ二mほどの石垣がある。

 

二の丸門から下る道が古道といわれる。

 

上ヶ格子門は天守台の南二〇〇mにあり、三の丸門にあたる。この石垣は崩れている。

 

西方に南北一八m、東西一〇mの平地がある。七間櫓跡で、この地点はもっとも展望のひらけた所である。

 

城主居館の地は千畳敷といわれ、西南山麓の槻谷の入り口にあり、現在は岐阜公園の一部となっている。

 

信長はここに四階建ての居館を築いた。永禄十二年に訪れた宣教師ルイス=フロイスは『日本史』の中で、「非常に高い山の麓に (居館が)あり、山頂に主城を設け、居館の周囲に驚くべき大きさの石壁を巡らす。

 

一階には二〇の部屋があり、そのうち何部屋かは内部を純金で縁取ってい る。

 

二階は婦人部屋、三階には茶室があり、三、四階からは全市を展望できる」 など、豪華絢爛たる居館の姿を書き記した。

 

また、この文から、信長の居館が 四層であったこともわかる。

 

城の歴史

建仁元年(1201):二階堂行政が現在の地に砦築いたのが始まりとされる。

 

15世紀中頃:美濃守護代である斉藤利永が城を修復して居城とする。

 

大永5年(1525):齋藤家の家臣である長井長弘、新左衛門尉が謀反をおこして稲葉山城を攻撃して支配下にする。

 

天文2年(1533):長井新左衛門尉が没するとその子どもである斉藤道三が跡を継ぎ城主となる。

 

天文16年(1547):織田信秀が稲葉山城を攻めるも大敗する。

 

天文23年(1554):斉藤道三が家督を嫡子の斉藤義龍に譲る。

 

弘治2年(1556):斉藤義龍が道三に叛き討ち取る。

 

永禄4年(1561):斉藤義龍が急死し子どもの龍興が家督を継ぎ城主となる。同年織田信長が稲葉山城を攻めるも敗退。

 

永禄7年(1564):竹中半兵衛が僅かな手勢で稲葉山城を攻めて落城させる。

 

永禄10年(1567):織田信長が稲葉山城に侵攻し落城させる、同年小牧山城から稲葉山城に居城を移し岐阜城に改名する。

 

天正4年(1576):織田信長は嫡子である信忠を岐阜城の城主とする。

 

天正10年(1582):本能寺の変にて信長、信忠が討たれると最終的に信孝が岐阜城の城主となる。

 

天正11年(1583):信孝は兄である信雄により岐阜城を包囲される、この後信孝は自刃する。池田恒興が城主となる。

 

天正12年(1584):小牧・長久手の戦いで池田恒興が討死する。

 

天正13年(1585):恒興の次男である輝政が城主となる。

 

天正19年(1591):豊臣秀勝が城主となる。

 

文禄元年(1592):豊臣秀勝が没して織田信秀が城主となる。

 

慶長5年(1600):関ケ原の戦いで西軍についたため、福島正則や池田輝政らに攻められて落城する。

 

慶長6年(1601):徳川家康が廃城を決める。

 

城主家系図

城主石高

織田信秀時代:13万石。

 

所感

●さすが斉藤道三、織田信長の居城、この天守からみたら天下布武もしたくなるかもしれない。

 

●石垣は各所にあるが、斉藤時代なのか織田時代なのか不明。

 

●山麓に信長の居館跡がある。

 

関連URL

【愛知県】小牧山城【小牧市堀の内】

岐阜城の前の居城である小牧山城。

 

参考URL

岐阜城(ウッキペディア)

城郭放浪記(美濃岐阜城)

武家家伝(二階堂氏)

武家家伝(美濃斉藤氏)

斉藤氏(ウッキペディア)

 

参考文献

『岐阜県の地名』

『日本城郭大系』9

公開日2021/10/30

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