城データ

城名:掛川城

別名:雲霧城、松尾城

標高:56m

比高:30m

築城年:永正9年(1512)朝比奈泰能によって築かれる。

主な城主:朝比奈氏、山内氏、太田氏、石川氏

場所:静岡県掛川市城下

北緯:東経:34.775187/138.013893

掛川城はここ

 

 

攻城記

丘に天守閣があり凛々しい。

白壁に青空が良く似合う。

天守閣内。

天守閣最上部から臨む。

石落とし。

堀跡。

二の丸御殿。

当時の様子が良く分かる。

黒土塁。

open-hinataより【掛川城】

 

余湖図【掛川城】

当時のイメージ図(余湖図コレクションより引用)

 

城の概要

掛川城

掛川城は、掛川古城から続く南西五〇〇mの丘陵の先端に位置する。

 

南側は、 掛川市を東西に縦断して流れる逆川の崖上に沿った標高六〇m、比高三〇mの独立丘陵で、この地域における中世の築城としては珍しく近世城郭的な平山城 である。

 

創築年代は、明応~文亀(一四九二~一五〇四)頃とも永正二年(一五二二) あるいは同九年とさまざま伝わるが、大永二年(一五二二)五月、掛川城に滞在し 連歌師柴屋軒宗長が記した『宗長手記』によればこの頃普請の最中で、「外城のめぐり七百間、堀をさらへ土居を築き」などと録し、さらに「これは四、五年前 のことなり、本城に井戸あり朝比奈泰熙この山を見たて井戸を掘るに水かたし」永正八年に没した泰熙が築城に携わっていたことを記していることから、城は長い歳月を経て完成したとみるべきであろう。

 

また当時の城域は、二の丸や三の丸を含む東西二五〇m、南北三〇〇mの枢軸部だけであったと思われる。

 

朝比奈氏は、古くから駿河国朝比奈郷(志太郡岡部町)の地頭として ・戦国期には今川氏の重臣であった。

 

文明初年、一族のうち泰熙 の押さえとして掛川に築城することを今川義忠より命ぜられ掛川へ移って以 来、本系を離れ遠江朝比奈氏として泰熙・泰能・泰朝と三代百年を数えるが、  弘治三年(一五五七)、泰能が没すると泰朝が跡を継ぎ、のち今川氏真に従って 掛川城を退去して以後、この家系の末裔は詳らかでない。

 

永禄十一年(一五六八)十二月、武田信玄によって駿府を追われた今川氏真を迎えた掛川城主朝比奈泰朝は、駿府からの落武者三千を収容し、また、三河か 通江をめざす優勢な徳川勢を相手に半年の間よく防戦したが、奥平美作守らの奔走で講和がなり、同十二年五月、掛川城を開城し、氏真に従って 港より伊豆の戸倉城に移り、のち小田原城に入ったという。

 

開城後、掛川城には石川家成・康通父子が守将として入城したが、天正十八 年(一五九〇)七月、小田原城が落城して北条氏が没落すると、徳川家康は関東六か国の新領地を与えられて移封となり、石川康通も上総国成(鳴)戸で家康か ら二万石を給され、海道の要衝駿・遠両国には、豊臣秀吉摩下の諸大名が配置 された。

 

掛川城には、近江長浜から山内一豊が五万石(のち六万石)の封邑をもって入 城したが、この山内氏の入封が戦国期の山城形態であった掛川城を、交通・経 済などを考慮し、平山城を生かした近世城郭へ修築する転機となった。

 

長浜・安土などの築城に参加して得た縄張りの知識や、各地 活用し、領国経営に伴う大規模な改築と城下町の整備を行ったが、 それには、関東の徳川氏に対する豊臣方の街道における防衛的配慮も充分に含まれていた。

 

すなわち城の東方一先に水堀をうがち土塁を固め、低湿地や丘陵を巧みにとりいれて二重・三重の防衛線を巡らし、随所に郭内の寺院を移して下 合には砦に利用するなど、関東に対する備えは万全である。

 

この改修に伴い、 丘陵続きの掛川古城の一角を断ち切って空堀とし、三の丸の地下に隧道をうがって北池の水を仁藤門の外側より塩買淵に落とし込む水堀とした。

 

一豊はさらに掛川の中央を東西に貫流する逆川を境に、商工業による経済発展の基盤となる城下町を川の南側に整備する一方、北側には武家屋敷や小都部屋などを適宜に配し、武家と町屋の区割を規制した。

 

そして、城と城下町を含 む外周には、総囲みの水堀を巡らす遠大な構想であった。

 

慶長五年(一六〇〇)、関ヶ原の合戦で、かつての仮想敵国、徳川氏(東軍)に 属した山内氏は、その功で同年十一月に一躍土佐一国二十万余石に加増転封となり、掛川城修築計画は未完成に終わった。

 

こうして東方の外郭は、関東に対 する防衛が不要となったため、以後、入封した城主も継続して改修することも なく、今なお各所にその遺構の残片を見ることができる。

 

『日本城郭大系』9より引用。

 

城の歴史

文明年間(1469~87):今川忠義の命令にて朝比奈泰煕が築城するとの伝承がある。

 

永禄11年(1568):今川氏真が武田信玄と徳川家康に攻められて駿府城を放棄すると、掛川城に逃げ延びる、徳川軍は掛川城を包囲するが朝比奈泰朝はよく守備する、結局は開城する。

 

永禄12年(1569):朝比奈泰朝の開城により徳川家臣の石川家成が入城する。

 

天正18年(1590):徳川家康が関東入部に伴い、豊臣秀吉の家臣である山内一豊が入部。

 

慶長6年(1591):松平定勝が3万石で入部。

 

 

城主家系図

 

城主石高

山内一豊時代:5万1千石で入部(のちに5万9千石)

松平定勝時代:3万石。

 

 

所感

●白亜の城が丘の上に建っており凛々しい。

 

●城自体は平成6年に再建されている(木造建築で)

 

●城は様々な角度で鑑賞できて、正面もいいが、麓の側面からや二の丸御殿からも別の顔が見える。

 

関連URL

 

参考URL

掛川城(ウッキペディア)

城郭放浪記(遠江掛川城)

武家家伝(朝比奈氏)

朝比奈氏(ウッキペディア)

open-hinata

 

参考文献

『静岡県の地名』

『日本城郭大系』9

公開日2021/11/03

ホームに戻る

攻城一覧

 

Copyright © 山城攻城記 All Rights Reserved.