城データ

城名:浜松城

標高:36m

比高:20m

築城年:元亀元年(1570)徳川家康によって築かれる。

城主:徳川家康

場所:静岡県浜松市中区元城町(浜松城公園内)

北緯:東経:34.711759/137.724879

浜松城はここ

 

 

攻城記

 

立派な城である。

石落とし。

家康像。

往時のジオラマ。

 

天守閣から。

城内にある井戸。

城を降りていった時に石垣の崩落っぽいものを確認。

 

open-hinataより【浜松城】

 

 

余湖図【浜松城】

 

当時のイメージ図(余湖図コレクションより引用)

 

城の概要

浜松城

三方ヶ原台地の東南端に位置し、台地が天竜川の沖積平野に移る部分に城は 築かれている。

 

この付近は、天竜川の沖積平野が河岸段丘に彎入した所が鹿谷・池川谷などの谷となってくい込んでおり、それが天然の堀となり、立地条件に めぐまれた地である。

 

曲輪の配置も、そうした立地条件を巧みに利用し、台地の端という自然地形 をとりこんだ形で、西から東へ傾斜するにしたがい、天守曲輪・本丸・二の丸 と配され、さらに天守曲輪、本丸の南面・西面をとりかこむ形で西端城曲輪・ 清水曲輪があり、さらに東北端においては、中世の引馬城をも浜松城の一郭として用い、また、西の西端には作左曲輪が配されている。

 

これらの曲輪の境には堀や土塁を設けたり、または高低をつけたさまざまな手法がとられ、全体として要害堅固な城郭となっている。

 

大手が城の二の丸・三の丸の南方に設けられており、城下町は城の南に開けていたが、大手口・榎門口・瓦門口・郵・目口・明光寺口・名残口・高町口などの諸門によって厳重に区分されていた。

 

なお、城の北の方は険しい断崖によって区切られており、 その深い谷を作左谷と呼ぶ。

 

深い谷の一部分は、今日、 市営プールとして利用され ている。

 

ところで、浜松城の前身 は引(曳)馬城である。中世 の引馬城をとりこんだ形で、 新たな構想のもとに徳川家 康によって築かれたのが、 この浜松城ということになる。

 

家康は、遠江をほぼ手 中に収めた永禄十二年(一 五六九)の段階で、遠江へ の本拠地の移動を考え、初め遠江の国府のあった見付 を選び、実際に築城工事を 開始したが、それをとりやめ、翌元亀元年、引馬城に入った。

 

家康の引馬城入城はその年の六月といわれているが(『当代記』)、一説に正月 とするものもあって定かではない。

 

いずれにせよ、元亀元年という年は、家康 にとって実にあわただしい年で、織田信長に従って四月には越前朝倉攻めを行 なっており、浅井長政の離叛によって、信長自身ほうほうの態で窮地を脱するや、すかさず六月には近江の姉川に浅井・朝倉連合軍を破ることになるのであ るが、家康は常にこの軍事行動に従軍していたので、浜松城の築城工事に専念 できたわけではなかった。

 

しかし、甲斐の武田信玄の脅威を考えると、一刻も早く堅城を築かねばならない立場に置かれていたことも事実で、姉川の戦から帰陣後は工事を急がせ、 九月には正式に城に入ったという。

 

おそらく、九月に入城した城は、かつての 引馬城ではなく、その西方の高台、すなわち近世の浜松城の本丸のほうであっ たろう。

 

そして、引馬城を浜松城と改称した。ちなみに元亀元年の時の築城工事の奉行は、『寛永諸家系図伝』によると倉橋宗三郎、『寛政重修諸家譜』によると惣奉行木原吉次としている。

 

『浜松御在城記』元亀元年の項に、「一、年ノ春、御普請出来ニツキテ岡崎 ヲバ、御長男竹千代様江譲リ、浜松ノ御城江御移リ被為成候」とあり、それま で家康の本城であった岡崎城を嫡子信康に譲り、新しく遠江・三河二か国経営の拠点として、浜松城が重要視されてきたのである。

 

しかし、浜松城が堅城であるといっても、元亀元年の工事だけで完成したわけではなく、その後、何年にもわたって修築・増築工事がくり返されたわけであり、まず、天正六年(一五七八)二月、かなり大がかりな工事が行なわれ、つい で翌七年の二月と十月、さらに同九年九月にも修築工事がほどこされている。

 

家康はその後天正十四年まで十四年間を浜松城の城主として過ごすが、その 間に武田勝頼滅亡によ り武田氏の遺領を奪い、 駿河·遠江・三河・甲心 斐・信濃五か国の大大 名に成長し、浜松では、 領国全体の中心として 適当でないとの判断か ら駿府に城を移し、同 十四年から十八年まで の期間は、家康の臣、 菅沼定政が浜松城を預 かっていた。

 

天正十八年、豊臣秀 吉の小田原征伐によって、家康は後北条氏の 旧領のうち関東八か国 を与えられ、江戸城に 入ることになり、駿・ 遠・三・甲・信五か国には、豊臣系大名が多く移封されてきた。

 

浜松城には近江佐和山城から堀尾吉晴が十二万石で入り、吉晴・忠氏父子二代にわたって居城したが、関ケ原の戦 後、慶長五年(一六〇〇)、出雲松江に転封となり、代わって美濃金山から松平忠頼が五万石で入った。

 

以来、浜松城には中小規模の五、六万石の譜代大名が封 ぜられることになるが、家康ゆかりの城ということで、岡崎城と並び「出世城」 として名高く、浜松城へ入ることが幕閣への登龍門として意識された。

 

事実、 浜松城在城中に老中となった大名はかなりの数を数える。

 

遺構としては、天守曲輪の部分が比較的旧態を残しており、昭和三十三年四 1三層三階の鉄筋コンクリート造りの復興天守閣が竣工し、郷土博物として利用されている。

 

城址一帯は浜松城公園として、市立動物園・市立美術館などができ、市民のスポーツ・文化・娯楽のセンターとなっており、また、旧二 の丸の部分には市役所が建ち、行政の中心ともなっている。

 

『日本城郭大系』9より引用。

 

 

城の歴史

元亀元年(1570):築城開始。

 

元亀3年(1573):武田信玄が侵攻するも浜松城を無視して通り過ぎる、家康は浜松城から打って出て戦を挑むが反撃にあう。

 

天正10年(1582):このころまでには拡張、改修も終わる。

 

天正14年(1586):浜松城から駿府城に居城を移す。

 

天正18年(1590):豊臣秀吉家臣の堀尾吉晴が入城する。

 

慶長5年(1600):関ケ原の戦いで堀尾吉晴が出雲に移封する、浜松城は代々譜代大名が入る。

 

城主石高

堀尾吉晴時代:12万石。

 

所感

●地元に愛された城だと思う、長期計画で改修されており期待が出来る。

 

●石垣は古風な積み方で戦国時代の荒々しさがあってよい。

 

●復元天守もあり雰囲気も出ている、天守の中に井戸があるのに驚いた。

 

関連URL

【静岡県】駿府城【静岡市葵区城内町】

【愛知県】岡崎城【岡崎市康生町】

徳川家康縁の城

 

参考URL

浜松城公園

浜松城(ウッキペディア)

城郭放浪記(遠江浜松城)

open-hinata

 

参考文献

『静岡県の地名』

『日本城郭大系』9

公開日2021/11/03

ホームに戻る

攻城一覧

 

Copyright © 山城攻城記 All Rights Reserved.