城データ
城名:田原城
別名:巴江城
標高:16m
比高:8m
築城年:文明12年(1480)戸田宗光によって築かれたと伝わる。
主な城主:戸田氏、三宅氏(江戸時代以降)
場所:愛知県田原市田原町巴江(巴江公園内)
北緯:東経:34.673815/137.269697
攻城記
堀が一部分ある。
城に入っていく。
城門。
城門を進むと往時の石垣がある。
二ノ丸櫓。
田原城跡
田原城は文明12年頃、戸田宗光が渥美半島統一の拠点とて築城し、以来、70年にわたって栄えたが今川義元によって攻略され落城した。
その、城主は交代し、慶長6年から戸田尊次が1万石で、寛文4年にに日で三宅康勝が入城し、三宅氏の居城として栄え明治維新を迎えた。
田原城は、かつて海が城の周囲に入り込み入江を形成していたため、その状況が巴文に似ていることから、巴江城とも呼ばれている。
中世に築かれた城を利用したため地形、規模などの制約を受けているが、藤田曲輪・本丸・二ノ丸・三ノ丸・出曲輪及び付属する腰曲輪の周囲を、堀によって区画するなど随所に工夫が見られ、さらに二ノ丸櫓、桜門周辺は石垣、水堀を配するなどさまざまな工夫を凝らし、小さいながらも近世の城郭にふさわしい構成を取り入れている。
また空堀、土塁など随所に中世城館の遺構を残す貴重な城である。
平成17年3月 田原市教育委員会
巴江神社。
神社奥側(藤田曲輪付近か)
石垣の跡か。
周辺部。
塀も復元されて雰囲気がある。
巴江神社境内。
周辺を散策。
井戸跡あり。
古い時代の石積み。
城域だと思うが詳細は不明。
最初の城門まで戻る。
最初の水堀。
余湖図【田原城】
当時のイメージ図(余湖図コレクションより引用)
城の概要
田原城
田原城は、渥美半島の中心地として文明十二年、戸田宗光によって構築された。
戸田家は碧海郡上野荘(豊田市上郷町大字上野)に住していたが、その出自ついては、三条家の庶流で内大臣の後裔といい、あるいは大納言公治の子孫 ともいう。
この宗光の渥美郡大津(豊橋市老津町)入りや田原移住がいつの頃かは異説があり、『常光寺年代記』によれば「文明七年乙未七月廿二日入郡全久(宗光)」と 記されている。
また『浪上戸田家伝』には、「玉栄公ハ文明五年西大津へ来リ」とあって、宗光以前に、すでにその父である玉栄(三郎実光)が文明五年、大津に居住したとある。
さらに、明応年間(一四九二~一五〇一)に田原に移ったとか、あるいは明応二年(一四九三)十二月に宗光が上野荘より田原に移ったという説もあるが、『藩翰譜』や『田原城主考』によれば、明応説は疑問視されてい 田原に移住した宗光は、文明十三年、この地の守護代一色七郎の没後、田原 を拠点として半島の統一を達成すべく、延徳年間(一四八九-九二)、奥郡(渥美 郡)の支配を開始した。
そして、この奥郡の支配によって、松津(大津)以西、伊良湖岬の先端まで宗光の勢力下に入り、以前から領有していた碧海郡上野・知 多郡河和から富貴まで、三河湾は戸田氏の制海権下に置かれるようになった。
このように宗光の勢力が強大となったのは、今川義忠の庇護によるところが大きかったが、義忠は文明十一年遠江塩買坂の合戦で討死し、ここに相続をめ ぐる内紛から、今川氏は国内の騒乱にその力をそそがなければならないとみた 宗光は、田原城を子憲光に譲り、自身は吉田の二連不に築城して移った。
そして明応八年、遠江と三河との国境、今川氏の臣多米又三郎の守る舟形山城 (豊橋市雲谷町上ノ山)を攻略した。しかし、今川方は掛川城城代朝比奈左衛門 尉泰以に命じてこれを奪い返した(『宗長手記』)。
田原城築城以来、渥美・知多郡一帯を領有し、二連木を押さえ、ようやく乱世 に名を現わした宗光も、その雄図途上に舟形山城の合戦で討死した。
ただ宗光の没した年代には諸説があり、『寛永諸家系図伝』ならびに『寛政重修諸家譜」、 さらに『浪上戸田家伝』は永正五年(一五〇八)としている。
光没後の田原城は憲光が継いだが、強大な今川氏に抗することの 再び幕下に加わった。
しかし、隣接する吉田城の牧野古白と容れず、永正三年、今川氏親と共に吉田城を攻略した。
永正六年、二連木城にいた憲光の子政光は田原城に移り、応仁・文明の争乱期の宗光・憲光の時代から三代政光に至って東三河の雄戸田氏となったのであ る。
この後、四代宗光(康光)、五代堯光の時、今川家に人質として送られる松平 竹千代(徳川家康)を強奪し、織田家へ送ってしまうという事件を起こし、この ために今川氏に攻められ、田原城は落ち、戸田氏は没落の非運をたどった。
すなわち天文十六年(一五四七)九月五日、今川氏と戸田勢との合戦はその日のうちに田原城が落ち、宗光・堯光父子をはじめ一族は相果て、先祖戸田弾正 左衛門宗光が文明年間に築城以来五代七十年間にわたって、渥美半鳥から知多 郡に及ぶ所領も、竹千代強奪事件を因として消えたのである。
それでも一族のうち、三代政光の三男光忠(充光の叔父)は逃れ、のちに家康に仕えて大津に封ぜられ、まもなく伊豆下田に転じ、関ケ原の合戦後に再び先祖の地田原に入り、子孫は各地を転じて宇都宮藩主として明治を迎えた。
さらに戸田吉光(政光の弟)も逃れて、浪ノ上戸田氏の祖となった。
ところで、二連木城主戸田宣光(政光の孫)は今川方に属していたためにこの難をまぬがれ、二 連木松平(戸田)の祖となり、各地を転じて、松本藩主として明治に至った。
以来十八年間、渥美全域は今川氏の領有するところとなり、田原城には城代 として天野安芸守影賞・朝比奈肥後守・岡部石見守らが入ったが、それも永禄八年(一五六五)五月上旬、徳川家康の臣、本多豊後守広孝の攻略によって、今 川氏の勢力も田原から去り、東三河は徳川氏の勢力下になった。
この後田原城は、本多広孝・嫡子康重が二六年間在城したが、天正十八年(一 五九〇)八月、家康の関東移封に従って上野国白井で二万石を頷した。
そして、吉田城主となった池田輝政の臣、伊木清兵衛忠次が城代となって治めたが、慶長五年(一六〇〇)、関ヶ原の合戦の論功によって池田氏は播磨姫路に移り、伊豆下田から戸田尊次が封ぜられた。
これから戸田氏が二代六十年間続き、 ついで寬文四年(一六六四)、三宅能登守康勝が三河の挙母(豊田市)から入封し、 以後は明治まで十二代、田原は三宅氏一万二千石の城下町であった。
この田原三宅家中から、幕末の先覚者渡辺華山をうんだことはよく知られている。
田原城の遺構としては本丸・二の丸・三の丸が残り、土塁・堀・石垣も見ら れるが、特に本丸・二の丸境の堀は、三河湾から入り込んだ浸蝕谷をそのまま 利用した自然堀の形態をなしており、桜御門脇の水堀に比して、空堀形式をと っていたことは堀の形態からもうかがわれ、近世に存在した三河地方の城郭には珍しい例といえる。
戸田氏築城の頃のこの城は、蔵王山麓の台地を利用して、三河湾から入り込 んだ谷を堀とした城であったろうが、当時の田原城と近世の田原城とは、曲輪 配置や面積において、さしたる相違はなかったと思われる。
現在見られる二の 丸・三の丸の外堀に関しては、近世初期に形成されたものと考察されるが、本 丸土塁、二の丸・三の丸内堀の形状からは中世城郭の遺構とみることができる。
寬文年間(一六六一~七三)の記録は総坪数四千八百六十六坪(一万六〇〇〇 が)とし、藤田丸を出曲輪としているものの、全体は連郭式で形成されていた。
城の歴史
文明12年(1480):戸田宗光により築城される。
天文16年(1547):城主が戸田康光の時、今川氏へ徳川家康が人質になる際に裏切り織田氏に送る、この為今川氏の攻撃を受けて落城(諸説あり)
天文19年(1550):この時に落城する説もある。
永禄3年(1560):桶狭間の戦い以後に徳川家康が今川氏から独立する、この時に本多広孝が城主となる。
天正18年(1590):徳川家康が関東に移封すると、池田輝政がこの地域を支配して、家臣の伊木忠忠が城主となる。
江戸時代には田原藩となり、戸田氏が城主となり、更に寛文4年(1664)に三宅氏が12,000石で入部する。
城主家系図
城主石高
戸田氏時代:10,000石
三宅氏時代:12,000石
所感
●戦国時代は戸田氏が所領していたが、今川氏に攻められて滅亡するも、庶流が江戸時代に田原藩を立藩して1万石となる。
●1万石の城にしては規模が大きいと思われる。
●往時は東の部分が海に面していたと思われる。
関連URL
吉田城の牧野氏とは小競り合いをしていた。
参考URL
戸田氏(ウッキペディア)
武家家伝(戸田氏)
参考文献
『愛知県の地名』
『日本城郭大系』9
公開日2021/10/30