城データ

城名:篠山城

別名:桐ケ城

標高:217m

比高:10m

築城年:慶長14年(1609)

城主:形原松平家、青山氏

場所:兵庫県丹波篠山市北新町

北緯:東経:35.073121/135.217589

篠山城はここ

 

攻城記

まずは遠巻きから石垣を眺める。

僅か半年でこの石垣を積んだのが凄い。

城内前の看板。

立派な石垣が圧巻な迫力を醸し出す。

桝形。

入る前からこの迫力。

裏側。

井戸。

二の丸部分に到着。

往時は屋敷があった。

かなり広い。

大書院。

大書院跡について

篠山城大書院は二の丸跡に所在した猿主居館の中で、とくに歴代潘主による公式行事に使用された場所で、正規の書院造の建物となっていました。

 

この建物は慶長十四年(一六〇九)の徳川幕府の天下普話 による篠山城築城時に、京都二条城の御殿を参考にして建て られたと伝えられ、大きさは東西二十八メートル、南北二十 六メートルの篠山城最大の規模となっていました。

 

内部には 上段の間、孔雀の間などの多くの部屋があり、障壁画で飾ら れていたと考えられます。

 

廃城後もこれだけ残されましたが、昭和十九年の失火によ り失われました。

 

その後、焼失から五六年たった平成十二年 三月大書院の威容が大書院跡地に甦りました。

 

篠山市教育委員会

敷地内に神社がある。

篠山城本丸跡

ここは、篠山城の最後の響となる本丸跡です。

 

築城当初は現在の二の丸が本丸、現在の本丸は南東の隔に、天守台が造られたことから、特に殿守丸と呼ばれていました。

 

天守台の大きさは東西約十九メートル、南北約二〇メ― トル、約三八〇㎡の広さがあります。

 

天守台石垣は本丸内 側からの高さ、約四メートル、外側の南と東側犬走りからの高さ約十七メートルで、篠山城で最も高い石垣です。

 

天守閣は築城の時に建築が中止され、代わって天守台南 東隅に二間四方(四メートル四方)の一重の開橋が建てられました。

 

本丸の周囲は天守台と南西隅・北西隅・北東隅の三ヶ所 に二重の隅櫓を建て、間を多開格でつないで内部を囲んで いました。

 

二の丸には大書院をはじめとする御殿が建てら れたのに対して、本丸には御殿等の建物は無かったようで 本丸内の北側中央にある一の井戸は岩盤を掘り抜いたもので、深さ約十六メートル(内水深八メートル)で、掘るのに二年もかかったと伝えられています。

 

篠山市教育委員会

 

 

 

碑。

 

 

天守台付近の石垣。

周辺部。

前方には八上城が見える。

再び二の丸へ戻る。

 

周辺部。

井戸、かなり大きい。

大書院側面。

多くの大名が普請したので目印の刻印がある石も多い。

帰る途中の石垣。

 

 

位置関係

余湖図【篠山城】

当時のイメージ図(余湖図コレクションより引用)

 

ひなたGIS【篠山城】

 

【正保絵図】丹波国篠山城所絵図

 

 

城の概要

天下普請による築城

篠山城は今から三百七十余年前の慶長十四年に丹波国多紀郡日置庄黒間、現在の行政上の呼び方でいえば、兵庫県多紀郡篠山町に築かれた。

 

その頃、徳川家康は、関ヶ原の合戦に大勝して、すでに天下の実権を握っていたが、なお大坂には豊臣氏一党が残存しており、まず大坂城攻略の包開態勢を整えるため、彦根・津・伊賀上野・膨所・伏見・姫路などの諸城を修業強化 した。

 

その拠点の一つに篠山を選び、ここに城を築くことにより、関ヶ原の合 戦で徳川方に与し、その論功として加増し西国に移封した、かつての豊臣氏恩顧の大名たちに、睨みをきかせることも併せ考えたのである。

 

もともとこの地方は、京都から山陰、山陽そして大坂への各方面に通じる要衝の地で、中世末期、織田信長の天下統一に抗し、その先鋒である明智光秀のために悲惨な落城をした波多野秀治一族の八上城の配下にあった。

 

この地方に、家康が目をつけたのは当然のことであった。

 

その頃のかつて豊臣秀吉の五奉行の一人であった前田玄以で、関ヶ原の合戦の を通じたため領地を安堵されたが、慶長七年に病没し、その子茂勝が跡を継いでいた。

 

茂勝は、狂乱の行ないが多く、慶長十三年に所領を没収され、その跡へ常陸 (茨城県)の笠間城から松平(松井)康重が五万石を与えられて入城した。

 

康重は家康の実子といわれ、徳川一門として信望があった人物で、八上へ移封後まもなく、新しく城を築く候補地を探すよう命令を受けた。

 

早速、康重は、八上城 の西方に広がる盆地の中央に散在している王地山・笹山・飛ノ山の三つの小山を選び、折から尾張(愛知県)の清洲城に滞在中の家康に報告すると、「東に王地山があるのは、武運長久のしるしである」と、築城の地は笹山の小山に即決 した。

 

そこで家康は、普請総奉行に女婿である姫路城主池田輝政を、繩張奉行には築城の名手といわれ、信望が厚い津城主藤堂高虎を命じ、譜代の松平重勝に、玉虫勝茂・石川八左衛門・内藤金左衛門をそれぞれ普請奉行として工事を監督させ、山陽・山陰・南海の一五か国、二〇諸侯に夫役させた。その助役大名は次のとおりである。

 

播磨 姫路 池田輝政  五二〇、〇〇〇石

備前 岡山 池田忠継  三一五、〇〇〇石

美作 津山 森忠政   一八六、〇〇〇石

備中 庭瀬 戸川送安  三九、〇〇〇石

備中 足守 木下勝俊  二五、〇〇〇石

備後安芸 広島 福島正則  四九八、〇〇〇石

周防長門 萩 毛利輝元   三六九、〇〇〇石

丹波 福知山 有馬豊氏   八〇、〇〇〇石

丹波 八上  松平康重   五〇、〇〇〇石

丹波 柏原  織田信包   三六、〇〇〇石

丹波 山家  谷衛友    一六、〇〇〇石

丹波 綾部  別所吉治   一五、〇〇〇石

丹後 宮津  京極高知    一二三、〇〇〇石

紀伊 和歌山 浅野幸長    三七六、〇〇〇石

阿波 德島  蜂須賀至鎮   一八六、〇〇〇石

讃岐 高松  生駒 一正      一七三、〇〇〇石

土佐 高知  山内 康豊   二〇二、〇〇〇石

伊予 松山  加藤嘉明    一九一、六〇〇石

伊予 宇和島 富田 信高   一二〇、〇〇〇石

伊予 今治  藤堂高吉    二〇〇、〇〇〇石

計 三、五四二、六〇〇石

 

 

以上のように、およそ四百万石に相当する大名が労役したわけで、総奉行の池田輝政は当然のことであるが、康重が外様大名に混じって工事に参加していることは、篠山の築城がいかに大がかりな、いわゆる天下普請であったかを物語っている。

 

工事は、三月九日に鍬初めを行ない、十月五日に奉行衆や大名衆が帰国、十二 月二十一日、総人足帰国と古記録にあるので、着工以来二百余日で、およその城郭ができあがったことになる。

 

繩張りの実際は、高虎の家臣渡辺勘兵衛了が担当し、「百人に一本宛印を持たせ御普請割配す。総勢八万人」ともいわれているように、莫大な労力と財力を投入した突貫工事であった。

 

特に、壮大な石垣 の石材は、篠山の周辺の山から運んでいるが、主産地は篠山から西南方約八㎞の当野村の山麓で、今も巨石が割られたまま残っており、石垣積みのため近江(滋賀県)の穴太から筑後・三河、駿河という石垣師が来て、指導している。

 

城の工事が終わると、幕命によって八上城主松平(松井)康重が初代城主とし て入城した。

 

その後、一年以上なお工事が続き、城下町の建設には、完成まで に四〇年を費やしているが、ここに中世以来の八上城は廃城となり、篠山の新城が丹波最大の城郭として出現したのである。

 

城の歴史

 

和暦(西暦)事象
慶長14年(1609年)八上城より(松井)松平康重が入城。
元和5(1619年)(松井)松平康重は和泉国岸和田に転封。
(藤井)松平信吉が上野国高崎より五万石で入封。
慶安2(1649年)(藤井)松平忠国は播磨国明石へ転封。
(形原)松平康信が摂津国高槻より五万石で入封。
寛延元(1748年)(形原)松平信岑は丹波国亀山へ転封。
青山忠朝が丹波国亀山より五万石で入封。
文政10(1827年)青山忠裕のとき六万石に加増、以後代々続き明治に至る。

城郭放浪記(丹波篠山城)より引用。

 

歴代城主

第1代 松平(松井)康重

第2代 松平(藤井)信吉

第3代 松平(藤井)忠国

第4代 松平(形原)康信

第5代 松平(形原)典信

第6代 松平(形原)信利

第7代 松平(形原)信庸

第8代 松平(形原)信岑

第9代 青山 忠朝

第10代 青山 忠高

第11代 青山 忠講

第12代 青山 忠裕

第13代 青山 忠良

第14代 青山 忠敏

 

所感

●このレベルの城郭が僅か数か月で完成するとは驚き。

 

●時代はまだ混沌としている時に平山城を築城したのはよほどの自信があったのか?

 

●桜の季節に行くと幻想的な雰囲気になると思われる。

 

関連URL

 

参考URL

篠山城大書院の公式ページ – withsasayama

丹波篠山市(史跡篠山城跡整備基本計画)

篠山城(ウッキペディア)

城郭放浪記(丹波篠山城)

西国の山城(篠山城)

 

参考文献

『兵庫県の地名』

『日本城郭大系』12

公開日2021/10/01

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