城データ
城名:清州城
別名:清須城
標高:8m
比高:5m
築城年:応永12年(1405):斯波義重によって築城される。
城主:斯波氏、織田氏、豊臣氏、福島氏、尾張徳川家
場所:愛知県清須市清洲字古城
北緯:東経:35.217669/136.841860
攻城記
朱塗りの橋が鮮やか。
城門を潜り抜ける。
清洲城と歴代城主
清洲城は当初、尾張守護所の下津城の別郭として築城されました。
その後、下津城が戦乱で消失したため文明八年 (一四七六)に守護所が清洲城へ移されたとされ ています。
戦国の頃、尾張国は守護代の織田氏が実権を 握っていました。
尾張の上四郡を支配していた 岩倉の織田氏と下四郡を支配した清洲の織田氏 が争うなかで、清洲織田家当主の信友を那古野城主織田信長公は攻め滅ぼして清洲城に入城し、 尾張の拠点としました。
永禄三年(一五六〇)の桶狭間の戦いで今川義元の軍勢を打ち破ったのを手始めに、美濃・ 近江等の近隣の国々を攻略して着々と天下統一 へと歩みを進めていきました。
しかし、天正一〇年(一五八二)の本能寺の 変によりその志は夢半ばで断たれてしまいました。
このように天下統一の礎を築いた織田信長公は 郷土の英雄として人々の尊敬を集めてぃます。
清洲城は、「関東の巨鎮」と称えられ、尾張はもとより東国の中心地として発展を遂げました。
信長の長男の信忠、二男の信雄以降は名だたる武将が城主となりました。
徳川義直の代の慶長一五年(一六一〇)徳川家康は、清洲城の廃都と名古屋遷都を命じ、 三年後には、「清須越し」が完了しました。
清洲城は廃城となり、城下町から、美濃路の宿場町へとをかえていきました。
清州城歴代城主
一、織田信長
二、織田信忠
三、織田信雄
四、豊臣秀次
五、福島正則
六、松平忠吉
七、徳川義直
清州町がが町制百周年を迎えた平成元年四月、清州のふれあい郷土館として清州城天守閣を再建しました。
平成十七年七月に、西枇杷島町、清洲町、 が合併し清須市となった後も、清須市のシンボルとして人々に親しまれています。
復元された信長塀。
本物の信長塀
熱田神宮にある本物の信長塀
復元天守閣。
実際にはイメージ天守閣。
復元されているが往時の姿っぽくてイメージがつきやすい。
模擬天守からみた風景。
近隣の公園(おそらくここも城域だと考えられる)
城の概要
清須城跡 清洲町清洲
清須は尾張平野の中心に位置し、古東海道(鎌倉街道)と 伊勢街道との分岐点にあたる要衝の地であった。
清須城 が名古屋へ移転後、その跡地が開墾されたことや、後世 国鉄東海道本線によって城跡が分断されたことなどから、 遺構は明瞭ではない。
文政年間(八一八~三〇)の「清洲志」には「東西三十二間、南北三十間、丘上に松四株・ 榎一株を存するのみ」と記されている。
弘化年間(一八四 四~四八)建立の「右大臣織田信長公古城址」および文久二年(一八六二)の「清須城墟碑」と彫られた石碑がある。
室町幕府は守護所を初め旧国衙近くの下津(現稲沢市)に置いたが、文明一〇年(一四七八)頃には、守護代の織田敏定によって清須に移された。
これが清須城の始まりである。
ただし応永二五年(一四一八)に清須を訪れた禅僧正徹 は、ここの館に数ヵ月滞在した。
だれの館か不詳であるがそれを清須城とみる考えもある。
弘治元年(一五五五)織田信長は守護斯波義統・守護代織田信友を殺し、清須城を本拠とした。
城主は信長の没後、次男信雄、さらに豊臣秀次・福島正則へ、そして関ヶ原の合戦後、徳川家康 は第四子松平忠吉を入れ、その没後、第九子の義利(のち義直)が甲府から清須に転封となった。
明治三一年(一八九八)清洲城趾保存会ができて、清洲公 園が造られた。
『愛知県の地名』より引用。
城の歴史
応永12年(1405):斯波義重により築城。
文明10年(1478):このころから清州織田氏(織田大和家)の居城となる。
弘治元年(1555):織田信長が大改修を行い居城とする。
永禄3年(1560):桶狭間の戦いの時この城で軍議を行う。
永禄5年(1562):徳川家康とこの城で清州同盟を行う。
永禄6年(1563):織田信長が居城を小牧山城に移す。
天正10年(1582):織田信長が本能寺の変にて討たれると、清州城にて清須会議が開かれて次男の織田信雄が相続する。
天正14年(1586):織田信雄により大規模な普請が行われる。
文禄4年(1595):福島正則の居城となる。
慶長5年(1600):関ケ原の戦いにて東軍の後方拠点となる、戦後に徳川家康の四男である松平忠吉が城主となる。
慶長12年(1607):徳川家康の九男である徳川義直が入城する。
慶長14年(1609):徳川家康により、清須から名古屋への移転が決まる。
慶長15年(1610):清須城から名古屋城に本拠が移る、この時に名古屋城御深井丸西北隅櫓は清須城天守の資材を転用して作られたため「清須櫓」とも呼ばれる
「清須櫓」
慶長18年(1613):名古屋城が完成して廃城となる。
城主家系図
所感
●現在の城は想像で復元した城である。
●城域も新幹線の線路の南部分も含んだ広い範囲となる。
●桶狭間の戦い、清州同盟、清州会議など歴史の表舞台に幾度となくなった城。
関連URL
信長が清州城の次に居城とした小牧山城
参考URL
参考文献
『愛知県の地名』
『日本城郭大系』9
公開日2021/10/30