城データ

城名:岡﨑城

別名:龍城

標高:25m

比高:5m

築城年:康正年間(1452〜57)西郷稠頼によって築かれたとの伝承あり。

城主:西郷氏、松平氏(徳川氏)、田中吉政、本多氏、水野氏、松平氏、本多氏

場所:愛知県岡崎市康生町

北緯:東経:34.956246/137.159105

岡﨑城はここ

 

 

攻城記

 

岡﨑公園前駅からすぐに行ける場所。

最初の石街。

堀の中。

堀の中から石垣を見てみる。

本丸に上がる。

天守閣がお出迎え。

天守閣から。

遠くまで見通せる。

復元模型。

別のところへ移動する。

関ケ原以前の石の積み方。

こちらの石垣は関ケ原以降か。

堀底からの風景。

 

徳川家康産湯の井戸。

いろんな場所に堀がめぐらされている。

二の丸御殿の井戸。

城門。

徳川家康がお出迎え。

このような堀が好き。

岡﨑城は木々があり全体が撮りにくい。

攻めて側だとしたら戦意喪失するレべル。

 

余湖図【岡崎城】

当時のイメージ図(余湖図コレクションより引用)

 

城の概要

岡崎城 岡崎市康生町

矢作川と乙川(菅生川)の合流点に近い乙川北岸台地上の西南先端に位置する平山城。

 

竜城・竜ヶ城とも称され、 西郷弾正左衛門頼嗣が菅生郷の竜頭山に康正元年(一四五 五)に築城したのが始まりと伝えられる。

 

しかし、頼嗣は これに先立って乙川南岸の明大寺の地に城を築いており (三河聡視録)、松平清康が岡崎に入る頃まではこれが本城 であって、竜頭山に築かれた城は初め砦のようなもので あったろう。

 

「宗長手記」に「矢矧の渡りして妙大寺(中 略)今は岡崎といふ。平次郎三郎の家城なり」とある。

 

次郎三郎は清康のことであり、明大寺の地に清康の城が あったとみられる。

 

宗長の時代、東海道は明大寺を通っ ていた。近世の城地に岡崎城が本格的に移るのは、清康 の勢力が強大化した享禄三年(一五三〇)頃と思われる。

 

岡崎城は清康・広忠・家康の本城となったが、近世の 城の原型は家康が元亀元年(一五七〇)に浜松(現静岡県)へ移 るまでにほぼ形成されたとみられる。

 

天正一八年(一五九 〇)に家康が関東へ移封された後、田中吉政が入部して大規模な築城工事を行った。

 

吉政は文禄元年(一五九二)に後 世田中堀と称される東・西・北の総延長四・七キロにわた やながわ る総堀をつくり、内側に土居を築造した。

 

筑後柳河に移 封された吉政に代わって、慶長六年(六〇一)に入封した 本多氏は、康重の代元和三年(一六一七)に天守閣を建て、 城西の沼地を埋めて白山曲輪をつくった。

 

次の忠利の正保元年(一六四四)には、総曲輪の整備を行って八ヵ所の木 戸をつくった(岡崎古記、竜城中岡崎分間記)。

 

翌二年に入封した水野忠善は、総曲輪に四木戸増やし、籠田町と松葉町に絵門をつくった。

 

これ以降は新しく城郭の拡張は行われず、明治維新に至った。

 

『愛知県の地名』より引用

 

岡﨑城

矢作川と菅生川の合流する地点、龍頭山と称する丘陵上に初めて城を構えた のは、三河守護職仁木氏の守護代、西郷弾正左衛門稠頼で、享徳元年から康正元年の頃という。

 

その後、西郷氏は大永初年の頃まで代々居城したが、西三河加茂郡松平郷 いった松平氏の力が増大し、特に清康の進出の前に西郷氏は松平氏の 入った。

 

そして清康はこの城を拠点として東三河から尾張方面にまでぞの勢力拡大し、のちに家康による国内平定までは、松平氏の一時代を築いたのである。

 

その清康が天文四年(一五三五)、尾張守山に出陣中、家臣安部弥七郎に誤っ て殺され(『三河物語』『三河後風土記』)てからは、織田・今川両氏の勢力に挟まれて、松平氏の苦闘の時代が始まり、この時代に広忠の子として、同十一年に生まれたのが、のちの徳川家康(幼名竹千代)である。

 

その誕生の地は、本丸の 北に位置する二の丸で、のちに御誕生曲輪と称された、現岡崎公園の小動物園付近という。

 

また産湯の水を汲んだ井戸も今に水をたたえている。

 

永禄三年(一五六〇)、今川義元が尾張桶狭間で敗死すると、長く今川氏の隷 下にあった家康は岡崎に拠って、織田信長との盟約のもとに三河平定をなしたのである。

 

しかし、元亀元年(一五七〇)に家康が遠江浜松に移ってからは、嫡 子信康が岡崎城を守ったが、天正七年(一五七九)、遠江二俣城において信康が自対したのちは、石川数正・本多重次などを城代とした。

 

そして、天正十八年、家康の関東移封後には、豊臣の家臣田中吉政が入封し、 大規模な城下町づくりを行ない、総曲輪の岡崎の町をつくりあげた。

 

田中氏の跡は徳川譜代の本多氏・水野氏・松平氏、ついで再び本多氏が城主となり明治を迎えたのである。

 

西郷氏によって構えられた頃の地形は、北東から西に延びた台地が、矢作川 とその支流によって浸蝕され、西と南は川や沼地で、東と北にその浸蝕谷を自 然堀として、いくつかの塁砦を構え、そこに居館を併せ配した程度のものであ ったろう。

 

今も遺構を見るものとしては、本丸。二の丸等があるが、この城の特色は本丸の北にある内堀(清海堀と称する空堀)で、それは近世城郭として明治まで存続した城でありながら、谷を人工的に加えた程度のもので、内堀としてこれほど短く、幅の狭い堀は全国でも珍しく、ここだけは中世城郭の遺構をよく残しているといえる。

 

岡崎城の天守閣は、元和三年(一六一七)、本多康紀の代に三層三階地下式の 複合式天守として構築され、江戸期は東海道の要所として、名古屋城天守と共に旅人たちを驚嘆させたであろう。

 

その天守閣も明治六年(一八七二)、廃城令 によって取り壊されたが、昭和三十四年に復興され、岡崎市のシンボルとして 旧地に建っている。

 

『日本城郭大系』9より引用。

 

城の歴史

1452-1455年(享德元一康元年):西郷弾正左衛門頼嗣(稠賴)、電頭山に築城。

 

1531-32年(享禄4-5年):安城松平4代清康、竜頭山の岡崎城へ移る。

 

1542年(天文11年)12月26日:徳川家康、岡崎城内で誕生する。

 

1590-1600年(天正18一慶長5年):岡崎城主田中吉政、城と城下町を大改造、天守閣・惣構えの堀を築く。

 

1617年(元和3年):櫓をもつ複合天守閣に再建。

 

1871年(明治4年):廃藩置県、額田成立し旧城内に県庁設置。城址は県有地。

 

1873-74年(明治6-7年):城郭取り壊し、天守閣解体、礎石のみ残る。武家屋敷払い下げ。

 

1875年(明治8年):旧本丸・二の丸、城址公園となる。

 

1959年(昭和34年):岡崎城天守復興。

 

1962年(昭和37年):岡崎城跡約96.700mを岡崎市史跡に指定。

 

1982年(昭和57年):旧二の丸跡に、三河武士のやかた家康館開館。

 

看板より。

 

城主石高

田中吉政時代:10万石。

本多康重時代:5万石。

水野忠善時代:5万石。

以降も5万石を踏襲する。

 

所感

●堀がしっかりしているのが特徴で下も行くことが可能。

 

●この城を任されるのは譜代の忠臣の家となっている。

 

●石垣も古い時代のものがあり勉強になる。

 

関連URL

【愛知県】名古屋城【名古屋市中区本丸】

後世に築城した名古屋城。

 

参考URL

岡﨑城(ウッキペディア)

城郭放浪記(三河岡崎城)

三河西郷氏(ウッキペディア)

 

参考文献

『愛知県の地名』

『日本城郭大系』9

公開日2021/10/30

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