城データ
城名:熊本城
別名:銀杏城、千葉城、隈本城
標高:35m
比高:20m
築城年:応仁・文明年間(1467〜1486)出田秀信によって茶臼山に千葉城として築かれたと伝わる。
城主:出田氏、鹿子木氏、城氏、佐々成政、加藤氏、細川氏
場所:熊本県熊本市中央区本丸
北緯:東経:32.805788/130.704191
攻城記
震災前に撮ったものになります。
素晴らしい天守閣。
五郎の首掛石。
ベストアングル。
井戸跡。
迫力が違う。
城内突入。
古写真。
鉄壁の防禦になっている。
不開門
お気に入りの1枚。
有名な石垣。
石垣の築かれた時代が違う。
宇土櫓。
ベストアングル。
宇土櫓の有名なアングル。
奉行丸。
広大な近世城郭であった。
余湖図【熊本城】
当時のイメージ図(余湖図コレクションより引用)
城の概要
熊本城跡 熊本市本丸・二の丸・宮内・千葉城町・古京 町・古城町
熊本市の中央茶臼山の丘陵地帯に、加藤清正によって 築城された近世の平城。
茶臼山は熊本平野に北から突出する京町台地の末端を占め、東高西低の地形をなす。
本 丸を丘陵東部の最高地点(標高四九メートル)に置き、二ノ 丸・三ノ丸と西下して、藤崎台下段(標高三〇メートル)の最 さき 西端を終点とする。
「熊本市飽託郡誌」に東西約一三町、 南北一八町とある。
東部に孤立して千葉城跡(標高二一メー トル)、西南部に隈本古城跡がある。
城の東・南側の断崖に沿って坪井川が流れ、内堀の役目を果す。
さらに町人 町・武家屋敷を挟み、その東南を白川がめぐり、外堀とて代用される。
西は井芹川により花岡山一帯と隔てる。坪井川は築城以前は、現在の厩橋付近から下通一丁目、新市街付近を通って白川に注いでいたが、清正により流路を茶臼山南麓沿いに変更され、西南の北岡付近で井芹 川と合流するようになった。
北の京町台地との間は地峡 で掘切られ、一筋の隘路のみでつながる。
西南は深堀が 巡らされる。白川・坪井川・井芹川の三川を巧みにあしらった地形利用の典型的な近世の平城。
地勢上西方に弱 点があるので、本丸を東方に構え、正面である大手を西 方に設け、城郭全体の主軸をおよそ東西の方向に置く。
熊本城の起りは、応仁~文明(一四六七~八七)の頃出田秀信が近世の熊本城の東部に築城した千葉城に始まる。
その後、大永-享禄年間(一五ニ一~三二)鹿子木親員(寂 心)が出田氏に代わって入城したが、規模が小さいため、 茶臼山の西南麓に新たに隈本古城を築いたという。
天文 年間(一五三二~五五)中頃、豊後の大友宗麟により古城落城、代わって城親房が入城、孫の親政の時豊臣秀吉の軍に降った。
秀吉は初め佐々成政に肥後一国を与え、成政 はこの城に入城したが、天正一六年(一五八八)成政は国人 一揆の責任を問われて失脚、その後は隈本城番として浅 野長政、さらに加藤清正が入城する。
清正は文禄・慶長 の役の際も、隈本古城を根拠地としており、慶長一二年 (一六〇七)前後まで在城する。
しかし同五年の関ヶ原の戦 の後、ほぼ肥後一国を支配する五二万石(慶長九年五四万石)の大名になったため、その居城にふさわしい熊本新城が築造されることになったという。
『福岡県の地名』を一部引用。
北から南に延びている京町台と呼ばれる洪積台地南端の丘陵が、熊本城地の茶臼山である。
京町台はもとの熊本府の北端出町で標高四五mあり、 ここから漸次低くなり、東西の幅も狭くなって、旧加藤神社社地の錦山で三五mその南が熊本城北端の新堀御門に接し、ここで二五m、ここから南に高くなって 茶日山丘陵となり、その最高所の天守閣前では五〇mである。
市街地は城の直下、市役所付近が一二mの高さであるから、城は市街地と三八mの比高があり、これに天守閣の高さ、地上四三mを加えると、市街地からみれば実に八一mの高さとなり、東・南方からは、丘陵上に巍然としてそびえる熊本城の雄姿 をみることができる。
茶臼山の稜線は南に延び、新堀御門から南端の洗馬橋際 まで一二四〇m、主稜から東に千葉城、西に藤崎台・殿山の支秘を分かち、東 西一五三〇mで、城の周囲は現状で五・三㎞、面積約八〇㏊である。
熊本城前史
熊本城の城地茶臼山の先住者は藤崎八幡宮であるが、それ以前、この地には寺1院があったようである。
いま監物台樹木園と呼ばれている北の郭や二の丸美術館の地からは、整地中に布目瓦が出土したし、城の北方六〇〇mの熊本気象台付近は、「大道寺跡」と呼ばれる平安初期の古瓦の出土地であるので 茶臼山にも山岳密教寺院があ ったのであろう。
藤崎八幡宮は、平将門追討のため承平五年(九三五)に建立された五か所の八幡宮の一つと伝えられ、いまの県営野球場が社地であり、七本の天然記念物の楠は当時の名残である。
神社は西南の役で焼失したので、現在の井川淵に移された。
熊本城の発祥について は、石浦氏の築城伝説がある。熊本市南高江町光 顕寺所蔵の『大栄寺縁 起』(天正九年書写)に、 石浦河内守藤原経国が久安六年(一一五〇)に肥後守として下向し、高家(現在の高江)城を築き、その子経成は仁安三年(一一六八)に茶臼山に築城して移った、と記されてい る。
この伝承は、そのまま『肥後国陣迹略志』や『肥後国誌』に収載されている。
この茶臼山が熊本城地の茶臼山であるなら、この石浦経成の築城が熊本城の発祥となるわけである。
しかし、石浦(藤原)経国や経成なる国司は見当たらない。
久寿元年(一一五四)、権官であった「某経光」が類似の名ではあるが、これとて石浦氏であるとの確証はない。
また、城地の茶臼山も各地にある地名であるから、この時、熊本城地の茶臼山に築城したと確言することもできない。
要するに、石浦氏の築城説は伝承だけにとどめなければならない。
鎌倉時代の茶臼山は、諸豪たちから包囲されていた。すなわち、北からは、 いまの大牟田に本拠を持った三池氏が、井芹川流域を南下して、いまの上熊本付近まで進出していたし、その同族鹿子木氏は北部町方面に居城していた。
南には豊後大友氏から出た詫摩氏が、本山城を根拠地として坪井川筋を支配下に 収めていたし、東の白川端には立田城に拠った立田氏があった。
西の島崎には 島崎氏や宇佐氏があり、島崎の北、いまの本妙寺付近には、建治二年(一二七 六)の注進状で知られた井芹秀重が小勢力ながら居館を構えていた。
このう ち、立田・島崎・井芹の三氏は菊池氏の支族といわれている。詫摩氏は南北朝 時代武家方で働き、やがて守護大名にまで発展した。
宇佐氏と立田氏は、戦国 時代まで小さいながら勢力を保っていた。
このような包囲態勢下にあったとはいえ、熊本平野を眼下に見下ろす茶臼山 の丘陵が、戦略上見逃されるはずはない。南北朝末期の永和四年(天授四、 一三七八)、「詫際原の戦」に先立って、九州探題今川了俊は、藤崎台や同八幡 宮神域にまで布陣して、神社側を困らせたことが同神社の文書に記されている。
出田氏の隈本城―千葉城―「熊本」は古くは「隈本」と書いたのを、 のちの加藤清正が字を改めたものであるから、本稿でもその時点までは隈本を用いる。
その「隈本」が文献のうえに初めて現われるのは、永和三年(天授 三、一三七七)の『来島文書』に「隈本城攻之御陣」とみえるもので、隈本城 は南朝方(菊池氏であろう)の城であったが、その所在地は明らかでない。
隈本城の城主と所在地および年代が明らかなのは、出田氏からである。出田氏は菊池氏の一族で、筑 後守出田三郎秀信が八十 町を領して隈本城を築き、文明十七年(一四八 五)、御船で戦死したこと を『出田系図』は記している。
一方、『藤崎八幡 宮文書』には、出田山城 守が藤崎宮造営に尽力し、 同四年には、惣政所の職 にあったことを記してい る。
この山城守と系図の 筑後守秀信とが同一人で あるか否かは明証がない が、出田氏の隈本進出が 応仁か文明初年であった ことは認めてよい。
出田氏の隈本城は現在 業城で、現在のNHK熊本中央放送局の場所が本丸跡である。
この地域は最高点二二m、周囲約九〇〇mで、茶臼山全体からみると東に分岐した一支稜 にすぎないが、茶臼山本体との間は大きな浸蝕谷で、玉川と呼ばれた清流が流れていた。
また人工的にも開析され、ここを通る旧国道三号線は、いまは剣道大窪線と呼ばれて三号線のバイパスとなっている。
千葉城は東部がさらに突出して、藪の内となっており、坪井川は京町台の東麓を流れて千葉城の裾を洗っ ていた。
そして、この城の北から東にかけては、絶壁に近い急崖で、天然の要 害をなしていた。
城の西と南はやや緩傾斜で、本丸のすぐ西下が二の丸跡、いまの県立図書館の場所である。
さらに南下の現在の専売公社の敷地が三の丸跡 とみられている。
この丘陵の南斜面からは、昭和三十六年、NHK会館建設の 時、多数の横穴墳が発見されたが破壊された。
また抜け穴が、いま北側にある 社会保険事務所裏に通じていたのが発見された。
鹿子木氏の隈本城―古城―出田氏に代わって限本城に入ったのが鹿子木親員(入道寂心)である。
豊後大友氏の祖能直の弟師員の曾孫員時は、三池荘を得て三池氏を称し、その弟貞教は鹿子木荘の地頭職を受けて鹿子木氏と称し、その九代の孫親員は補原城(北部町)を根拠地として五百六十町を領してい たという。
親員は千葉城に入ってはみたが、八十町の領主の城に五百六十町の大領主の身ではいかにも狭小であったから、茶白山の西南部に突出した丘陵末は築城して移った。
この城は、次の加藤清正の茶白山新城に対して、 呼ばれる。親員の入城の時期については異説が多いが、永正初年頃ではあるまいか。
この城域の東を流れる坪井川は、次の加藤時代に掘り替えたものであるが、 北の茶日山本体との間には深い浸蝕谷があって古城を分離し、城の西から南にかけては広い堀があった。
城の周囲は約一三〇〇m、城域はいま県立第一高等学校の校地となっており、同窓会館(清香会)の場所が本丸跡で標高二五m、体 育館の場所が二の丸跡で標高一八m、本館の場所が三の丸で標高一五皿であり、 同校正門が城の大手口で、熊本中央郵便局の地は、外郭となっていた。
親員は天文五年(一五三六)に入道して寂心と号したが、和歌に秀で、藤崎八 帰宮に残る書状などからみても、深い教養のあとがしのばれる。
一方、藤崎八幡宮の造営や、川尻大慈寺の本尊造立にも力を尽くし、政治的には宇土の名和氏氏と八代の相良氏との間を調停するなど、肥後の国衆の中にあって重きをなしていた。
寂心は同十八年に死去し、孫の鑑員(または曾孫鑑国)が菊池義武 (大友宗麟の叔父重治)を擁立したので、翌十九年、宗麟から討伐された。
義武は島原へ逃げ、鹿子木氏は城山上代城へ去って、古城には寂心の女婿城親冬氏が入った。城氏は菊池氏の支族である。
親冬の子親賢は隈本城下繁栄の植木市を開かせたと伝えられ、いまも毎年春の植木市の前には、その墓前祭が 行なわれる。
親賢の子久基の在城中、天正十五年(一五八七)に豊臣秀吉の島津征伐が行なわれ、秀吉は往復とも古城に立ち寄っている。
加藤清正の古城豊臣秀吉の九州平定後、城氏は柳川へ移され、佐々成政が 肥後全土を与えられて古城に入った。しかし、その検地の強行などによる失政 は、たちまち諸豪族たちの反抗(国衆一接)となり、成政が討伐に出たあとの限本城は一揆軍の攻撃を受けた。成政は柳川の立花宗茂の応援で一揆を鎮定はしたが、責任を問われて、翌十六年、尼崎で自刃を命ぜられ、肥後は加藤清正と 小西行長に両分して与えられた。
三千四百七十石の秀吉魔下の一旗本にすぎなかった加藤清正が、一躍二十五石の大名となったので、加藤家では家臣も武具も不足であった。
秀吉は所領を没収していた讃岐半国の前領主尾藤知宣の武具を与え、佐々氏の旧臣三〇〇 人を召し抱えさせた。
隈本城に入った清正は、その意図に従って、古城の改造 に着手した。
しかし、その後の清正は、天草征伐・名護屋城築造・朝鮮出征など外にあることが多く、慶長五年(一六〇〇)、関ヶ原の戦で刑死した小西領を 合わせて、五十二万石の領主となるまでの十二年間のうち、肥後在国はわずかに四か年にすぎなかった。
そのため、古城改造に当たった家臣に対しては、陣中からもしばしば書状を送って指図を与えている。
清正の古城改造は、中世城 から近世城郭への改造であったので、大がかりなものであったに相違ないが、肥後の一円領主となった同五年以後の茶臼山築城時の工事と区別しがをその構造は次で述べることにする。
なお、古城には多数の横穴墳があったが、 ほとんど破壊され、いま六基だけが残っていることを付記しておきたい。 後出(二六〇ページ)の千葉城・古城は近世の熊本城の繩張りに含まれる。
『日本城郭大系』17より一部引用。
城の歴史
応仁年間(1467~69):出田秀信が茶臼山東端丘陵に築城(今の千葉城)
明応5年(1496):鹿子木寂心が茶臼山西南麓に築城(今の古城)
文亀3年(1503):菊池武運が肥前高来より隈本城に入ったが又高来へ去る。
天文21年(1552):大友宗麟が鹿子木氏へ代えて、城親冬を城主とする。
天正15年(1587):佐々成政が城主となる。
天正16年(1588):佐々成政切腹、肥後は加藤清正と小西行長に分与される。
慶長4年(1599):天守閣の瓦製造が始まる。
慶長5年(1600):加藤清正が関ケ原の戦い後に小西行長の所領も合わせる。
慶長6年(1601):築城開始。
慶長12年(1607):築城完成。
城主石高
加藤時代、細川時代は肥後で52万石。
所感
●この精巧な造り、広大な敷地、高石垣、どれをとっても日本一。
●宇土櫓が現存している建物で一見の価値あり。
●石垣の角度が2種類あり、後世の改修で変わったものだと考えられる。
関連URL
参考URL
参考文献
『福岡県の地名』
『日本城郭大系』18
公開日2021/10/13