城データ

城名:朝倉城

標高:150m

比高:100m

築城年:鎌倉時代

城主:朝倉氏

場所:兵庫県養父市八鹿町朝倉

北緯:東経:35.399473/134.772353

朝倉城はここ

 

 

攻城記

 

越前の大名朝倉氏発祥の地
町指定文化財 朝倉城跡 昭和43年7月31日指定
町指定文化財 宝篋印塔 昭和43年7月31日指定

八鹿町朝倉は福井市の一乗谷で栄えた大名、朝倉氏の発祥の地である。

 

朝倉氏は孝徳天皇の皇子、表米(ひょうまい)親王を始まりとする。

 

平安時代末期に地名を苗字として朝倉氏が興り、朝倉高清を初代とした。

 

その中から八木氏、宿南氏、奈佐氏などの多くの武将を輩出した。


朝倉城は、集落の南西の丘陵にあり、東西130m、南北110mの規模を持つ。

 

室町期に作られた城郭を堀切や竪堀で戦国期に改修して守りを固めている。

 
宝篋印塔はお経をおさめた供養塔である。高さは230cmあり、塔身の月輪内には金剛界四仏の梵字を刻む。

 

室町期の15世紀ごろの造立と推定されている

 

トゲがなく味香りが優れている朝倉山椒の原産地である。

 

出石藩から将軍徳川秀忠公に献上されたほか、朝倉義景公にも献上された。

 

朝倉という集落名が、様々な由緒を育みながら歴史と伝統の重みを現代に伝えている。


 平成13年5月
 朝倉城跡保存会・八鹿町教育委員会

 

15世紀頃の宝篋印塔。

 

攻城スタート。

本丸までは近い。

 

本丸。

本丸からの街並み。

反対側にも曲輪が続く。

土塁。

曲輪跡。

周辺部。

 

朝倉天満宮

 

 

余湖図【朝倉城】

当時のイメージ図(余湖図コレクションより引用)

 

ひなたGIS【朝倉城】

 

城の概要

朝倉城跡 八鹿町朝倉大平山

八木川右岸、朝倉集落南西の標高一五二・一メートルの 丘酸上に位置し、集落との比高は約九〇メートル、城域 ひろたに は東西約一三〇メートル・南北約一一〇メートル。

 

広谷市場(現養父町)から峠を越えて現在の八鹿町域に入る旧山 陰道を扼する交通の要衝に位置する。

 

山頂に位置する主 郭は東西約四〇メートル・南北約三五メートルのほぼ四 角形状の削平地で、主郭の中心部には高さ約一・五メート ルの櫓台状の曲輪(七X七メートル)があり、西側には低い 土塁をめぐらせている。

 

主郭の背後(南側)には帯状の曲輪と箱堀(幅七メートル、深さ四ー五メートル)を配置し、主郭 から北東に延びる尾根には二段の小曲輪(一部に石積みがみられる)と堀切・竪堀を設けている。

 

また主郭から北西に 延びる尾根には三段の小曲輪と堀切・竪掘を構築してい る。

 

小曲輪群の存在から南北朝期に起源をもつと思われ るが、大規模な主郭、主郭背後の箱堀、二つの堀切・豎 堀などは戦国末期の改修をうかがわせる。

 

天保九年(一八三八)高柳村大庄屋福田宗右衛門が幕府巡 見使に提出した覚書(福田家文書)には朝倉村に「城跡三カ 所御座候」と記されている。

 

この城跡三ヵ所とは当城および現在確認されている朝倉向山城・比丘尼城に比定される。

 

朝倉向山城は現在は八鹿地内であるが、もとは朝倉村分であった字上ノ山に所在し、別名上ノ山城ともいう。

 

円山川と八木川に囲まれた標高二一三・四メートルの山頂、江原(現日高町)・養父市場(現養父町)・八木谷の三方を見通すことのできる要衝にあり、比高は約一七八メートル。

 

主郭は東西約二一メートル・南北約一四メートルで、北西隅は高さ一メートルの櫓台状の曲輪となっている。

 

主郭の南側と北側みは幅二メートルの帯曲輪をめぐらせ、主郭から北西に延びる尾根は一〇×一五メートルの曲輪と二段の小曲輪、二条の堀切・堅堀で防御している。

 

主郭の西側には二段の曲輪(一一メー一メートル、一二 メーニメートル)を構築し、その西側は深さ六メートルの段 差を設け、さらに四段の曲輪を連郭式に配置し、主郭南 西側は尾根の鞍部に堀切・竪堀を構築して防御を固めている。

 

縄張りから判断すると、南北朝期から室町期の城を戦国期に堀切や竪堀で改修したことがうかがえる。

 

比丘尼城は朝倉集落から広谷に峠越えするルートに突き出した尾根に所在する。

 

主郭は径一〇メートルほどの 削平地で、その下にさらに二段の曲輪を配置、地元では 姫の館跡と言伝えている。

 

天正五年(一五七七)一〇月羽柴長秀(秀長)の第一次但馬進攻のとき朝倉の城主は「朝倉大炊」であり、大炊は秀長軍に抗戦して敗退、代わって 青木勘兵衛が在番している(武功夜話)。

 

「朝倉の城」が朝倉城と朝倉向山城のどちらなのか不明。

 

朝倉氏は承久の乱で朝倉八郎信高が後鳥羽上皇方に与 同して(承久記)、その所領を失ったと考えられ、弘安八年 (一二八五)の但馬太田文では朝倉庄の地頭は朝倉氏ではなく、長井因幡入道実円(頼重)となっている。

 

しかし建治 元年(一二七五)京都六条若宮八幡宮の再建にあたり幕府が その費用を全国の御家人に割当てたとき、但馬国では八 木三郎(孝吉)跡に五貫、朝倉八郎(信高)跡に六貫が割当てられており「造六条八幡新宮用途支配注文」国立歴史民俗博物館蔵)、朝倉氏は鎌倉時代初期には八木氏よりも勢力が強 く、但馬国における最有力の御家人であったことが知られる。

 

朝倉庄地頭職は応永八年(一四〇一)田公弾正入道正恵から山城醍醐寺三宝院に移されている(同年一一月九日 「管領奉書」醍闘寺文書)。

 

ところで応仁・文明の乱のとき西 軍に与同して上京した山名氏の家臣団のなかに朝倉豊後守の名がみえ(但馬一覧集)、その時期は不明であるが、朝倉氏は本貫地である朝含主に復帰したとも考えられる。

 

なお越前朝倉氏は但馬朝倉氏の分流として周知されている。

 

朝倉広景は長井氏を媒介として斯波氏と通じ、建武新政期の途中から越前国守護に任じられた斯波高経に従って越前に入国、貞治五年(一三六六広景の子高景が足利義詮から一乗谷(現福井市)のある宇坂庄を含む越前北部七庄郷地頭職を宛行われている。

 

『兵庫県の地名より』引用。

 

朝倉城

朝倉城は八鹿町朝倉にある。

 

ところで、天保九年(一八三八)に高柳村の大庄 屋福田宗右衛門が巡見使に差し出した覚書に、朝倉村には「城跡三カ所御座 候」と記されている。

 

一つは朝倉集落のすぐ西側、比高一〇〇mばかりの小山の頂上にある。

 

地元の人はここを朝倉城とよび、八鹿町では越前に赴いた朝倉氏の故地とみて、八鹿町文化財に指定している。

 

そこから四〇〇m余り離れた 朝倉集落の奥にも一か所ある。

 

この低い丘に立ってみると、朝倉城跡はすぐ目 の前にみえる。頂上部分に径一〇皿ばかりのほぼ円形の平地が造られ、これか ら一五~一六皿隔たったゆるい傾斜地の下にさらに二段の平地が造られている。

 

古老は、ここを「比丘尼城」とよび、朝倉城主の姫の居館跡といい伝えられて いる。

 

さらに朝倉集落から二皿余り北東方向へ離れた山の上にも城跡のあることが最近になってつきとめられ、頂上付近の字名にちなんで「上の山城」と名 づけられた。

 

この発見によって江戸時代覚書の個所の確認は完成したわけであ る。

 

 

上の山城は八鹿町役場東側真正面にそびえる比高一八〇m余りの山の上にあり、円山川・八木川、それぞれの上流を見通すことができる。

 

山陰道はこの山の麓を回って八木谷・因幡へと向かっている。

 

そして近道をとる場合は広谷から朝倉を越える低い峠を通るが、比丘尼城はこの道のほとりに、また朝倉城は その入口に控えており、朝倉三か所の城は山陰道と豊岡街道の分岐点の要地に 位置していることがわかる。

 

朝倉城が注目を集めるのは越前一乗谷の主、 守護大名朝倉氏の本貫地とみなされているからである。

 

鎌倉時代中期には朝倉高清は朝倉氏を代表するほどの勢威はなかった。

 

その理由を推測させ る興味ある系図が最近になってみつかった。

 

「八木系図」である。『寛永諸家系図伝』が編纂された折、それを手伝ったとみられる林読耕斎が写しとっていた「諸家系図」が、明治年間の 初めに内務省地理局に蔵されていて、その中の 但馬関係のものを明治十一年に当時の地理局長 桜井勉が再写し、『但馬史料』三十六巻の中に 納めていた(現在は出石町宗鏡寺蔵)。

 

その中の八木系図朝倉氏に関するところをみると、次のように記載されている。

 

朝倉八郎信高は承久三年(一二二一)四月、後鳥羽上皇の召しに応じて 承久の乱に上皇方に与した。この時、同族一門のうち七美五郎大夫長高・小佐新 大夫頼重らも行動を共にし、乱後、所領を失ったようである。

 

これに対し八木 氏・土田氏は鎌倉方につき、乱後は新補者も加えて引き続き地頭に補せられた。

 

こうして朝倉高清の名跡を継いだとみられる朝倉信高は没落し、弘安八年 (一二八五)注進の『但馬国太田文』の朝倉荘地頭にその名がみえないのである。

 

しかし、承久の乱までは朝倉に居を構えていたに違いない。その時の居館跡が朝倉城跡ではないかと考えられる。

 

朝倉集落からの比高一〇〇m余を 頂上に径九mばかりのほぼ円形に近い台状の削平地があり、それを取り囲んで 二m余り下に長さ三四”余りの長方形に近い平地がある。

 

さらに四m余り下が って西側と南側に細長い郭跡があり、朝倉集落からの登り口にあたる東側の一 段下がった郭跡の端には高さ三mばかりの石垣が残っている。

 

また南側の裏山 につながる尾根の鞍部の底には井戸の跡があったという。

 

比較的低い山の上で、 規模の小さいことから、鎌倉時代に朝倉信高が築いた居館跡と推定される。

 

承久の乱後、信高の最期はわからないが、次代宗信には「八木系図」に「朝倉賀寿美妻妻嫡女」と注がついている。

 

女に迎えた養子と解釈できよう。

 

朝倉氏が受けた傷手の現われの一つではなかろうか。

 

越前に赴いた朝倉広景については「八木系図」には記載がない。ただし、八 木安高については朝倉高清次男と記している。

 

「朝倉系図」には高清の長男は 朝倉高景で、次男は八木安高と記してあるから、安高については「八木系図」 と一致するのであるが、朝倉高景の子がすぐに広景となっているところに疑問 が残る。

 

『朝倉記』には高清ののち数代但馬に住し、広景に至る旨記載されている。

 

このほうが世代数からみて妥当である。すると、越前朝倉氏は、朝倉八郎信高の世系から出たのではなかろうか。

 

但馬にはその分流が残った。それは 朝倉孫大郎重方とみる。重方は足利尊氏が都落ちして九州に走った時、そのあ とを追って西国へ赴き、周防釜戸の関で足利尊氏と合流し、湊川の戦いには足利軍として参加している「東寺文書」。

 

けれども、但馬朝倉氏はなおも本貫地 の朝倉へは帰ってこない。応永八年(一四〇一)に将軍足利義満は田公弾正入道正恵に朝倉荘地頭職を与えている。

 

この南北朝の動乱期に、それにふさわしい 居城として上の山城は築造されたとみる。

 

その後、朝倉氏は朝倉に落ち着いたらしく、その一人に朝倉豊後守がある。応仁の乱に西軍に味方して上京した山名の家臣団中にこの名がみえる。

 

また戦国時代末期の但馬諸城主名の中に朝倉大炊がある。

 

いずれも上の山城に居城した城主であろう。 上の山城は頂上が本丸跡らしく、横二〇m×縦一五m余りの削平地があり、 ここから東側には一段、西側には五段の平地が造られていて、全長ほぼ一一〇 』はある。

 

さらに東側の尾根を三〇m余り下った所に二本の堀切が尾根を切り、 頂上から前方に流れる尾根の突端にも郭跡がみられる。

 

『日本城郭大系』12より引用。

 

城の歴史

鎌倉時代:築城か

 

承久3年(1221):朝倉八郎信高が、後鳥羽上皇の召しに応じて 承久の乱に上皇方に与した、乱後、所領を失う。

 

応永8年(1401):将軍足利義満は田公弾正入道正恵に朝倉荘地頭職を与えている為、このころ朝倉荘の支配をしていない。

 

応仁元年(1467):このころ応仁の乱に西軍に味方して上京した山名の家臣団中に朝倉豊後守の名がある。

 

戦国時代末期:但馬諸城主名の中に朝倉大炊の名がある。

 

城主家系図

 

所感

●戦国時代の有力大名だった朝倉氏の本貫地がこの但馬国であった。

 

●初期の山城で技巧的には凝ったものではない。

 

●朝倉氏からが多くの庶流が出ており八木氏は山名四天王の1人にまで数えられる。

 

関連URL

【兵庫県】八木城・八木古城【養父市八鹿町八木】

同族である八木氏の居城。

 

参考URL

朝倉城(ウッキペディア

城郭放浪記(但馬朝倉城)

西国の山城(朝倉城)

お城解説「日本全国」1000情報【城旅人】(朝倉城)

朝倉氏(ウッキペディア)

武家家伝(朝倉氏)

 

参考文献

『兵庫県の地名』

『日本城郭大系』12

 

公開日2019/09/11

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