城データ

城名:佐賀城

別名:栄城、亀甲城、佐嘉城、沈み城、村中城

標高:5m

比高:0m

築城年:慶長7年(1602)鍋島直茂により築城だが、その前身である村中城が築城された年代は不明。

城主:鍋島氏、村中城と含めると龍造寺氏

場所:佐賀県佐賀市城内

北緯:東経:33.245252/130.302761

佐賀城はここ

 

攻城記

鍋島直正公の銅像。

まずは外周から。

立派な近世城郭の石垣。

綺麗な算木積み。

 

桝形虎口。

二の丸に上がる階段。

かなり広い。

多くの兵士が駐屯できる。

降りて本丸に向かう。

立派な城門。

城門を裏から。

佐賀城本丸歴史館

 

佐賀城本丸歴史館

 

余湖図【佐賀城】

当時のイメージ図(余湖図コレクションより引用)

 

城の概要

佐賀城跡 佐賀市城内

佐賀城下の中心に築かれ、竜造寺氏時代の村中城(竜造 手城)が改築されたものである。

 

慶長七年(一六〇二)に佐賀城本丸台所が作られはじめ、 翌年正月に完成。同一二年に西の丸の櫓が建てられ、同 時に天守の瓦が焼きはじめられ、同一三年には佐賀城総 普請が行われて町割も開始され、内堀・外堀も農民を動員して掘られた。

 

北の堀は福岡藩の黒田如水の協力を得 ている。

 

同一四年天守閣が完成し、同一六年城普請の成 就とともに鍋島勝茂は本丸に移った(勝茂公譜考補)。

 

当時 の佐賀城をしのばせるものは佐嘉小城内絵図など慶長年 間の絵図で、佐賀県立図書館に保存されている。

 

佐賀城 は平城で、本丸の西北部に五層の天守閣があった。石垣の高さは五間であるが、この石は川上(嘉瀬川上流・現佐賀 郡大和町)から「大石百万荷、小石三十万荷」を舟で下し たといわれる(勝茂公譜考補)。本丸の北方に小城門があるが、この門が現佐賀市立赤松小学校の北に現存する「鯱 の門」である。

 

佐賀城は平地に築かれ、周囲を堀と土手に囲まれ、土 手には松を中心に木が植えられ、城内がのぞけないように工夫されている。

 

本丸は東西七〇間、南北六八間で、 北および西に二間半の高さの石垣がめぐらされているが、 これが天守と並んで佐賀城創建当時の唯一の石垣で、ほかはすべて堀回りまで土手であった。

 

二の丸は本丸の北 東にあり折れ曲った地形で、三の丸は本丸の西にあって 東西一五〇間、南北一一〇間で、この本丸・二の丸・三 の丸を合わせたのが城内で、全体に内堀がめぐらされた (現在東はほとんど埋め立てられている)。

 

『佐賀県の地名』より一部引用。

 

佐賀城

佐賀城は、佐賀市の南部にあり、現在、鯱の門・天守台のほかは、ほとんど 城統櫓門遺構らしいものは残っていない。

 

しかし、掘割は昔の面影を伝えており、南・ 北・西の三方に広がっている。

 

佐賀城は、龍造寺家の本城であった村中城を基礎に、慶長四年(一五九九)か ら元和元年(一六一五)にかけて拡充強化された城である。

 

当初は佐賀市の西部八戸に新城の建設が考えられたといわれるが、鍋島藩の藩祖鍋島直茂の強い意向で、村中城(龍造寺城)を土台に、慶長七年には本丸台所、同八年に本丸総普 同十二年に西の丸隅櫓、同十三年に周りの堀、同十四年に天守閣の石垣というふうに毎年少しずつ増築されて、一応、同十六年に完成し、同十九年外郭を増普請した。

 

ところが、翌年の元和元年に江戸幕府が一国一城令を出したので、藩内で取り壊した蓮池城の資材をそのまま佐賀城に運んで用材として用いて工事を完了させた。

 

また、堀は国中の人員を動員して掘られ、北東の堀は筑前黒田藩の加勢を得て掘った。のちにそれを記念して「筑前堀」と称された堀でぁる。

 

『葉隠』(巻六)には黒田藩へ返礼として、のちに福岡城普請の時に佐賀から手伝いに出かけたことが書かれている。

 

また、天守台の石として現在の佐賀郡大和町の川上から小石四十万荷・大石百万荷を運んだ。

 

なお、佐賀城の天守閣の完成時期を慶長十三年十一月八日とする説(『焼残反故』)もある。

 

『日本城郭大系』17より一部引用。

 

城の歴史

戦国時代以前:龍造寺氏による村中城が築城される。

 

慶長7年(1602):佐賀城として大幅改修実施。

 

慶長8年(1603):本丸総普請。

 

慶長12年(1607):西の丸隅櫓完成。

 

慶長13年(1608):周りの堀完成。

 

慶長14年(1609):天守閣の石垣完成。

 

慶長16年(1611):完成

 

慶長19年(1614):外郭の増普請を実施。

城主家系図

 

 

城主石高

佐賀藩35万7000石

 

所感

●以前35万石にふさわしい城郭。

 

●城には舟を保管しており、洪水の時にはその舟を利用したらしい。

 

●本来であれば龍造寺の城になるはずが、隆信討死から家の勢いも衰退し、結局家老の鍋島氏の手に渡る。

 

●ただし、鍋島直茂自信も龍造寺家純の孫になる。

 

関連URL

 

参考URL

佐賀城本丸歴史館

佐賀城(ウッキペディア)

城郭放浪記(肥前佐賀城)

龍造寺氏(ウッキペディア)

武家家伝(龍造寺氏)

鍋島氏(ウッキペディア)

武家家伝(鍋島氏)

 

参考文献

『佐賀県の地名』

『日本城郭大系』17

公開日2021/10/10

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