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城データ

城名:八上城

別名:八上高城

標高:462m

比高:240m

築城年:永正5年(1508)

城主:波多野氏

場所:兵庫県丹波篠山市八上内字高城山

北緯:東経:35.061725/135.255750

Google マップ (Google Maps) で緯度経度を指定して場所を見つける方法

※C. フォーマット「度(DD)」の場合を参照。

攻城記

国史跡八上城跡

指定年月日 平成17年3月2日

八上城跡は、戦国時代に多紀郡(現笹山市)を支配した波多野氏の5代にわたる居城である。

 

初代清秀は、応仁の乱(1467~77)の戦功によって、室町幕府管領細川政元から多紀郡を与えられ、八上へ入る。

その後、波多野氏累代は、戦国時代を通して勢力を蓄え、大永7年(1527)に管領細川高国を放逐、天文7年(1538)に丹波守護代内藤氏を攻略、永禄年間(1558~69)には、三好長慶や松永秀久と戦いを繰り広げる。

 

波多野氏は、先ず奥谷城(蕪丸)を、続いて本城の八上城、さらに殿町にあった城下町を守るため、支城の法光寺城を築き、一帯を一大要塞化し、大規模な戦乱に対応した城造りを進める。

天下布武を目指す織田信長が上洛すると、5代の秀治はそれに従わず、信長が派遣した明智光秀の攻勢を受ける。

 

光秀は、八上城の周囲に付城を巡らし、八上城を徹底包囲する。

 

天正7年(1579)6月、1年にわたる籠城戦の末、八上城は落城し、秀治ら兄弟3人は安土城下に移され落命する。

落城後の八上城は、前田茂勝ら豊臣氏に縁する大名の城として使われる。

 

しかし、関ヶ原の戦い(1600)によって、徳川家康が天下を押さえると、豊臣秀頼の拠る大阪城を包囲するため、慶長13年(1608)に、江戸幕府から篠山城築城の命令が出され、八上城は100年余りにわたる歴史を終える。

 

篠山市教育委員会

 

城域は広そう。

行く前に春日神社がある。

往時はいい庭園だったと思われる。

進んでいく。

八上城が落城後波多野氏滅亡後に前田茂勝が入城するが麓に屋敷を造る。

当時のイメージ図(余湖図コレクションより引用)

 

麓から15分位一気に登り尾根筋に到着。

鴻の巣と呼ばれるところ。

そこそこの削平地になっている。

伝 下の茶屋丸。

田園風景が見える場所。

伝 中の壇。

これから山の山頂にどんどん進んでいく。

伝 上の茶屋丸。

頂上までの距離と時間が書かれているのが凄くいい。

普通の道にしか見えない。

このような曲輪がところどころにある。

右衛門丸跡。

しっかとした曲輪。

三の丸跡。

若干眺望がきく。

二の丸跡。

一番重要な曲輪らしい。

ここからははっきりと眼下が見下ろせる。

本丸周囲の曲輪。

本丸の周りを囲む。

本丸跡。

兵を駐屯するスペースとして活用か。

麓の看板と同じ。

中央には大きな石碑が建てられている。

本丸一段下の曲輪。

ここに重臣岡田某の居館があったらしい。

伝 蔵屋敷。。

屋敷というよりも尾根筋の削平地。

伝 池東番所。

ただの尾根にしか見えない。

大竪堀。

確かにこれは大きな竪堀がある。

池東下の番所。

まあ確かに番所があるスペースはありそう。

朝路池跡。

悲しい物語がある。

大井戸だったのだと思う。

池から上を臨む。

 

位置関係

 

余湖図【八上城】

当時のイメージ図(余湖図コレクションより引用)

 

ひなたGIS【八上城】

 

城の概要

八上城

デカンショ節で有名な篠山の市街地から東方約三㎞に波多野氏の本拠地であ った高城山(朝路山、標高四六二m)がある。

 

篠山の町からみると、西面は円錐形を呈し、後山川からみると、北面は”小形”の富士山のようである。

 

また前方はゆるい尾根続きで、摂津の山々に連なり、南北に狭く、東西にやや延びた独立の男山で、北麓に旧山陰道(近世の京街道)が東西に走っている。

 

登山道はこの街道側にあり、篠山寄りの西から春日神社口・藤ノ木坂口・弓月神社口・ 西庄口・野々垣口と続いている。

 

大手口に多少の変遷があったらしいが、総じて 波多野氏時代は東方の野々垣口・藤ノ木口が大手で、明智氏時代・前田氏時代 は西北方の春日神社口だったようである。

 

藤ノ木口のすぐ西側に東陽寺・十念寺という寺があり、後者の『縁起』によると、「畑平太(波多野氏被官と推定でき る)の旧屋敷跡に寺を移す」という伝承があり、前者の東陽寺もまた安政年間(一八五四~六〇)に現在地に移築されたといわれ、門前の竹藪の中に遺構が認められる。

 

なお、高城山の西側から巾着形に入り組んだ山峡部があり、 そこは奥谷集落(殿町)とよばれ、波多野氏時代の初期の館があった。

 

この奥谷からの登山道が搦手口と推定できる。

時代によって大手口に多少の変遷があっ たように、現在の城跡もまた当然、永正五年から慶長十四年(一六〇九)の廃城 までに改修築の手が加わったと想像できるが、頂上の詰郭部分と春日神社口の 山麓を除くと、慶長十四年に廃城になったとは思えぬほど古風な中世式の遺構 をとどめている。

 

春日神社口には、はっきりと堀跡の形跡をとどめている水溜り、その内側は杉の疎林となっており、「主膳屋敷跡」とよばれる平坦地である。

 

さらにその奥に一段高く「御殿屋敷」という平坦地があり、この一帯がその名前のように、前田玄以・茂勝時代の郭跡で、篠山築城時にもっとも多く石材その他の資材が取り除かれた部分であろう。

 

今でも栗石や径四〇~五〇㎝ の残石を認めることができる。

 

この「主膳屋敷跡」横からおよそ一mの小道を 一〇分足らず登ると、幅六m×長さ二〇m前後の平坦地に達する。

 

ここには 「鴻ノ巣」とよばれる一郭があり、この郭跡から急坂の尾根伝いに「下ノ茶 屋」「中ノ壇」「上ノ茶屋」と、ほぼ同じ広さの郭跡が三つある。

 

部分的には崩れているが、往時の土塁をうかがわせる。

 

この一帯が中腹の部分で、「上ノ茶 屋」からさらに一〇分足らずで、七~八郭の郭群の真ん中に達するが、頂上側 に約四m高く、「右衛門丸」といわれる一郭、反対側尾根伝いに階段式に四つの 郭が続いている。

 

ここは西南麓の殿町寄りの「ケモノ道」とも通じ、かつては 八上城の重要な一帯であったろう。腰巻式の高さ一mほどの石垣にめぐりあうのもこの部分である。

 

この郭群から急坂を上ると、もう頂上部分である。

 

東北 部を石垣で積んだ、東西およそ三四m、南北およそ二八mの最高所を囲んで、 帯郭的に数mから二〇m余りの平坦地が取り囲み、西方の『右衛門丸」側には 約五m低い「三の丸」の平坦地が続いている。

 

そこには建物跡らしい礎石と城戸跡を確認できる。

 

さらに頂上の帯郭から東へおよそ三〇m下がると、周囲に古い形式の土塁で囲った東西約二〇m、南北七mほどの灌木の茂った郭に出る。 「蔵屋敷」という一郭である。

 

そして尾根伝いに左手に向かうと、「茶屋ノ壇」 から出郭である「芥丸」「西蔵丸」に至る。

 

また右手に下ると、「上ノ番所」「下 ノ番所」という郭跡に達し、野々垣口に通じており、この「下ノ番所」の一隅 を石積みにした直径約三の井戸がある。

 

「浅路池」とよばれている この一帯が井戸郭であろう。

 

また「西蔵丸」という広さ二〇m×一〇mほどの 一郭があり、頂上の本城部分を中心にした鶴翼形に広がった郭群の東方最先端にある砦跡で、背後の「芥丸」砦と共に野々垣口・西庄ロ・藤ノ木口を扼する 重要拠点であったものと推定できる。

 

波多野氏の出自と系図について諸説があるが、実際には「石見から丹波に吉見姓を名のっていたが、清秀の時に細川勝元に仕えて主命によ の姓波多野氏を名のり、応仁・文明の大乱に各地で大功を現わし、ついに政元 の頃には多紀郡を与えられるに至った。

 

清秀は永正元年(一五〇四)六月二十四 日、六十二歳で没し、法諱を宗栄、字を茂林といった」(『幻雲文集』所収、波多 野茂林居士肖像賛)という『兵庫県史』の説が妥当なところであろう。

 

また文明十七年(一四八五)二月十一日の丹波守護代上原元秀の遵行状(「土佐文書」の宛名である「波多野孫右衛門」は清秀のことであろう。

 

波多野氏は、当時まだ 小守護代的立場であったらしい。そして、永正五年には「是頃、波多野丹波に勢力を拡大し、郡奉行難波氏を八上から追い出し八上に築城」(『万年記』とあるが、これは清秀の子元清の時代である。

 

以後、波多野氏は両細川氏の対立時 には細川高国方に与力して周辺の荘園を蚕食し、国人・土豪を傘下に収めて西 丹波一帯に勢力を張った。

 

そして元清の弟元盛は名門香西家の名跡を継ぎ、末弟賢治は柳本氏を名のり、妹は播磨の名門別所氏に嫁して、しだいに強大化していき、元清は将軍足利義稙から偏諱を許されて「稙通」と改名し、幕府の評定衆に列した。

 

また香西元盛の台頭をきらった管領細川高国が元盛を誘殺すると、稙通は柳本賢治 と共に主家細川氏に 叛旗を翻して、丹波 から細川勢を駆逐した。

 

大永六年(一五二六)のことである。 さらに植通(元清)の 子元秀と賢治は細川高国を京都から追い落とし、畿内一円を 制圧したが、賢治が 播磨別所氏の応援に出兵して東条城で暗殺され、その勢力はとんざ 挫するが、植通は本拠八上城を動かず、その勢力を温存した。

 

以後、細川晴元打倒に踏み切った三好長慶と波多野氏とが千戈を交えるのは天文十八年の頃であろう。

 

そして長慶に敗れた晴元が将軍を擁して八上の奥谷に難を避けたので、三好勢による八上城攻撃が始まった。

 

『多聞院日記』『厳助往年記』『細川両家記』などによると、八上城は天文十九年から弘治三年(一五五七)までに六回の攻撃を受けるが、三好勢の執拗さと共に八上城の堅城ぶりがうかがえる。

 

しかし、さすがの八上城も、弘治三年の終わりには落城した。「長慶八上城を攻め、龍蔵寺城を攻略。その後、松永久秀八上城を占取、松永孫六置く」(『細川両家記』とある。

 

このあと、波多野晴通、秀治らが旧城を奪回したのは永禄九年(一五六六)のことである。

 

しかし、時代の潮流が大きく変わろうとしていた。新興の織田信長の部将明智光秀による丹波攻略が始まった。

 

その時期は丹波の国人・土豪に宛て 光秀の文書によると、天正三年(一五七五)六月のことである。

 

そして一度は西丹波深くまで侵入してきた明智勢を波多野・赤井(荻野)の連合軍で撃退した (天正四年一月の合戦。地元では”赤井のよび込み戦法”といっている)が、中世から近世に向かう”時の流れ”に抗し難く、天正六年十二月から光秀による八上城包囲戦が開始された。

 

籠城六か月、城は落ちた。

 

『信長公記』に「さる程に(中略)籠城の者、既に餓死に及び、初めは、草木 の葉を食とし、後には、牛馬を食し、了簡尽き果て、無体に罷り出て候を、悉く切り捨て波多野兄弟三人の者、調略を以て召し捕る。六月四日、安土へ進上、 則ち、慈恩寺町末に、三人の者、張付に懸けさせられ、さすが思い切り候て、 前後神妙の由候」とある。

 

光秀が丹波を領有すると、八上城には口丹波の土豪出身の並河飛騨守が城代として置かれたが、明智氏滅亡後は、丹波少将といわれた羽柴(豊臣)秀勝が亀山(亀岡)に封じられ、その家臣の浅野和泉守・余江長兵衛らが八上城の城番となったらしい。

 

そして秀勝の移封後、徳善院と称した前田玄以が亀山五万石の城主となり、秀勝の跡を継いで口丹波から西丹波にかけて領有した。

 

また玄以の死後、主膳正前田茂勝が遺領を継ぎ、八上城に居住した。

 

さらに慶長十三年 (一六〇八)に前田主膳正茂勝が重臣を殺害して八上を出奔する事件があり、 「狂乱」と記録されているが、代わって常陸国笠間から松井(松平)康重 に転封となった。

 

そして永正五年から数えておよそ一〇〇年、幾多の戦火を味 わった八上城は新しく変貌する日を迎える。徳川譜代随一(徳川家康の実子と いう説がある)といわれた康重によって天下普請の「篠山城」の大工事が高城山から西方三㎞の平地の小丘上に開始されたのである。

 

慶長十四年三月九日のことである。

 

『日本城郭大系』12より引用。

 

城の歴史

永正5年(1508):波多野元清が築城する。

 

16世紀前半:近隣の反対勢力の豪族を討伐していく。

 

弘治3年(1557):松永久秀により城を奪われる。

 

永禄9年(1566):城を奪還する。

 

天正3年(1575):明智光秀の丹波攻略が始まる。

 

天正7年(1579):八上城が落城する。波多野氏滅亡する。

 

城主家系図

 

所感

●1508年に築城と戦国時代になってから築城されており、当初から技巧を凝らした城だったと思われる。

 

●城自体は松永久秀により落城されており、明智勢の落城が最初ではない。

 

●同年代の黒井城が総石垣での城であるのに、八上城での石垣はそこまででは無い。

 

関連URL

【兵庫県】蕪丸城(奥谷城)【丹波篠山市殿町】

八上城の前の居城である蕪丸城(奥谷城)

【兵庫県】篠山城【丹波篠山市北新町】

八上城から近世城郭である篠山城に移った。

【兵庫県】黒井城【丹波市春日町黒井】

波多野氏と同時代に明智勢と戦った黒井城。

 

参考URL

八上城(ウッキペディア)

城郭放浪記(丹波八上城)

西国の山城(八上城)

波多野氏(ウッキペディア)

武家家伝(波多野氏)

 

参考文献

『兵庫県の地名』

『日本城郭大系』12

公開日2021/10/02

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