城データ

城名:香山城

標高:100m

比高:40m

築城年:建武年間(1334~38)

城主:香山氏

場所:兵庫県たつの市新宮町香山

北緯:東経:34.953479/134.541831

香山城はここ

 

攻城記

香山城

香山城は香山村西方の山麓(通称:備後屋敷)に位置する香山氏の居城です。

 

香山氏は系図によりますと鎌倉時代から香山荘地頭職の家柄で、建武年間頃(1334~1338)に秀清が香山城を築城したと伝えられて嘉吉の乱(1441年)で城は一度落城します。

 

その後文明3年(1471)に秀氏が城を再興しますが、羽柴秀吉が宇野氏(山崎・長水城)を攻めたときに城主秀明は宇野氏に属し、香山城は秀吉軍の黒田官兵衛に攻められ、天正8年(1580)4月27日に落城します。

 

なお、司馬遼太郎の「播磨灘物語」には官兵衛の父(職隆)が攻め落とした城として香山城が登場します。

香山城の遺構は大歳神社を挟んで、北廓(南北170m・東西250m)、南廓(南北220m・東西120m)に分かれており、いずれも外郭を石垣が取り巻き、縦横に石塁と堀が走り、その中を雛段造成して多数の郭群を複雑に配置しています。

 

郭群には、城門・井戸・犬走り・泉地等の諸施設があり、備前焼の甕や茶臼等も見つかっています。

 

香山城は近隣には例のない総石垣で築かれた特異な縄張りをもつ大規模な中世の山城といえます。

 

1992年3月 新宮町教育委員会

 

中央部にある大歳神社。

本丸のある曲輪へ突入。

階段上の削平地が大量にある。

しかも1つ1つがかなり広い。

土塁か。

このような石垣が随所にある。

河原石、意図して河川から持ってきている。投石用か。

かなり立派なは石垣、石自体は小ぶり。

周辺部。

 

圧巻の石垣。

本丸付近は石垣も大きくなる。

虎口。

本丸下の石垣。

本丸。

本丸は非常に広大な曲輪になっている。

城の中に古墳がある。

香山城全景。

 

香山廃寺

香山廃寺にある五輪塔は室町時代のもので、香山氏縁の古墓だと思われる。

 

余湖図【香山城】

当時のイメージ図(余湖図コレクションより引用)

 

ひなたGIS【香山城】

 

 

城の概要

香山城

水禄年間(一五五八―七〇)に龍野赤松氏の配下香山飛騨守が在城したという (「接保郡地誌』)。

 

香山氏はその系図によれば、元暦元年(一一八四)に但馬朝来郡の八木重秀の子秀信が一ノ谷の戦いの功によって香山荘地頭職を得てここに 移り住み、香山氏と名のったのに始まるといい、秀信の四代あとの備後守秀清が 赤松円心に属し、建武年間に大歳神社裏山(標高四〇〇m)の中腹に香山城を築 いたという。

 

山麓の「備後屋敷」とよぶ二〇aほどの平坦地が秀清の屋敷跡といい、その上に八段の石垣を持つ郭跡があり、高さ三m、長さ四〇mに及ぶ石 垣もある。

 

秀清のあと、秀広・秀頼・秀光と相続したが、飛騨守秀光は嘉吉の乱の明石和坂の戦いで討死し、子秀氏は赤松政則の播磨回復に従って、嘉吉の 乱以後、廃城となっていた香山城を修復して、ここを居城にしたという。

 

秀氏は備後守と名のり、このあとは秀詮・秀綱・秀義・秀明と相承したが、 代々、備後守または飛驒守を名のった。

 

永正十五年(一五一八)に備前の三石城主浦上村宗が赤松義村に反抗して挙兵し、義村は村宗の属城松山城(姫路市林田町)を攻撃したが、秀詮は三〇〇余騎 を率いて松山城攻撃に加わった。

 

その子備後守秀綱は龍野赤松氏に属したが、秀綱の子飛騨守秀義は長水城主宇野政頼に属した。

 

長水城の宇野氏は羽柴(豊臣)秀吉に対抗したが、香山城には政頼の弟政祐が督軍として来援していたという。

 

天正八年(一五八〇)四月、 香山城は秀吉軍の攻撃で落城し、最後の城主備後守秀明は逃れて長水城に入っ たが、敗れて戦死したと伝えられている。

 

『日本城郭大系』12より引用

 

 

城の歴史

建武年間(1334~38):香山秀清による築城との伝承あり。

 

嘉吉元年(1441):嘉吉の乱により主家である赤松満祐に味方する、香山秀光は明石市の「和坂かにがさかの戦い」で討ち死。

 

長禄2年(1458):赤松政則が三種の神器の神璽を南朝から奪還し播磨守護に返り咲く。

 

文明3年(1471):このころ香山氏も香山城に戻る。

 

永正11年(1514):浦上方の衣笠長門守を攻めた際、香山秀詮は300騎を率いて参戦し、衣笠氏を討ち破る。

 

享禄2年(1529):香山秀綱は管領細川高国の要請にて浦上村宗が摂津に出陣すると赤松晴政の指示にて叔父の赤松村秀の軍に加勢する。

 

享禄4年(1531):香山秀綱は家督を秀義に譲る。

 

天正5年~6年(1577~68):このころ秀吉の侵攻により落城。

 

城主家系図

 

所感

●城は後世に畑として利用されていると思われる。

 

●東に川があり、流通の要としての役割を果たしていたとも考えられる。

 

●城は2つの曲輪群で後世されているが、中央に大歳神社がある、当時もこの部分に神社があったのか不明。

 

●香山氏の遠祖は八木氏とも言われているが詳細は不明。

 

関連URL

【兵庫県】米田城(熊見城)【佐用郡佐用町米田】

宇野氏が居城としていた米田城。

 

参考URL

郷土の歴史と古城巡り(香山城)

播磨ー香山城訪問記

なんとなく城跡巡り(香山城)

香山城 | 山崎整の西播磨歴史絵巻 | ラジオ関西 

香山氏上 | 山崎整の西播磨歴史絵巻 | ラジオ関西 

香山氏下 | 山崎整の西播磨歴史絵巻 | ラジオ関西 

武家家伝(香山氏)

 

参考文献

『兵庫県の地名』

『日本城郭大系』12

公開日2021/09/26

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