城データ

城名:感状山城

別名:瓜生城、下原山城

標高:305m

比高:220m

築城年:鎌倉時代もしくは建武3年(1336)

城主:赤松氏(築城は瓜生左衛門尉の伝承や建武3年(1336)の赤松円心の三男則祐がある)

場所:兵庫県相生市矢野町森(感状山)

北緯:東経:34.881253/134.451316

感状山城はここ

 

攻城記

感状山城跡

国指定文化財

感状山城は瓜生城とも呼ばれ鎌倉時代に、 瓜生左衛門尉によって創築されたと伝えられ ています。

 

その後、南北朝・室町期になると守護赤松氏 一門の居城となり、建武三年(一三三三六)には、新田義員軍の進攻に対し、赤松円心の白旗山城に呼応した赤松則祐がごの城にたてこもって 防戦しその戦功により足利尊氏から感状を与えられ、感状山城と呼ばれるようになったと 伝えられています。

 

城郭の構成は、連邦式・階郭式の縄張で、典型的な戦国山城の地取りとなっており、山頂部を 中心に総石垣造りで、建物跡と思われる様石 群が盛時のまま残されています。

 

相生市教育委員会

 

そのまま道なりに進む。

羅漢石仏。

山頂目指してとにかく進む。

石段が見えてくる。

ここにも何かの施設があったのか。

 

まだ先は長い。

井戸跡。

石垣をふんだんに使っている城。

中世山城の石垣を見るとワクワクする。

Ⅲ曲輪に到着。

Ⅲ曲輪はかなり広い。

石の囲いを発見。

支柱を建てるための礎石か。

先を急ぐ。

感状山はとにかく石が多い。ここは物見岩。

麓を臨む。

このような小さな石垣を多くある。

周囲を全て石垣で固めていたのかもしれない。

出曲輪。

長大な削平地になっている。

更に進む。

山頂までもう少し。

この景色で疲れも取れる。

本格的な石垣が出迎える。

南Ⅱ曲輪。

立派な石垣で出入り口になっている。

石垣の城にふさわしい。

本丸に到着。

本丸もかなり広い。

土器のかけら。

この石の積み方は排水路か。

北曲輪群。

北の守りの要。

井戸跡。

土器か。

 

 

余湖図【感状山城】

当時のイメージ図(余湖図コレクションより引用)

 

ひなたGIS【感状山城】

 

『中世播磨250の山城』(中世城郭研究家 木内内則)

 

城の概要

感状山城は別名を「瓜生城」あるいは「下原山城」というが、相生市矢野町森感状山上にある。

 

鎌倉時代に瓜生左衛門尉が築いたといわれ、別名の「瓜生城」はこの瓜生氏から生じた名称である。

 

また、一説には赤松則村の三男則祐が築いたともいわれている。

 

建武三年(一三三六)に足利尊氏が南朝方(宮方)の軍勢に追われて西国に落ちていったのち、新田義貞が一族の徳力三河守秀隆ら三千余騎の軍勢をもっ て赤松円心の籠もる白旗城の出城である感状山城を攻めた。

 

感状山城には赤松則祐が籠城して、よく戦い、新田の軍勢を追い払った。

 

その後、新田義貞 は再び大軍で攻めてきたので、赤松則祐は城を引き払い、得平因幡守秀光や 下土居城主岡豊前守・大島山城主海老名弾正景知らと共に白旗城へ入って則村を助け、新田軍の侵攻を防いだ。

 

そして足利尊氏が西国から東上してきたので赤松則祐は先陣を受け持って奮戦した。

 

天下統一後、尊氏は赤松則祐に感状を授与したので則祐の居城を「感状山城」とよぶようになったという。

 

その後、岡豊前守・赤松義村が在城し、ついで晴政・義祐を経て則房に至っ たが、天正五年(一五七七)に羽柴(豊臣)秀吉の播磨攻略に遭い、落城した。

 

落城に際しての伝説が幾つかある。

 

一つは城主則房に二人の姫がいたが、落城の時、姫の一人が鶏を抱いて井戸に飛び込んで自殺したため、以来、元旦の 朝、井戸の底から鶏の声が聞こえてくるというものである。

 

また、もう一人の 姫は城を逃れて下山し、麓の藤堂集落の人々にかくまってもらい、一生を安楽 に送ったが、姫は「世話になったお礼にこの集落に美人が生まれるよう祈りま す」といって死んだ。以来、この集落に生まれてくる女の子は、みな美人であ るという。

 

残る一つは、この城を落とすには間谷の水を汲ませないようにすればよいと教えた老婆があり、その老婆の家には以後、頭髪が真っ白な子供ばかり生まれるようになったという。

 

城は標高二四〇mの山頂にあって、本丸は東西三三m、南北一六皿の広さで、 周りを高さ二mの石垣で囲っている。

 

本丸跡南方の高さ二〇mの断崖を下った 所に一五四メ一六・五mの二の丸跡があり、ここの石垣には一皿以上もある石 が用いられている。

 

以下、南へしだいに低くなりながら五つの郭跡がみられる。 さらに北の方にも小さな整地された平坦地があり、ここに見張台があったと いわれている。

 

また頂上から二〇mほど下った所に、山の斜面と直角に走る高 さ二m、長さ四〇mに及ぶ石塁が残っている。

 

この石垣からさらに五〇mほど下方に石垣に囲まれた平地があり、その中央に井戸が掘られている。

 

この城は 尾根上に築かれた直線式梯郭城であり、巨石を用いた石垣が残っていることが特徴であるが、積み方は古式の野面積みである。

 

城の歴史

鎌倉時代に瓜生左衛門尉が築城、もしくは赤松則村の三男則祐が築城。

 

建武3年(1336):新田軍が攻めるが、赤松則祐が籠城してこれを撃退する。

 

天正5年(1577):秀吉の播磨攻略に遭い、落城する。

 

城主家系図

所感

●総石垣造りといっても過言ではない城郭で当時はこの場所に住んでいたと考えると、非常に興味深い。

 

●城域ではいたるところで、土器の破片が散乱しており、生活していた雰囲気が窺い知れる。

 

●南北に長大な曲輪群であり、それを石垣で囲み堅牢にている。

 

関連URL

 

 

参考URL

感状山城(ウッキペディア)

城郭放浪記(播磨感状山城)

西国の山城(感状山城)

感状山城(上) | 山崎整の西播磨歴史絵巻 – ラジオ関西

感状山城(中) | 山崎整の西播磨歴史絵巻 – ラジオ関西

感状山城(下) | 山崎整の西播磨歴史絵巻 – ラジオ関西

 

参考文献

『兵庫県の地名』

『日本城郭大系』12

公開日2021/09/25

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