城データ

城名:赤穂城

別名:加里屋城

標高:3m

比高:3m

築城年:寛文元年(1661)

城主:浅野長直

場所:兵庫県赤穂市上仮屋

北緯:東経:34.745715/134.388823

赤穂城はここ

 

 

攻城記

攻城スタート。

桝形を入っていく。

高い土塁に白壁が似合う。

長屋門。

城内の赤穂大石神社へ入る。

明治元年にできた新しい神社。

なかなか立派な神社。

塩屋門跡。

今はあんまり風情がない。

赤穂城

赤穂城は、正保二年(一六四五年)に 浅野内匠頭長矩の祖父長直が、常陸国笠 間から入対し、近藤三郎左衛門正死に築城設計を命じ。

 

実に十三年に亘る歳月を費し、寛文元年(一六六一年)に完成し たものである。

 

城郭の縄張りは甲州流軍学によるもので、本丸と二之丸は輪郭式、二之丸と三 之丸の関係は梯郭式になって、近世城郭 央上非常に珍しい変形輪郭式の海岸平城 てある。

 

城郭の規模は、十の隅櫓、十二 の諸門があり、石里の延長は約二八四五 メートル、面積は一四万六九二二 平方メー トルに及んでいる。

 

塁石、防壁、諸門、 本丸御殿がととのえられ、居城としての 偉容が示されたが、天守台のみ築かれて 天守閣は構築されなかった.。

 

築城当初から城内に大石邸をはじめ藩重臣の屋敷があったが、浅野家断絶後は 永井家、次いで森家の居城となり、明治廃 藩後、城塞は惜しくも破壊され屋敷は民有地に払い下げられたが、現在では本丸 門内は大名庭国がよみがえっている。

 

赤穂義士の自刃二五〇年祭を記念に、 昭和三十年春、大手門、大手隅梅と城壁 の一部が復旧され、同四十六年三月赤穂 城跡は国の史跡に指定された。

 

以後、本 丸の整備等が進められている。

 

庭園の池。

二の丸門跡。

大石頼母助屋敷門。

非常に立派な門が復元されている。

本丸は御殿となっている。

天守台。

立派な天守台。

天守台からの眺望。

周辺を散策。

降りてみる。

こちらも立派な門。

江戸時代のしっかりした平城。

周辺部。

赤穂城模型。

分かりやすい。

 

余湖図【赤穂城】

当時のイメージ図(余湖図コレクションより引用)

 

ひなたGIS【赤穂城】

 

 

城の概要

赤穂城

『赤穂郡志』 『赤穂郡志』(延享四年=一七四七=藤江忠廉の著)によれば、赤穂城は享徳年間(一四五二―五五)に赤松満祐の一族である岡豊前守が、東有年谷口の「大鷹城」をここ(赤穂市上仮屋)に移したのに始まるというが、当時の城郭がこの地 に営まれたとは考え難い。

 

同書にはまた、天正年間(一五七三~九二)に浮田 (宇喜多)直家の家人津浪法印が岡山から当地に来て、城ケ洲に役所を構えたが、 のちの浅野氏時代の近藤源八郎屋敷地にあたり、また池田輝政の代 側門が役所を構えたのは、のちの奥野将監屋敷地である、と書かれている。

 

『浦上浮田両家分限帳』(岡山大学所蔵池田家文庫所収)に浦上宗景の時 代に赤穂郡の矢野・東有根・高田村は大田原与惣右衛門が、西有年は花房志摩守が、東有年は明石久兵衛尉が、下矢野・奥矢野・竹万・赤松は中村次郎兵衛 尉がそれぞれ領有しており、津浪法印の名は『浮田中納言家中侍帳』にもみえ、その信憑性については疑問が多い。

 

結局のところ、池田輝政の浦手奉行垂水半左衛門勝重の構えた役所跡に、池 田河内守が当郡に三万二千石を分与されて、ここに一重の「搔上城」を築き、堀・石垣・櫓・塀・門を構え、さらに池田政綱(輝政の五男)が赤穂郡三万五千 石を与えられて、大書院・広間・玄関・式台・土蔵を建てて藩邸の体裁を整えたという。

 

政綱に嗣子がなく、二十六歳で病死すると、その旧領は弟輝興(輝政六男)に与えられ、さらに金の門・多門栖(多聞隅)櫓・馬屋が増築された。

 

輝興が正保二年(一六四五)三月、にわかに発狂して妻(黒田長政の三女)と侍女二人を殺害して除封となり、代わって浅野長直が常陸の笠間から五万三千五百石で 入封した。

 

浅野家の所領は赤穂郡のほかに加西・加東・佐用郡にもあり、さら に新田と塩浜千拓予定地五千石が含まれていた。

 

長直は入封と同時に塩田の干 拓を開始し、その収入はのちの築城の主要財源となったらしい。

 

入封の翌年には、赤穂新城の鎮守として愛宕神社を勧請し、慶安元年(一六 四八)六月に江戸幕府の老中に新城築城の伺いを立て、公式許可を得て、同年 八月から着工した。

 

築城設計は長直の軍学師範で甲州流軍学者近藤正純(小幡 勘兵衛の弟子。知行千石)で、外形は平城の陽、内実は山城の陰、表面は政庁 、裏は陽中陰の城塞の構えを考慮したらしく、甲州流小幡軍学 ん”陰主陽従”の守成の城として設計されている。

 

築城中の承応二年(一六五三)に山鹿素行が長直に師弟の礼をもって迎えられ、その意見によって二の 丸虎口の繩張りを一部変更した。

 

赤穂城跡が国指定の史跡となった理由は、赤穂義士の城としての一面もあるが、城郭史上からみる時、近世中期の軍学理論 に従って甲州流小幡軍学と山鹿流軍学の合作として完成している点が重視され たものと考えられる。

 

工事は順調に進んで、寛文元年(一六六一)に至って完成したが、一部の隅櫓と天守閣は完成されなかった。

 

財政難と共に平和の時代の 趨勢でもあったのである。

 

城は千種川の下流のデルタの中央、千種川の西岸の孤立小丘陵上にあり、南の海を背にした海城でもあって、北方に広がる城下町を正面にして 再隅近くに天守台を置き、その下に藩邸と泉水を主とする庭園を設け、本丸石垣の外側に内堀をめぐらし、門は北に本丸門、東に厩口門、南に刎橋門 を開いた。

 

本丸を取り巻いて二の丸があり、低い石垣で南北二区に分けられ、 仕切門があった。北に二の丸門、西に西中門、南に水手門を開き、内部には馬場や大石頼母・山鹿素行らの重臣邸があった。

 

二の丸の堀は北側のみで、南と西は満潮時には海水が石垣まで寄せ、千潮時には泥洲の芦原となった。

 

東側は 千種の水が石垣を洗い、北面の堀も西側は満潮時には海水が、東側は千種川 の水が入り込んだ。

 

二の丸北方に三の丸が突き出ており、ここには大石・奥 9近藤・大野氏らの重臣と上士たちの邸が配置された。

 

北に大手多聞に開かれ、東は二の丸の石垣に続いて清水門、西に家中屋敷に向か 塩屋門、南に二の丸石垣に続く千潟門が開かれ、清水門外の洲上には米倉・火 がた 薬製造所・舟番所があって、藩庁専用の船入港があった。

 

赤穂城は東の千種川 と西の塩屋南の塩田内の幅広い水尾(千種川の旧水路)を自然の外堀にみたてて 外郭は造らず、その代わりに大手門・搦手塩屋門・二の丸門・本丸門には厳重 な桝形を設け、また城下町の侍屋敷や船奉行屋敷・水手船頭屋敷の配置にも気 を配って、防禦を固めている。

 

浅野家の断絶後、永井家が三万三千石、宝永三年(一七〇六)正月に備中西江原から入封して幕末まで一一代続いた森家は二万石で、藩主の禄高の減少に応 じて城下町は衰徴し、城郭の維持修理にも事欠く状態で、明治年間の初めに建築 物はすべて取り払われて石垣のみの状態となった。

 

明治十一年に本丸御殿は解体されて赤穂尋常小学校の校舎として移築され、明治二十五年の洪水後の千種 川改修工事には、かつて山鹿素行が自ら繩張りをした二の丸門から清水門に至 る石垣が取り壊されて堤防石材として運び去られた。

 

明治三十年には大石神社建設のために甲州流軍学の代表的桝形であった大手門の桝形が変形され、さら に赤穂中学校(現在の赤穂高校)の建設で、本丸門の桝形も取り壊された。

 

二の丸には赤穂塩業資料館が建ち、三の丸には大石神社が建ち、また住宅地になっている。

 

比較的往時の面影をとどめているのは搦手塩屋門の桝形である。

 

大手門北隅櫓(二層)は昭和三十年に復元され、城跡が国指定史跡になって、本丸の 赤穂高校も移転することとなり、三の丸の住宅地も順次買い上げ、立ち退きが進んでおり、しだいに復元への機運がきざしてきている。

 

最近、塩屋 赤穂古城の遺構が発見されて注目されている。

 

『日本城郭大系』12より引用。

 

城の歴史

慶長5年(1600):関ケ原の戦い以後に池田輝政の弟・長政が赤穂領主となり、赤穂城の前身である「掻上城」を赤穂郡加里屋に築城する

 

慶長20年(1615):池田政綱が35000石で入封する。

 

寛永8年(1631):池田政綱が亡くなり断絶し、池田輝興が35000石で入封する。

 

正保2年(1645):池田輝興が乱心により改易し、常陸国から浅野長直が53000石で入封する。

 

慶安元年(1648):赤穂城築城開始。

 

寛文元年(1661):赤穂城が完成する。

 

元禄14年(1701):浅野長矩が吉良上野介に刃傷事件を起こし切腹、改易。

 

元禄15年(1702):下野国から永井直敬が33000石で入封する。

 

宝永3年(1706):永井直敬は信濃国に転封し、代わりに備中国から森長直が25000石で入封する。

 

 

城主家系図

 

 

城主石高

池田政綱が32000石で入部。

浅野長直が53000石で入部。

 

所感

●江戸時代中期に築城した城で珍しい。

 

●当時は海に直結した海城であったと思われる。

 

●赤穂浪士で有名な赤穂藩であるが、浅野氏が統治した時代はそんなに長くは無い。

 

関連URL

【広島県】広島城【広島市中区基町】

本家の浅野藩。

【広島県】尾関山城【三次市三次町】

浅野内匠頭の妻の実家である三次藩の居城。

 

参考URL

赤穂城(ウッキペディア)

城郭放浪記(播磨赤穂城)

西国の山城(赤穂城)

山崎正の西播磨歴史絵巻(1)

山崎正の西播磨歴史絵巻(2)

山崎正の西播磨歴史絵巻(3)

山崎正の西播磨歴史絵巻(4)

山崎正の西播磨歴史絵巻(5)

山崎正の西播磨歴史絵巻(6)

 

参考文献

『兵庫県の地名』

『日本城郭大系』12

 

公開日2021/09/12

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