城データ
城名:別当城
標高:437m
比高:170m
築城年:貞応2年(1223)前後
城主:和田氏
場所:島根県邑智郡邑南町和田
北緯:東経:34.885667/132.566286
※C. フォーマット「度(DD)」の場合を参照。
攻城記
別当城全景。
登山道が整備されている。
少しづつ登っていく。
まさかの笹攻撃。
さらに登っていくとまともになる。
井戸跡(全く分からない)
三の丸。
二の丸。
本丸。
看板がある。
別当城跡
別当城は、鎌倉時代中頃(13世紀後半)この地域に勢力を広げつつあった出羽氏(二つ山城主)に対抗し、加茂社領久永(ひさなが)荘の別当(荘官)和田氏により築かれたと伝えられる。
正平16年(1361)二ツ山城を攻略し、出羽郷を領有した阿須那高橋氏にとって、この城は高見地区に進出した小笠原氏(川本)に対する拠点の城として、重要な位置を占めていた。
享禄3年(1530)、高橋氏を滅亡させた毛利元就は、強大な勢力となり、やがて石見に進出し、尼子方である小笠原氏と対峙することとなる。
永禄元年(1558)、毛利の先陣吉川元春は、二ツ山城を本陣として下出羽まで進出し、小笠原氏の拠点黒岩(安田)城を攻略しようとした。
これに対して、尼子方の援軍(本城・湯・宇山・牛尾氏ら)は、この別当城に陣を置き、出羽川を挟んで対峙し激戦を戦ったが、戦況不利となり退却した。小笠原氏も川本へ退去した。これを出羽合戦という。
別当城の今日の姿は、この出羽合戦に際し、尼子の援軍により陣城として改修された時のものであり、郭群の配置に陣城としての特徴をよく残している。
平成16年11月 下和田集落
麓の風景。
前方の山も城(弥勒城)
位置関係
余湖図【別当城】
当時のイメージ図(余湖図コレクションより引用)
城の概要
主郭は最高所だが、防御施設は全山に築かれている。
陣城として度々使用されたとされ、在陣した勢力として高橋師光、そして尼子氏の大将として本城経光等が知られる。
島根県教育委員会『島根県中近世城館跡分布調査報告書』より引用
城の歴史
鎌倉時代中頃(13世紀後半):この地域に勢力を広げつつあった出羽氏(二つ山城主)に対抗し、加茂社領久永(ひさなが)荘の別当(荘官)和田氏により築かれたと伝えられる。
正平16年(1361):二ツ山城を攻略し、出羽郷を領有した阿須那高橋氏により川本の小笠原氏に対する拠点の城となる。
永禄元年(1558)、毛利の先陣吉川元春は、二ツ山城を本陣として下出羽まで進出し、小笠原氏の拠点黒岩(安田)城を攻略しようとした。
これに対して、尼子方の援軍が別当城に陣を置き、出羽川を挟んで対峙し激戦を戦ったが、戦況不利となり退却した。
別当城
下和田集落の背後の東部丘陵に別当城跡がある。
これは 出羽氏の築いた二ッ山城に対する城として久永庄庄官が 築いたとされる(石見誌)。
阿須那(現羽須美村)から石堂峠越 で出羽盆地に出る要衝であった。
康安元年(一三六一)高橋氏が二ッ山城を攻めた際、この城を向城として利用した という。
永禄元年(一五五八)毛利氏勢が温湯城(現川本町)の 小笠原氏を攻めた際、小笠原氏を支援するため尼子方武 将の宇山氏らが別当城に拠り、二ッ山城に拠る毛利方の 出羽氏・福屋氏らの諸軍と対戦したという(石見誌)。
『島根県の地名より引用』
別当城
別当城は、高原地区の和田部落の背後の丘陵地帯の奥にある城の迫を隔ててそびえている山にあったが、山麓からは山容をみることはできないが、東西に 流れる出羽川の流域からは遠くまでその屋根の形をした城跡を望見することが できる。
当城の東方(和田部落の背後)は、近くの大手山(標高五三三m)を境と して羽須美村雪田部落に接している。
城は大きな削平地の中に階段状に削平地 を積み重ねた形をしており、大手は西方約五皿の二ッ山城の方向にある。
『石見誌』によると、久永荘に配流された富永祐純は鎌倉幕府が開かれて以後、 地頭に補され、久永荘を圧迫した(『賀茂神社進注雑記』)とあるが、富永(出羽)が貞応二年に二ツ山に築城したため、当時の久永荘の荘官(別当、不明である、和田氏か)が富永氏に対抗してこの和田の地に別当城を築いたものと思われる。
また、高原地区内に賀茂神社が二、三あって京都賀茂社領久永庄 の存在を裏づける。
城跡の位置から判断すると、当城は二ツ山城と同様、前面に丘陵地帯を擁する鎌倉時代前期型の特徴をよく示している。
当城は出羽氏の全盛を迎えると共に廃城となったようであるが、康安元年 (正平十六、一三六一)、羽須美村阿須那の藤掛城主高橋師光が二ツ山城を攻め た時、当城を向城として利用している。
また、弘治二年(一五五六)、毛利元就石見討伐を企図して、その先鋒として吉川元春が川本町の温湯城主小笠原長雄を攻めて高原・布施地区に進出するに至り、永禄元年(一五五八)月、出雲 須佐の高矢倉城主本城経光は小笠原氏を支援するため尼子氏の武将宇山・温 泉・宇山氏らと共に別当城に拠り、二ツ山城に拠る吉川元春をはじめ熊谷・天 野・杉原・出羽・福屋・益田・佐波の諸軍と対戦している。
この戦いは、毛利 軍が高田郡から羽須美方面に進出して別当城の背後に迫ったので、本城勢はやむなく石東地域に退陣せねばならなくなり、毛利方は容易に温湯城への道を獲得したのであった。
『日本城郭大系』14より引用。
所感
●荘園領主であった和田氏が築いた城。
●もともとはこの地域は加茂社領であったが(藤掛城の麓にも賀茂神社がある)出羽氏が入部してきてこの地域を押領しはじめた。
※それに対抗するために築城したと考えられる。
●しかしその出羽氏も高橋氏に攻められて勢力を著しく低下させる。
●代わりに高橋氏がこの地域を収めたので和田氏も結局は高橋氏の勢力下におかれたか若しくは、駆逐されたを思われる。
●1558年には出羽合戦が行われたが結局尼子側が敗退して毛利の所領となる。
●別当城の真向かいには城があり弥勒城と呼ばれる。
●当時別当城と弥勒城で矢を放っており弥勒城の麓の地名がヤヒロイバ(矢拾場?)となっている。
●現在でもこの地域には和田姓の方が多くおられる(別当城麓の墓も和田姓であった)
関連URL
出羽氏の居城。
別当城に立てこもった本城氏の居城。
参考URL
参考文献
『島根県中近世城館跡分布調査報告書』
『島根県の地名』
『日本城郭大系』14
公開日2021/08/09