Pocket



城データ

城名:宇和島城

別名:鶴島城、板島丸串城

標高:50m

比高:45m

築城年:慶長元年(1596)

城主:西園寺氏、戸田氏、富田氏、藤堂氏、伊達氏

場所:愛媛県宇和島市丸の内

北緯:東経:33.219443,132.565233

Google マップ (Google Maps) で緯度経度を指定して場所を見つける方法

※C. フォーマット「度(DD)」の場合を参照。

 

攻城記

麓の看板から。

宇和島城の沿革

戦国時代高串道免城主の家藤監物が、天文十五年(1546)板島丸串城に入ったというのが、板島丸串城の記録に現れた始めである。

 

その後、天正三年(1575)西園寺宣久の居城となったが、同十三年(1585)には伊予の国が小早川隆景の所領となり持田右京が城代となった。

 

その後、同十五年(1587)宇和郡は戸田勝隆の所領となり戸田与左衛門が城代となった。

 

文録四年(1595)藤堂高虎が宇和郡七万石に封じられ、その本城として慶長元年(1596)築城工事を起こし、城堀を掘り、石垣を築いて、
天主閣以下大小数十の矢倉を構え、同六年(1601)高虎が今治へ転封となり富田信高が入城したが、同十八年(1613)に改易となったので、約一年間幕府の直轄地となり、高虎が預かり、藤堂良勝を城代とした。

 

慶長十九年(1614)十二月、仙台藩主伊達政宗の長子秀宗が宇和郡十万石に封じられ、翌元和元年(1615)三月に入城の後宇和島城と改めた。

 

それ以後、代々伊達氏の居城となり、二代宗利のとき寛文四年(1664)天守閣以下城郭全部を大修繕を行い、同十一年(1671)に至り完成した。

 

天守閣は国の重要文化財に、また城域は史跡に指定されている。別称鶴島城ともいう。

 

宇和島市教育委員会

 

攻城開始。

とてもいい感じの石垣がお出迎え。

関ケ原以前の石積み。

進んでいく。

井戸丸跡。

立派な石組井戸でしかもまだ水がある。

 

宇和島城の井戸

こ井戸は、現在の城山に残る 三つの井戸のうち、最も重要視せられたものである。

 

ここを井戸丸 といい、井戸丸御門.井戸参 などがあつて、有事の時のため、 厳重に管理せられていたと推量せれる。

 

井戸の直径二、四メートル、周囲 八五メートル、深さ約十ーメートル であるここは城山の北側の谷の中 腹 三の丸からの登り道に当たり、 数少ない城山の遺構の一つである。。

 

宇和島市教育委員会

藤兵衛丸矢倉跡。

この曲輪に山里倉庫というものがあったようだ。

幕末のお話。

雷門跡。

ここからの石垣も良い。

いよいよ中心部に入っていく。

三之門跡付近

石垣と天守閣は最高にマッチする。

※二ノ丸の登り口から見る天守

二之門跡。

昔は海に突き出た城であった。

一之門跡。

 

本丸に到着。

 

 

礎石も多い。

天守閣は小さい。

本丸から見た、宇和島市内。

かなりの労力を使って築城したことが分かる。

切込みハギが美しい。

城内には模型がある。

天守閣から見る宇和島市内。

武器を立て掛けておくものか。

遠く宇和島湾が見える。

本丸にある井戸跡。

とても美しい天守閣。

天守閣土台の石垣。

代右衛門丸跡。

進んでいく。

式部丸からみた代右衛門丸の石垣。

さすが藤堂高虎の高石垣。

ここにも井戸跡がある。

この苔むした感がたまらなくいい。

当時のイメージが分かる。

 

市指定

有形六化財 字和島城上り立ち門

この門は、宇和島城にあった多く の城門の一つであって、韻手口から 城へ登る上り口に位置している。

 

規模は大きくないが、建築様式は薬医門形式の切妻、本瓦葦であって、 丸瓦の先端には、伊達家の紋章の一つ である九曜の紋がついている。

 

建造年代は明らかでないが、城郭全体の大修築が行われた寬文年間(一六六 一―一六七二)と推定される。

 

諸矢倉・追手門・溺手門などの失 われた今日においで、この門は天守 閣とともに、宇和島城の大切な遺構 である。

 

昭和三十八年二月十一日 指定 宇和島市教育委員会

 

再び戻り石垣散策を行う。

ここの石垣も素晴らしい。

北角矢倉跡。

降りていく。

 

どこから見ても素晴らしい石垣。

瓦も発見。

 

余湖図【宇和島城】

当時のイメージ図(余湖図コレクションより引用)

 

築城当時の海岸線

 

城の概要

宇和島城跡宇和島市丸之内一丁目

 

宇和島市の中央にそびえる高さ八〇メートル、周囲一二四九メートルの通称城山に築かれた城郭跡。

 

慶長年間 (一五九六~一六一五)藤堂高虎によって築城され、寛文年間 (一六六一~七三)伊達宗利によって改修された。

 

元和元年 (一六一五)の伊達秀宗入部以後明治維新に至るまで宇和島藩伊達氏の居城であった。一名鶴島城という。

 

(丸串城)

中世には、板島丸串城ともよばれ、戦国期の 天文―永禄年間(一五三二-七〇)豊後の大友勢が侵攻した 頃には高串村の土豪家藤監物が守っていたといい、天正三年(一五七五)来村殿西園寺宣久の居城となったという。

 

豊臣秀吉の四国征伐後は、小早川隆景領時代に持田右京 が、戸田勝隆領時代に戸田与左衛門がそれぞれ城代として在城したが、当時の丸串城が大規模な城郭であったと は考えられない。

 

宇和島城が近世城郭としての規模を備えはじめるのは、 文禄四年(一五九五)七月藤堂高虎が宇和郡のうち七万石の領主となり、丸串城を本城と定めてからである。

 

「宗国 史」に「慶長元内申年八月修板島城ことある。慶長元年八月に本格的な築城が始まり、同六年にほぼ完成した (高山公実録)。

 

高虎は、慶長五年関ヶ原の戦功により、伊予国のうち 二〇万石を与えられ、今治城を築造して同一三年に移転し、丸串城には城代を置いた。

 

同年九月から同一八年一 〇月まで富田信高が在城し、その後天領となり高虎が宇 和郡の代官となった。

 

慶長一九年大坂冬の陣に際し、城代の藤堂新七郎良勝が城の防備を厳重に固めたことが 「高山公実録」の次の記事にうかがわれる。

 

国々の津々浦々船出入、関所を堅く命じ、国侍を吟味し、人質を取る、国侍屈強の者弐百人、町在々の 鉄砲五六百挺、其外武器等板島の城中へ入、(中略) 板島の総堀を浚へ、本丸切岸にし、木を切り、櫓十 一ヶ所拵へ、本丸堀裏にどう木釣る、又所々に弩を 張る

 

城は平山城で、平面は五角形、二辺は海、三辺は城掘 を隔てて城下町に接していた。城山下の三の丸には内をめぐらし、城主の館があった。城堀には海水が入って いた。

『愛媛県の地名』より一部抜粋。

 

宇和島城

 

宇和島城の前身である丸串城がいつ誰によって築城されたのかは文献史料がなく、明らかでない。

 

文献史料に現われるのは天正三年(一五七五)であり、板 島丸串城として出現する。

 

この年、板島丸串城に拠っていた西園寺麾下の家藤監物信種が前の道免城に帰り、それに替わって西園寺宣久が入城したことが 『清良記』や『予陽河野家譜』に記載されている。

 

このことからすると、同年以 前に家藤監物信種が板島丸串城の城主となっていたことになる。

 

したがって、 少なくとも元亀年間(一五七〇―七三)以前に城郭が構築されていたと理解しなければならない。

 

『清良記』によると、若干の問題は残るものの、天文十五年(一五四六)・永禄 三年(一五六〇)・同八年・同十一年と元亀三年に豊後国の大友勢が宇和郡の地 に侵入している。

 

このうち、板島へ上陸したと地名をあげて記しているのは永 禄三年と同十一年の二回である。

 

この再度の板島上陸に際しては、当地で攻防した記録はない。このことからすると、防衛拠点としての城郭は未設置であっ たものと想像される。

 

豊後国の大友勢の侵入は西園寺氏の本拠である黒瀬城を目標としたことから、 それに最も近い吉田湾や法花津湾が上陸地として選ばれたものであろう。

 

それゆえ、法華津城や石城を設けて侵入に対処した。大友勢は逆にそれを避けるた 防備に近い板島の地に上陸を試みたとしても、あながち間違い かし、度重なる板島への侵入に対して当然その対策が講じられ のが妥当である。

 

おそらく永禄年間の末から元亀年間にかけて防御城郭が構築されたものであろう。

 

天正三年に黒瀬城を本拠として宇和地方を統治していた西園寺公広の弟西園寺宣久が城主となって六千六百石を領していたことからも、この地が大友勢の侵入に対し て重要な地であることを認識したからにほかなるまい。

 

丸串城の規模は、宇和島城と比較して小さかったとの説が ほとんどであるが、その根拠はどこにもない。

 

丸串城に西園 寺宣久が入城したことと、知行が六千六百石であることと、 他の周辺の西園寺十五将の城郭の規模から考えると、藤堂高 虎の築城時とそれほど差はなかったみるべきであろう。

 

もちろん建物などは簡素であったことは論をまたないが。 天正十三年には小早川隆景の所領となり、彼は城代持田右 京をして統治させた。

 

同十五年には小早川隆景は筑前名島に転封となり、そのあと十月には戸田勝隆が宇和・喜多面 六万石を領し、大洲地蔵嶽城に入城し、丸串城には戸田信家 を城代として入城させた。のち文禄四年(一五九五)七月二十 二日、藤堂高虎は宇和郡七万石に封じられ、丸串城に入城し た。

 

この頃より丸串城を板島城と単に呼称するようになった。

 

なお、文禄四年の『聿脩録』によると、高虎は板島を宇和島 と改めているが、以後も現実には宇和島を使わず、板島を使 用している。

 

一般的には慶長八年頃から宇和島と称するよう になったのではなかろうか。ただ、これ以降においても板島 の名はしばしば使用されているので、それほど厳密な規定と いえるようなものはなかったのではなかろうか。

 

高虎は慶長元年八月に城の修復に着手したが、同年九月、 朝鮮との和議が破れ、同二年、再び朝鮮に出兵した。

 

その間、 築城が引き続き行なわれていたのかどうかは定かでない。

 

同 五年一月より築城が再開され、三月に普譜の初仕事が行なわ れている。

 

築城は重政氏および佐伯惟定が中心となって進められた。翌六年には天守閣の工事はほぼ修了したものといえ 高虎が二度目の朝鮮出兵の間、築城が完全に休止していたとするならば、わずか二年間の築城期間である。

 

おそらくその間もわずかずつではあるが工事の進捗はあったとみるのが妥当であろうし、その後も各種の工 事が行なわれたものであろう。

 

慶長九年、河原淵組(松野町)の河後森城の天守 閣を解体し、これを板島城へ運び移し、月見櫓として建立し、すべての工事は完了した。

 

この間、九年間を要している。 これよりさき、高虎は慶長五年、関ヶ原の戦功により伊予半国二十万石に加 増され、同七年、今治城の築城に着手し、完成ののち今治城を居城とした。

 

さらに同十三年に伊賀・伊勢二十二万石に転封となった。

 

それに替わって同年九 月、伊勢の安濃津城主富田信高が宇和十万石余に封じられ、板島城に入城した。 同十八年、信高は石見の津和野城主坂崎直盛と争い、幕府より改易処分を受け、 板島領は幕府領となり、藤堂高虎がこれを預かり、城代として藤堂良勝を入城 せしめた。

 

同十九年十二月二十八日、仙台藩主伊達政宗の長子秀宗が板島十万石に封じられ、元和元年(一六一五)三月、入城した。

 

秀宗以降、宗利・宗贇・ 村年・宗候・村寿・宗紀・宗城・宗徳・宗陳・宗彰と十一代続いた。

 

『日本城郭大系』16より一部抜粋。

 

 

城の歴史

(ウッキペディア)より

平安時代-安土桃山時代
天慶4年(941):警固使・橘遠保が藤原純友の乱の際にこの地に砦を構えたとされる。

 

嘉禎2年(1236):西園寺公経が宇和島地方を勢力下に置き、砦程度の城を置く。当時は丸串城と呼ばれていた。

 

天文15年(1546):家藤監物が城主となる。大友氏、長宗我部氏等の侵攻に耐えた。

 

天正3年(1575):家藤監物が去り、西園寺宣久の居城となる。

 

天正13年(1585):豊臣秀吉の四国討伐により、伊予国は小早川隆景の所領となる。隆景家臣の持田右京が城代となる。

 

天正15年(1587):隆景は筑前国に転封となり、代わって大洲城に戸田勝隆が入城。戸田与左衛門が城代となった。

 

文禄4年(1595):藤堂高虎が宇和郡7万石を与えられ入城。

 

慶長元年(1596)高虎、大改修に着手。

 

慶長6年(1601):現在の姿の城が完成。宇和島城と名付けられる。高虎は関ヶ原の戦いの功により前年に国府(後の今治市)に移封となっていたが、この年、城の完成を見て国府に移った。

 

江戸時代
慶長13年(1608):富田信高が伊勢国より転封し入城。

 

慶長18年(1613):信高、改易となる。宇和郡は徳川幕府直轄となる。藤堂高虎が代官となり藤堂良勝を城代とした。

 

慶長19年(1614):伊達政宗の長男(庶子のため嫡子ではない)伊達秀宗が10万石で入封。

 

元和元年(1615)秀宗、入城。

 

寛文2年(1662):2代藩主・宗利、老朽化した城の改修に着手。

 

寛文11年(1671)改修竣工。

 

城主石高

西園寺宣久時代:6600石。

戸田勝隆時代:16万石。

藤堂高虎時代:7万石。

富田信高時代:10万石。

伊達時代:10万石。

 

所感

●今では埋め立てられているが昔は海に面した海城であった、もともとは島に近い場所だったかもしれない。

 

●城はさすが近世の城であって石垣もふんだんに使用されている、築城の名手であった藤堂高虎の傑作。

 

●天守閣の周りは切りこみはぎであるが、麓のほうは野面積みである。

●宇和島の教育委員会が整備事業をしており徐々に整備されている。

 

関連URL

【愛媛県】大洲城【大洲市大洲】

【愛媛県】今治城【今治市通町】

藤堂高虎築城の城。

 

参考URL

宇和島城(公式)

宇和島城(ウッキペディア)

城郭放浪記(伊予宇和島城)

 

参考文献

『日本城郭大系』15

『愛媛県の地名』

公開日2021/06/06

ホームに戻る

攻城一覧

 



Copyright © 山城攻城記 All Rights Reserved.