城データ

城名:堀越城

標高:76m

比高:40m

築城年:戦国時代か

城主:不明(乃美氏、白井氏、多賀谷氏に関わりのある人物か)

場所:広島県呉市川尻町久俊

北緯東経:34.240587/132.697392

堀越城はここ

 

攻城記

現在神社の境内になっている。

麓から登っていく。

かなり険しい階段を登るが境内は麓から見えるので頑張れる。

境内に到着、こちらは2郭であり主郭は別になる。

2郭から見た風景。

前方の島は蒲刈島で多賀谷氏の収めていた城になる。

城域はこんな感じ。

本殿裏をみたらこのような感じになっており先がある。

本丸に向かう。

本丸到着。

本丸にも神社がある。

こちらは祠のような感じ。

城域はそこまで広くはない。

一段下。

近隣の曲輪。

近世の畑のようにも思える。

堀越城矢竹。

城を下ったところに真福寺がある。

1577年に禅宗から浄土宗に改宗。

つまり戦国時代には禅宗の寺だったことが分かる。

歴代和尚の墓。

古そうな宝篋印塔。

古そうな五輪塔。

 

近隣には別の浄土宗である宝積寺がある。

宝積寺。

平清盛に縁があるお寺のようだ。

昔ここに清盛が植えた松があったようである。

 

 

ここのお寺にも五輪塔がある。

宝篋印塔は風雨にさらされないようになっている。

宝積寺からみた蒲刈島、前方の小島は柏島。

 

open-hinataより【堀越城】

 

余湖図【堀越城】

当時のイメージ図(余湖図コレクションより引用)

当時の様子

宣教師カブラル神父と川尻の海賊九郎右衛門

中世の川尻で特筆すべき事柄として、熱病に倒れた上洛途上の宣教師フランシスコ・カブラル神父 婦で看病し、「天使」と賞賛された「海賊」九郎右衛門のことをとりあげなければならない。

 

カブラルは元亀(一五七〇)年、イエズス会第三代日本布教長として天草に来着し、翌二~三年、天正二(一五七四)年の二度にわ て、各地の布教活動を視察しながら上洛して織田信長に謁見した。大友宗鱗ら九州の有力大名を改宗させ教会勢力を拡大させることに貢献した。

 

そのカブラルの二回目の上洛にあたって、天正二年二月、山口で三ヵ月間の布教を終えて堺へ向かう彼を岩国から塩飽まで送り届けたのが、「海賊」九郎右衛門であった。

 

カプラルと「海賊」九郎右衛門との間の雇用関係以上の人間的交流について詳細に記しているのが、カブラル神父書簡とカブラルからの伝聞に もとづくフロイス『日本史』である。

 

カブラル書簡をもとにその交流をながめてみよう。

中国地方全域が毛利領国下にあった天正二年、岩国から海路をとって堺に向かおうとしたカブラルは、「海賊の大き な危険」のなかで塩飽まで安全に護送してもらうため「海賊」九郎右衛門を雇い、彼の船に乗船した。

 

当時の航路か 大野瀬戸、広島湾、呉湾を経て音戸瀬戸を通過したものと思われる。

 

途中、九郎右衛門が属する海賊 する別の海賊のうろつく海峡を通らなければならなかった」。

 

カブラルは安全航行のため「別の海賊」の一人を雇うこ とにしていたが、「別の海賊」集団は他の船舶を襲撃して立ち去ったということで、「別の海賊」に遭遇することなく 時峡を通過し、九郎右衛門の「多数の知り合いをもつ村」で一泊した。

 

「別の海賊のうろつく海峡」は 大野瀬戸厳島海域だとわれる。「多数の知り合いをもつ村」とは、あるいは厳島であろうか。

 

カブラルは荒天のもとで九郎右衛門の船で一昼夜を過ごして彼が住む川尻に着き、川尻に滞在して広島で布教をしていた修道士ジョアンがやってくるのを待った。カブラルが自身で広島を視察しなかったのは、一つには体調が悪かったためであった。

 

カブラルは九郎右衛門宅に着いたとたん頭痛と高熱に倒れたが、八日にわたり九郎右衛門とその妻子は力の及ぶかぎり献身的に看病をした。

 

カブラルは「夜中に私が呻くこともしばしばあった。 このような時、海賊は非常に丁寧に、大きな同情を以て何をしてほしいかと尋ねた」と心から感謝している。

 

また川尻 について「ここの部落の住民⋯のすべてが海賊である」「この村はあまり清潔でなかったし、魚しか食べるものがな かった」と記している。

 

ジョアンは川尻に到着すると布教のための説教を始め、九郎右衛門夫婦は改宗する意思を示したが、しかし一人の僧侶がカブラルの出発前にキリスト教徒になることを宣言したという。

 

カブラ ルは、ジョアンが到着した日に浄血をした。九郎右衛門が川尻の住人が害意を懐くことを恐れて早期の出発を促した ので、浄血をした翌日、熱をおして出発した。

 

九郎右衛門はカブラルを「確実に案内する義務を」履行して塩飽まで送り届け、「自分の友人であり、また立派な家 を持つ人のところへ連れて行った」が、彼は九郎右衛門への「慮り」からカブラルを「丁重に扱」った。

 

九郎右衛門は カブラル一行を堺まで送り届けてくれる船を手配し、その船長に一行を丁重に待遇するよう話を付けた。

 

カブラルは 九郎右衛門について「かつて今までこのように善良な盗賊を見たことがない。彼は私に対して、どんな時も盗賊とい うよりも天使であった」と賛辞を惜しまなかった。

 

これらの事からこの地域を支配していたのは乃美氏や白井氏の被官であったものの可能性が高い。

九郎右衛門本人、若しくはそれに関わる人物の城であったのではないか。

 

城の概要

概要

現在神社境内地となっており、かなり破壊されている。

最高所は西端の1郭で、ここから東と南に二段ずつの郭を配している。

その東は鞍部をへだてて広大な2郭がある。

広島県中世城館遺跡総合調査報告書より引用

 

所感

●川尻地区は中世の資料が残っておらず、どのような人物が支配していたか不明。

 

●立派な宝篋印塔や五輪塔が存在していることから、かなりの有力者がこの地を支配していたものと考えられる。

 

●宝積寺の五輪塔の多さからも長期間この地域が豊かであったことを物語っている。

 

 

関連URL

【広島県】大須和城【呉市川尻町】

 

参考文献

『広島県の地名』

open-hinata

 

公開日2021/02/23

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