城データ

城名:今治城

別名:吹上城、吹揚城

標高:12m

比高:12m

築城年:慶長13年(1608)

城主:藤堂氏、松平氏(久松氏)

場所:愛媛県今治市町通

北緯:東経:34.063349/133.006753

今治城はここ

 

 

攻城記

今治城全景。早朝に到着。

大手門。

算木積み。

正面には鏡石がしっかりある。

黒鉄御門

藤堂高虎がお出迎え。

曲輪。

海城にも井戸がある。

 

 

天守閣。

石垣であるが、後世に手が加えられている気がする。

お城には神社がよくある。

堀をのぞむ。

江戸時代に戻った感覚。

風情がある。

天守閣別の角度から。

石垣の積み方が古風。

周辺部。

天守閣別角度。

外周石垣。

 

余湖図【今治城】

当時のイメージ図(余湖図コレクションより引用)

 

城の概要

藤堂高虎公は慶長5年(1600)関ヶ原の合戦に東軍徳川家康方の先方として戦功をたて伊予半国20万3千石を与えられた当時諸大名中随一の築城の権威であった高虎公は内海において海陸の要衝である今治を城地と定め渡邊勘兵衛を築城奉行に木山六之丞を普請方として慶長7年より間9年にかけて城壁高さ6間乃至8間を築き本丸には五層の天守閣その他には櫓城門等二十数棟を配し三重の城濠をめぐらしてそれに海水を導入して当時としては他に類例のない一大平城を構築した。

 

また公は家康に新任され慶長13年伊勢の津に国替え増封されたが天守閣は公が家康から丹波亀山の築城を命ぜられた時、献じて亀山城に移築した。

 

その後今治城は義子高吉が2万石で維持し更に寛永12年(1635)に伊勢長島より久松定房が入城し、後3万5千石で世々10代を経て明治維新となった。

 

現在の天守閣は昭和55年10月10日今治市制60周年記念として再建され往時の偉容を再現するに至った。

 

今治城跡は昭和28年10月9日愛媛県教育委員会から史跡として指定を受けている。

 

今治市教育委員会

 

今治城跡 今治市通町三丁目

慶長年間(一五九六ー一六一五)の藤堂高虎の築城に始まる。

 

寛永一二年(一六三五)に松平定房が入城し、以降明治二年 (一八六九)の版籍奉還まで二三五年間、今治藩主松平家の 居城であった。

 

現在は城塁と内堀が残り、県指定史跡。 慶長五年関ヶ原の戦功で二〇万石の大名となった藤堂 から 高虎は、唐子山山頂の国分城から今治平野の中心に居城 を移すことを計画し、蒼社川北岸の低地を選んで、同七 年六月城普請に着工した。

 

築城以前は小田の長浜・今張 の浦とよばれた人家もまばらな海浜で、本丸の辺りは ふきあげ 砂丘があり、いわゆる吹揚であったという。ちなみに、 今治城は別称吹揚城ともいった。

 

築城奉行は渡辺勘兵衛、普請奉行は木山六之丞であった。

 

城は海水を堀に引いて船溜とし、蒼社川の河水と結ん で洪水の調節をはかる画期的なものである。平城として 規模が広大であるばかりでなく海浜築城は全国でも例が 少なく、高虎はオランダ人が台湾に築いたゼーランディア 城の様式を取り入れたとの説がある。

 

城は慶長九年九 月に完成。規模はおよそ八町一六間四方、本丸は東西四 三間南北四二間で石垣の高さ八間、二の丸東西七〇間南 北六三間、石垣の高さ五間、本丸・二の丸・三の丸の櫓 数計一九、内堀の長さ五七二間半、幅三〇間、三の丸の 堀の長さ七八〇間、幅八間、笹土手通堀幅六間、二の丸 東門を大手とし、門外の東町に組屋敷を置いて、三の丸 北門を搦手とし、門外今治村の地へ町屋敷を設け、城門 は合計九ヵ所にあった(今治諸旧記録)。

 

城跡は現在内堀以 内の本丸・二の丸・三の丸石垣を残すのみであるが、石塁は高峻な直線傾斜の野面積みで、荒く実戦的で、豪壮・ 素朴の感がある。

 

下部外縁には幅二-三間の犬走りを巡 らせ、よりいっそう堅固なものとしている。

 

城郭は現存しないが、沖冠岳筆の今治城絵図と慶応三年(一八六七)半 井梧庵撮影の写真数枚があり、角櫓は二層二重できわめ て素朴・端正なもので、櫓と櫓の間は塀で結んでいる。

 

城主は高虎から養子高吉、寛永一二年には松平定房が入 城して以降一〇代定法に至る。

 

明治二年六月版籍を奉還し、同年一〇月には城郭およ び土手囲並木松、城内大樹すべて入札により取り払い、 伐取りが始まった。同四年八月には城内武器櫓の爆発、 死傷者数名という事故があったが、翌五年頃にはほぼ取 壊しが終わっていたようで、角櫓・塀も同一〇年頃には 完全に姿を消した。

 

明治五年一一月には旧市内の四社を 合祀して本丸跡に吹揚神社を創立した。

 

二の丸跡は公園 となり、内堀以外は大正四年(一九一五)以降、順次埋めら れて市街地や道路となった。城郭の一部は寺の鐘楼や山 門として残っている。

 

『愛媛県の地名』より引用。

 

今治城

今治城は、今治平野の中央部を西から東に向かって流れる蒼社川によって形成された三角州の左岸の末端面上に立地している。

 

北部には瀬戸内海交通の要衝である来島海峡をひかえ、平野南部には国分山城のある唐子丘陵を望むことができる。

 

東部と北部は爆灘に面している。この爆灘に面する海岸は蒼社川の 土砂の運搬堆積作用と波浪作用とがあいまって小規模ではあるが砂丘が形成されている。

 

藤堂高虎が今張の地に今治城を構えたのは、この地が水陸交通の要衝であっ たからである。

 

ただ陸上交通の面に限っては、それが国府山城であってもなんら問題はない。

 

防禦的にやや問題のある地でありながら、この地に城郭を構築した主目的は、その立地からするならばあくまでも海上にあったものとみてよかろう。

 

すなわち、芸予諸島を中心とした瀬戸内海の中央部の制海権を確保するためである。

 

この地に城郭を構築した高虎は、海そのものをよく理解してい たといえる。なぜならば蒼社川右岸にも広大な平坦地があるにもかかわらず、 この地を選んだからである。

 

蒼社川右岸であれば来島海峡を制するには距離的に遠く離れるし、他方、来島海峡寄りにその地を求めるならば潮流が激しく港 として問題があるからである。

 

今治地方は、天正十三年(一五八五)の豊臣秀吉の四国征伐後、四国平定に功 績のあった小早川隆景に与えられたが、隆景は今治地方への入封のないまま筑 前名島に転封した。

 

同十五年には隆景に替わって福島正則が当地方を領したの 、道後湯薬城から今治市国分山城に移って来た。正則も文禄四年(一五九五)に尾張清洲城へ転封となり、その跡に同年、池田秀氏(秀雄)が入封し、国分山 城の城主となったが、慶長三年、朝鮮の出陣先で死亡した。

 

同年、小川祐忠が 入封し、国分山城主となったが、祐忠も同五年の関ヶ原役で西軍に加勢したた め所領を没収された。そののちに宇和島城主藤堂高虎が伊予半国の二十万石を 与えられて国分山城を賜わった。

 

国分山城は河野家代々の城地であって、局地的な城郭としての機能には優れ ていたが、あくまでも河野氏の高縄山城の一枝城の域を出るものではなかった。

 

そこで高虎は政治的城郭の築城を意図して国分山城を廃して、今張浦に城地を 定め、今張浦を今治と改めて築城に着手した。

 

築城着手は慶長七年六月からで あり、繩張りは渡辺勘兵衛が、普請奉行は木山六之丞が担当して、同九年九月 に一応完成したが、作事なども含めたすべての作業がほぼ完了したのは同十三年三月であった。

 

町割ができたのが少し前の同人年であり、この年より本町か ら順次家屋の建築が開始された。高虎は今治在城六年、すなわち、城郭の完成 の年の同十三年八月に伊勢の津に転封し、そののちは高虎の養子高吉の二万石 の居城となった。

 

その高吉も寛永十二年(一六三五)、伊賀国名張に転封となり、 山藩主松平(久松)定行の弟定房が三万五千石をもって封ぜられ、 世襲し、十代城主定法の明治二年(一八六九)の版籍奉還に至った。

 

城郭の規模は『今治諸旧記録』によると、城内の面積約三六万・城外面積 約八一万で、城域の中央部に本丸・二の丸・三の丸を構え、この周囲に打廻 り一〇三〇m、幅五四皿の内堀をめぐらしている。さらにこの周辺に中堀・外 と堀を三重にめぐらしている。これらの堀の水はすべて海水を引き入・ であるため、潮の干満によってその深さは上下するようになっていた。

 

城主 の住居は二の丸に、中堀以内には上級武士を、外堀以内には下級武士の屋敷を それぞれ設け、さらに中堀の北隅には広い船溜りを設けていた。

 

郭の配置は本丸が正方形であり、その北東の一段低い所に二の丸を、二の丸 の北西に三の丸を置き、三の丸は全長一四〇四m、幅一四・五mの三の丸堀を 配している。

 

二の丸東に大手門を置き、三の丸の北に搦手門を配していた。

 

各 郭の規模は、本丸が東西七六m×南北七六m、石垣高五〇m、橋数四、二の丸 が東西一二六m×南北一一三m、石垣高四七m、橋数六で、このほかに櫓は九 か所ある。

 

城塁の外縁には幅四mの石塁による大走りをめぐらしている。高い 石垣の勾配は直線的で、石積みは野面積みであるため、きわめてグイナミック な感じを与える。

 

これら石垣に使用された石の一部は国分山城から運んだもの 戦部から舟で運ばれたものである。

 

『日本城郭大系』16より一部抜粋。

 

城の歴史

慶長5年(1600):藤堂高虎が関ヶ原の戦いの功で伊予半国20万石を賜る。

 

慶長7年(1602):6月11日普請を開始。

 

慶長9年(1604):9月に完成。

 

慶長13年(1608):高虎は伊賀一国と伊勢8郡に転封となり、今治2万石には藤堂高吉を処守で残し、伊勢津城に去る。

※その際、天守は解体し、大阪まで運び、慶長15年(1610)天下普請の丹波亀山城に移築したとのこと。

 

1608~1635まで藤堂高吉が城を守った。

 

寛永12年(1635):徳川家康の甥の松平定房が3万石で就封し、松平家の居城として明治維新を迎える。

 

城主家系図

 

城主石高

藤堂家20万石

松平家3万石

 

所感

●早朝に行ったために、画像が暗いものになっているが快晴時には模擬天守と青空が映えそうな城。

●さすが築城の名手である藤堂高虎が造っただけあり高石垣には圧倒される。

●日本三大海城の1つ( 残りは讃岐国高松城、豊前国中津城)

 

関連URL

【愛媛県】宇和島城【宇和島市丸の内】

【愛媛県】大洲城【大洲市大洲】

藤堂高虎築城の城。

【香川県】高松城【高松市玉藻町】

日本三大水城の1つ。

【大分県】中津城【中津市二ノ丁】

日本三大水城の1つ。

 

参考URL

今治城(公式)

今治城(ウッキペディア)

城郭放浪記(伊予今治城)

藤堂高虎(ウッキペディア)

藤堂隆吉(ウッキペディア)

松平定房(ウッキペディア)

 

参考文献

『愛媛県の地名』

『日本城郭大系』16

公開日2016/06/05

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