城データ

城名:福山城

別名:久松城、葦陽城

標高:28m

比高:25m

築城年:1622年

城主:水野氏、松平忠雅、阿部氏

場所:広島県福山市丸の内

北緯:東経:34.491025/133.361116

福山城はここ

 

 

攻城記

駅からすぐ出たところの石垣。

公園になっているがここも城域であった。

二の丸の石垣。

こちらも公園として整備されている。

屋敷門

 

福山市指定重要文化財 旧内藤家長屋門

この長屋門は 福山城の外濠に面した位置にあさた武家屋敷 内春家の長屋門である。

 

昭和二十年(一九四五)の戦災で城下町の風情を焼失した福山にあって藩政時代を偲ぶにふさわしい貴重な建造物である。

 

内藤家の初代延常は武蔵国(埼玉県)岩槻城主阿部正次の家臣となり阿部家が宝永七年(一七一〇)福山藩主に封じられたとき内藤家三代延真が随従し以後明治四年(一八七一)廃城まで阿部家家臣として仕えた。

 

本建造物は 昭和五十一年三月 所有者である福山市西町中井良介氏より福山市が寄贈をうけ 現位置に解体修理 桜築をしたものである。

 

切込ハギの算木積みが美しい。

素晴らしい石垣。

刻印あり。

排水溝。

400年間の風雪に耐えている。

伏見櫓(重要文化財)

外周を回る。

いよいよ本丸に。

裏から見た福山城。

矢穴もある。

何かしらの建物があった礎石。

天守のを移設したようです。

棗御門跡。

本丸に到着。

周辺部。

井戸跡。

本丸は広大である。

 

史跡福山城跡

昭和三十九年(一九六四)二月七日指定

この城は、元和五年(一六一九)福島正則 の改易により備後十万石の領主として入封した水野勝成が、三年の歳月を費やし構築した 近世の城部である。

 

低い丘陵を利用した平山城で、東南西に二重の堀をめぐらし、北には吉津川を通し、 小丸山・天神山を天然の防塁とした。

 

現在内外の堀は埋められ三之丸と共に市 街化しているが、二之丸 本丸は築城当時の 姿をよく伝えている。

 

城地には、そそりたつ石垣をはじめ重要文 化財の状見櫓・筋鉄御門、市重要文化財の鐘櫓なとがあり、普日の姿をととめている。

 

なお天守閣、月見櫓、湯殿は昭和四十一 年(一九六六)に、鏡櫓は昭和四十九年(一九 七四)に、それぞれ外観復原したものである。

 

城号 敵追山(鉄覆山)朱雀院久松城(華陽城)

 

城主水野氏五代・松平氏一代、阿部氏十代

 

これを確認するのが醍醐味。

本丸石垣。

下をのぞいてみる。

福山城全景。

アップ。

福山城鐘櫓。

どのような建物が建っていたのだろうか。

筋金御門。

雰囲気がある。

二の丸壁面

石垣が無残なことになっている。

史跡

福山城三之丸西御門櫓台跡

本遺構は旧福山城の三之丸西御門の桝形の 南側に存在した櫓の石塁で、現存するものは 櫓の基段の右塁と東側にのびる桝形を構成す る城壁の一部である。

 

元和八年(一六二二)完工当時櫓の建築は 未完成で、その後ついに築造されず、稲荷社 が奉祠されていた。

 

西側には外濠が存在し、福山城の縄張りの 西側外郭の規模を伝える重要な遺構である。

 

 

改修された福山城

ライトアップされた福山城

水野家墓所

 

open-hinataより【福山城】

 

余湖図【福山城】

当時のイメージ図(余湖図コレクションより引用)

 

【正保絵図】備後国福山城図

拡大図。

 

 

城の概要

城の遺構は、道路改良や鉄道敷設、福山駅前整備などによって破壊されているが、現状は概ね把握出来る。

福山湾の北部を画する丘陵端部に位置し、北側は吉津川、他の三方は常興寺山の中心に二重の堀を巡らしている。

なお、伏見櫓と筋鉄御門は伏見城から移築したと伝えられており、ともに重要文化財に指定されている。

 

『広島県中世城館遺跡総合調査報告書』より引用

 

 福山城跡 福山市丸之内一~二丁目

 

元和五年(一六一九)水野勝成が備後国一〇万石に封ぜられ、一国一城の制に従い新しく城地を定め、縄張りを行 って築城。

 

戦国以後の築城史上最後の築城となったもの で、従来の長をとり、最も完成した城郭建築とされる。

 

正式名称は鉄覆山朱雀院久松城。鉄覆山は天守閣の背面 を鉄板で覆ったので付けたともいわれるが、「敵覆山」で 敵を覆滅する意を込めたとされる。

 

朱雀は四神の一つで 南方をつかさどるもの、城が備後の南に位置するととも に南面しているので付けたといわれる。

 

久松は松寿長久 の意を込めて名付けられた。また芦田川の北にそびえるため葦陽城の雅名で詩文などにみられる。

 

芦田川が福山湾を埋めたデルタの基部に存在する孤丘常興寺山を改造 して平山城の形式をとり、前面に広がる沖積平野の上に 城下町を形成した。

 

『広島県の地名』から一部抜粋。

 

福山城

 

福山城は、備後の中心福山の中枢をなす城で、元和五年に水野勝成が備後十 万石の領主として入封後に築城し、以来、水野氏五代・松平氏・阿部氏十代と 江戸時代全期を通じて藩政の中心となった城である。

 

位置としては、福山湾の北部を画する引野の丘陵端部の微高地上にあり、そ こからは福山湾のほぼ全域を望むことができる。

 

築城以前には、現在の市街地 中心部の一帯はほとんど葦原で、わずかに城の立地する野上村常興寺山周辺に のみ農地が開けていたとされているが、新領主水野勝成は、かつて備後国守護 とも 所があり、福島氏時代にも支城の置かれていた神辺城や朝城などと比較のうえ、山陽道に近く、また内海にも通じていることから、新しい領地経営にふさわし い場所としてこの地を選んだといわれる。

 

したがって、以後は城南の葦原を城 下として整備し、さらには広く福山湾の干拓など城下町拡大に努めており、港 を開き、山陽道を南に通すなど、備後の藩治の中心にふさわしく周辺をも整備 している。

 

福山城は、このように元和五年、徳川譜代の臣水野勝成が大和郡山六万石か ら備後十万石の領主として入封し、新しくこの地を選んで、翌六年から城の築 手し、同八年八月に完成したものである。

 

以後、二代勝俊・1 かつみね 四代勝種と続くが、五代勝岑は元禄十一年(一六九八)、幼くして死去したため、 水野家は断絶した。

 

そのため在番として丸亀城主京極縫殿介高或の家老平田数 馬が入城し、山本与左衛門・宍倉与兵衛・曲市良右衛門が代官として入っている。

 

その翌々年の同十三年には出羽山形城主松平下総守忠雅が新たに備後十 万石の領主として移封されてきたが、これもわずか十年間で、宝永七年(一七 一〇)には伊勢桑名に移っており、その後には、下野宇都宮城主阿部正邦が入封した。

 

以後、正福・正右・正倫・正精・正寧・正弘・正数・正方と続くが、 十代正桓の時の明治二年(一八六九)、版籍を奉還し、同六年には廃城となって いる。

 

その後、濠は埋められ、建物も一時荒廃したが、保存会の手で修築され て公園としてよみがえった。

 

しかし、第二次大戦により天守閣などの建物は焼 失し、現在、伏見櫓・筋鉄御門のみが残り、重要文化財に指定され、また、本 丸と二の丸が史跡に指定されている。

『日本城郭大系』13より一部抜粋。

 

城の歴史

元和5年(1619):築城が開始される。

元和6年(1620):洪水により工事が中断される。

元和8年(1622):福山城竣工。

慶安2年(1649):本丸石垣が破損する。

延宝4年(1676):総構に石垣が築かれる。

元禄11年(1698):水野家断絶。

元禄13年(1700):松平忠雅が入封する。

宝永7年(1710):阿部正邦が入封する。

享保15年(1730):本丸御殿の奥居間が撤去される。

寛延3年(1750):二の丸城米蔵の大半が撤去される。

慶応元年(1865):櫛形櫓、槍櫓、鉄砲櫓が焼失する。

慶応4年(1868):福山城開城。

 

城主家系図

城主石高

代々表高10万石であった、阿部正弘から11万石に加増。

 

所感

●平山城で石垣もしっかり残っており見ごたえある。

●本丸部分は広大な削平地があり、当時多くの労働力で築城されたことは想像に難くない。

●石垣は神辺城から移動したとも言われている。

●二の丸付近の石垣が崩れており無残になっているのが残念。

 

関連URL

 

参考URL

福山城(ウッキペディア)

城郭放浪記(備後福山城)

備陽史探訪の会(水野勝成入封時の福山湾の地形)

備陽史探訪の会(福山城下町)

水野勝成(ウッキペディア)

 

参考文献

『広島県中世城館遺跡総合調査報告書』

『広島県の地名』

『広島県地名大辞典』

『日本城郭大系』

公開日2021/05/24

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